八話

「ふうん。そうか。批判を受けても怒りで対

しないんだ」と彼が惑う。その姿も絶景だ。

「一蹴したわね。百千ももゆき君。お見事。あたしに

その一手は読めなかったわ」

「はいっ」

 顔を綻ばせる清香せいかさんがかわいらしくて、

見詰める俺である。先刻は彼女に職責を問わ

れ、部署の片隅へ追い遣られそうな恐怖を味

わったけれども、過ぎたことだ。彼女は御機

嫌らしく笑顔を見せてくれている。

 俺は先ず先ずの働きをしたならよい。まる

で辛抱が積もり積もって、雪解けに梅花が咲

いた日のようだ。今は乙女の笑みを堪能して

おこう。それにつけても、何くれと好奇心を

くすぐる二人である。無駄口を得意とする成城せいじょう

んと、勇ましい清香せいかさん。俺は、同期に注目

しているのだ。あれもほしい、それもほしい

の俺だけれど、同期として親しくなり、味方

になって貰いたい。そして俺も必要とされた

いのだ。

「何だか負けちゃった。資料でも作ろうかな」

 成城せいじょうさんは活気を失い、自分の席へ向かう。

 今の彼に声を掛けて、仲よくなろうなどと、

早まってはならない。人とはじっくりと向き

合ってみたい。でも、何食わぬ顔はできない

のだ。パートナーを励まそうと見向く。しか

し声の掛け方がわからず、合図も送れない。

 我欲が苦しみを生み、抑えるにも苦しみを

伴なう。黙して考えよう。友人を求める我欲

は、元々あるものとして受け容れたら、苦し

みから解放されるだろう。焦ることはない。

悩むことでもないと気付ける日はきっと来る。

 話声から一転して書類を捲る音に包まれた。

 他人に向き合うのはつくづく難しい。今も群衆の

中にいるようで背中を意識し、何かが触れた

とのけ反り、椅子の背と知り首筋を触る。

 始まりの春でも、カーテンを閉めていると

不安が覆い尽くす。そうして明日に希望を見

出せぬ中、人は青空の有難みを知るのだろう。

俺も広く高い空に心安らかとなれるからだ。

 情報化社会において、人は外出時も携帯に

首ったけだ。空を仰ぐことを忘れていないだ

ろうか。SNSの情報を信じたり、インフル

エンサーを有名人として崇めるようになって

いないか。別の世界にいる人間の言葉で一喜

一憂するよりも、高い空を見上げれば人心じんしん

静かになると思うのだが、俺の考えはずれて

いそうだ。人それぞれに主張はあるものと捉

えてみよう。今の俺は早寝早起きで生活にリ

ズムがあり、調子を整えているので、前向き

な思考で人に向き合うことを心掛けてみる。

 俺は焦らずにゆこう。人に認めて貰おう

とする思いが先に立てば、誠の心が欠ける

ことになる。実直に生きてみよう。

 

 ふと、成城せいじょうさんが永井主任と雑談を交わす

のを見遣る。年下の清香せいかさんに『気概を見せ

て』と鉄槌てっついを下されたのに、あのていたらくと

は驚くが、彼は直ぐに『負けた』と言ったの

である。おいそれと負ける人は、ゆったりと

した心を持つと思う。負けるが勝ちを知る人

だ。俺は常々無理して勝っても空しいと考え

ている。退いて、次の行動へ気持ちを切り替

えた方がよい。自分は元より争うのは避ける

性分である。相手を知れば教えがあると思う。

 成城せいじょうさんの笑みは余裕があるからだ。そし

清香せいかさんの強さは若さ故だ。明朗な同期に

春の兆しを感じ取るのもよい。

 おや、社内メールが届いた。開いて頬杖を

つく。誰もが便りを待ち、歩き始める季節な

のだ。


「我が社の精鋭よ。進捗しんちょく状況は如何かな。今

期の新入社員は、まるで複葉ふくようだ。一人の存在

は小さくても、三人が揃うと頼もしく感じる

な。賑やかな仲間が増えたと取るべきか」

 米倉よねくら部長のお声掛けである。

「そこで、確認しておこう。社員とは業績を

上げるのが使命であり、特に営業職は会社の

名を背負い、商談へ挑むので、立ち居振舞に

留意するのだ」

 突然始まった米倉よねくら部長の弁論に、皆が無駄

話をやめて、熱心に耳を傾ける様子が伝わる。

成城せいじょう君と清香せいかさん。そして遅れて来た百千ももゆき

君。よいかな。上品でありなさい。誘惑の多

い外界に惑わされず、慎むことを知るのだよ。

周りに迷惑を掛けぬ大人になって、丁寧に生

きるのだ」

「はいっ」

 米倉よねくら部長には指導者の器があると見た。私

考ではあるが、人をべる者とは先を見据え、

全体を見るのだ。

 丁寧に生きるのが大人と知る。社会生活は

始まっている。学ぶことを前向きに捉えて成

長し、業務を遂行するのだ。

「一ヵ月を過ぎて、今更めくと思うかもしれ

ないが、新入社員同士で組むのを私は反対し

ていた。何を根拠に冒険するのかと疑義を抱

いたが、『二人の可能性に賭けてみたい』と

いう鶴田課長の熱意を受け、容認したのだ。

親は子供に旅をさせるものであったと、つくづく

う。新たな戦力を試すのも一手。……特に、

成城せいじょう君。期待しているぞ。但し、多弁は無駄

だよ」と重々しい口調に、俺は彼を注目する。

「了解です」

 彼は神妙にしている。俺が思うに、目を掛

けて貰ったのである。部下として有難いこと

だ。


――俺が学生時代にアルバイトをしていた先

は、無精を決め込む人の集まりだった。時給

制でも働くことに変わりなく、ルールを守る

べきだと思った。ところが店長は『アルバイ

ト先で叱られた』と、SNSへ投稿されるの

を恐れていた。ハラスメントだと拡散された

ら、店は御仕舞だと、極端な思考であった。

アルバイトは元々優れた人間に違いなく、雑

に扱うからいけない。『どうせ使い捨てだ』

と、仕事に興味を示さぬ者へ、御機嫌取りな

指導者を信じることができなかった。人を纏

めるのは難しいのだろう。そう思い、荒れた

景色を眺めた。

 月頃の俺は、指導者が必要な意味を忘失し

そうであったが、入社したら素晴らしい上司

に巡り合えた。注意されて己の過ちに気付き、

反省することだ。俺も己の心を見詰めよう。


「そして、勇む様子の百千ももゆき君」

「はい!」

「きみは成城せいじょう君が傍若無人ぼうじゃくぶじんぶりを発揮する中

で、疲労することであろう。そこで、上司と

して提案しよう。必ず休憩するのだ」

「はい」

 おやおや、何事だろう。

きゅうしたら発想を転換だ。八方塞がりになっ

て、初めて天上の星が見えるというものだ。

逆境こそ飛躍の時。きみにも期待しているの

だ。よいかね。如何に道に迷おうとも、月を

見上げなさい。月光が射せば、道が現われる。

その道を笑顔でゆけば、影は怖くないのだよ。

たとえ一人で寂しくても、上昇志向を失って

はならぬ。月も必ずきみを見ているから。上

を見て歩くのだよ」

 上司は、何故に俺が一人で歩くことを前提

にするのだろう。自分には同期がいて、二人

には味方になってほしいのにと、奇妙に思う。

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