十一話

「新入社員の百千ももゆき君って、使えないわねえ。

ランドセルが販売されているのを知らないな

んて。それで営業事務職の積もりかしらね」

 俺を詰るのは、同じ事務職のまきさんだ。い

つの間に席へ戻られたのかと驚き、直視する。

 牧さんは在籍十年の古顔ふるがおの女性だ。又聞き

だが俺より十八も年上の四十歳で既婚者らし

い。人のことを余り言いたくはないが、毎日

お召し物がだらしない。我が社に制服はない

が薄手の室内着で勤務は如何なものか。品格

をお忘れかと思う。幾ら多様性を認める社会

であっても、適切な服装をすべきであろう。

俺も心掛け、スーツを着用しているのだ。さ

りとて、沈黙する俺である。牧さんの小言が

今に始まったことではないからだ。ぜ返す

のが常であり、又かという思いは強い。

 俺の何がしゃくに障るのかはわからない。入社

日に『業務の進め方を御指導下さい』と挨拶

したら、鬱陶しそうに避けられた。俺はもち

ろん歯磨をするし、口臭に気を付けているの

だが、とんだ粗相をしたのかと不安になり、

名前を教えて貰おうにも躊躇逡巡ちゅうちょしゅんじゅんし、すごす

ごと引き下がって以来、小言が続いているの

だ。而も時にせせら笑う。

 新入社員とは物笑いの種なのだろうか。ま

るで、針を一本ずつ刺されてゆくような痛み

を感じる。なるべく接触せずにと思うが、隣

りの席なので逃げられず、何かにつけて嫌み

を言われる日々である。

 あからさまな邪悪とは脅威である。小学生

時代の二の舞にしたくない。だが、争いは避

けたい。小言こごとを言う理由を知りたいけれど、

笑われるとひるむ。暫くは用心を重ねて、虎の

尾を踏まぬようにしたい。物事は熟慮すべし

だ。後の結果を推し量り、それから行動へ移

すのだ。

百千ももゆき君はランドセルの値段も知らないし。

それでよく一枚九十九円の紙袋を売れるわね。

その靴は、ランドセルより安かったりして」

 俺の靴は水牛の革だ。柔らかく、皺が寄ら

ないのに、わからぬらしい。

一寸ちょっと待ってよ。なんで百千ももゆき君が割を食うの。

牧さんこそ、オープントゥのパンプスだ。そ

なりで商社勤務って、話が通ると思えない」

「えっ」

 俺の影が喋ったのかと錯覚した。

「牧さん。おれのパートナーに文句を言うな

んて。あなたは、自然の草木もかわいがれな

い人かな」

 投げ掛けに驚いて見上げると、成城せいじょうさんの

横顔に醒めた目を捉えた。おや、左手で俺の

椅子の背を掴んでくれている。彼の一本勝負

を見届けたくなった。ただ、思慮が足りない

人だと思うので、言い込めなければよいがと、

危惧する。

「えっ。成城せいじょう君。草木って」

 牧さんは、彼が頓珍漢とんちんかんなことを言うと思っ

たらしい。座した儘で怪訝けげんそうだ。

御辞儀草おじぎそうを知ってるかな。虫に食べられな

いように葉を閉じる。生きる意志があるんだ

よ。それに、一輪の菫のために雨が降って、

風も吹くんだよ。大自然が育む草木をかわい

がる人は、人にも好かれるんだよ」

 彼は花や草木をづる人であった。優しい

人なのだ。

「共存共栄の調和の在り方を保つべきなのに、

争う人間の空しさ。ねえ、牧さん。人を不愉

快にさせる話をしないでよ」

 語気が荒く、気分を害したと如実に伝わる。

 しかし牧さんは動じず、空転を続けるが、

「都合が悪いと聞こえない振りをする人みた

い。名前を呼んだ」と、彼は一息入れずに言

い放つ。その頬に、凍てる世界を想起した。

「あのね。パートナーだから何でも知ってい

て当然とする考えはおかしいよ。牧さんは何

でも知っているかもしれないけれど、皆があ

なたと同じではない。もろもろの言動は、営業事務

職の大義名分が立つのかな」

 彼は厳しい言い方をするが、一人の心が取

引先の印象を変えると俺も思う。丁寧且つ慎

めば安全だ。

「そもそもランドセルの販売が始まったのを、

おれが話し忘れたんだから、知らなくて当た

り前なの」

 彼は正直であった。おや、ジャケットの裾

を引っ張った。相手の気を引く仕草であろう。

「情報の共有を怠ったおれの責任だ。それな

のに、聞き耳を立てて、彼を笑うなんて失礼

だ。おれは元より人を笑わない。見括みくびること

はしないんだ。あのね。人生に笑いは必要だ

けれど、人を笑うのは違うでしょう」

 先輩に対する口の利き方は後で注意すると

して、よい言葉を聞けた。彼は人を笑わない。

まるで高山の雪解け水が流れて石を濯ぐよう

に、もやもやとした我が心を払う。俺は彼の

生きざまに清らかさを見出す。自分も、人を

笑う側には決して行かない。彼の想いを感じ

取っている。これぞ共有であろう。

「牧さん。おれは態度が宜しくないと思った

ら、相手が誰であっても口に出して言うよ。

商店街って『持ち』なんだ。引き分けってこ

と。そこまで話を持ってゆくよ。百千ももゆき君に、

謝って」と彼はやや一方的だが、「痛くもない

腹を探られたくないでしょう。百千ももゆき君は一ヵ

月遅れだけれど、正社員で採用だ。自分以外

の存在を認めた方がいい。そもそも他人同士

が集まっているのだもん」とは正論に思えた。

しかし肩で風切る彼に、『返事を期待せず』

と伝えたい。俺は、米倉よねくら部長から教わった。

結果を期せずして働くことで、天地に通じる

働きとなるのだ。それに敬語も使わぬ話し方

では、彼が楯突いたとされ、揉め事になる恐

れがある。

 彼に智恵があれども、上司を通すべきで、

時運を待つのだ。俺を庇って勇敢に立ち向か

うのは有難いが、容赦ないので、そばにいる

俺が動きを制するのだ。

「……成城せいじょうさん」と名前を呼ぶが、彼は己を

量る尺度を忘失したのか、振り返らないので、

肩をすくめる。

「営業担当の成城せいじょう君。ごめんなさい」

 牧さんは神経を磨り減らしたのか、成城せいじょう

んを見上げる目が潤み、肩をはだけた姿で許

しを請う。俺はその素振りに違和感を覚える。

窮地で肌を見せるとは何事だ。世間にはよも

やと思うことがあるらしい。牧さんは人を惑

わす者であった。色香に迷わせ、己の非をご

まかす算段か。さすがは営業部の古顔だ。負

けを認めぬのだ。これは事によると彼が狙わ

れてしまう。言葉を尽くさねばと焦る。

「大変だよ。肩が出ているし、髪が乱れて、

木の根っこみたいで怖いんだけれど。直した

方がいいよ。見窄みすぼらしいもん」

 成城せいじょうさんが見咎めた。彼は聡い。



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