六話

一寸ちょっと成城せいじょう君。おいでなさい」

 吉乃きつのさんが彼に手招きをした。あべこべの

気はするけれども、これが先輩後輩の関係で

あろう。しかし、覇気のない彼は、ふらふら

とした足取りだ。何やら会話をしているよう

だが、聞き取れず。吉乃きつのさんが身振り手振り

しているのを、眺める俺である。直に彼がす

たこらと逃げ出し、カタログを書棚へ戻した。

 俺は何が起きたのやらと、パソコンへ向き

合う。業務へ着手するのだ。すると、足音が

近付く。若しやと思って見遣ると、衣擦れが

した。

「よし。おれは遣る気が出た。今日も元気に

行こう。百千ももゆき君の調子はどうかな。きみは、

おれの業務を補佐してくれているもんね」

 彼は机上に右手を置き、足を椅子に寄せて

いるので、俺は見動きができず、苦し紛れに

顔を上げ、「はい。今後とも宜しくお願いし

ます」と答えたら、視界にくるくると回る光

を捉えた。目がうと思いきや、あらぬ方向か

ら、ボールペンをノックする音が絶え間無く

聞こえ、非常時を予見させる。

 意を決して見向くと、白けた感じが漂う女

子と目が合った。彼女は肩にかかる髪も心な

しか揺れており、ボールペンを押すことに集

中している。不貞腐れているのか、声を発し

ないその様子に、俺は脅えてしまう。

意を決して見向くと、白けた感じが漂う女

子と目が合った。彼女は肩にかかる髪も心な

しか揺れており、ボールペンを押すことに集

中している。不貞腐れているのか、声を発し

ないその様子に、俺は脅えてしまう。

 俺を恐怖させる女子の名前も直ぐに覚えた。

 清香七愛せいかななみさんである。成城せいじょうさんと同じく二

月に入社しており、俺と同じ事務職であるが、

清香せいかさんは高卒の十八歳なので、お給料の額

で差を付けてしまった人だ。

 彼女は県内随一の進学校出身と聞いたが、

就職したとは、たぶん事情があるのだろう。

 才色並ぶ小柄な彼女は、社内で小町娘こまちむすめ

でられている。俺も初見で挨拶をした時に、

切り揃えた前髪と美々しい眉毛に品があるし、

目元のぱっちりとした子なので、益々緊張した

ものだ。しかし水色のピンが純真な印象で心

が揺れ、一礼した。そして彼女が椅子へ深々

と座る姿に見惚れたものだ。靴の爪先を揃え

て、灰色がかった桃色のスカートの裾が広が

る様は、花房のように美しく、欣喜雀躍きんきじゃくやく

たくなるほどであった。正に面向不背めんこうふはいと感じ

たのを覚えている。

 人間とは静かに、温かく。そして優しくあ

れば、やがて時人じじんに愛敬されるのだろう。せい

さんは、喜んだり怒ったりと、表情を見せ

てくれるところが、とてもよい。年下の子は

かわいらしいと思っているのに、俺をいぶかるあ

の様子は、まるでのら猫に嫌われたのと似た

切なさを覚える。たまに庭を歩くのら猫も、

相手を見定める。御飯という利益をもたらさ

ぬ者には、寄って来ないのだ。かわいがりた

いのに振られたのである。あのもやもやとし

た時間を忘れたかった。だが、子供へ接する

ように、身を低くしたらよいかもしれぬ。


「……清香せいかさん。お疲れ様です」

 俺は小さく頭を下げ、御機嫌を伺う。

「あらゆる人に平等でありたいのかしら」

 低い声音で苛立ちがあらわであった。而も競う

のかボールペンを動かし、椅子から立ち上が

ると、俺のパソコンに付箋ふせんを貼り付けた。そ

の勢いでパソコンが揺れ、おののく俺である。

 付箋ふせんを見ると、独特な書き振りで、およそ真

心を感じないし、『気が散るわ。そのおしゃ

べりを外回りへ行かせてよ』とあった。注意

だろうか。まるで、はしこい子供のようだ。

俺としては、業務はどうかこうか臨めるが、

たとえ憤然でも穏やかに迎える心でいよう。

そこで机の縁に指先を揃え、成城せいじょうさんを見上

げ、「あ、あの。本日はどちらへ営業に行か

れますか?」と聞いてみる。

「ここ。だって、百千ももゆき君は中々話掛けてくれ

ないもん」と、にっこりされるし、『それは

あなたに興味がないからよ』と風が吹く。故

清香せいかさんを恐る恐る見遣ると、睨まれた。

うなだれる俺である。生きた心地がしない。

 人間とは、天命を待ちて正直に生きれば開

運すると信じたい。さりとて困惑し、更にせい

さんがボールペンに爪を立てるのを見て

しまった。彼女は体調が宜しくないのか。将又はたまた

小心者は大人物を真似てはならぬとの注意な

のか。世間とは海と同じだと、耳にしている。

荒波に呑まれぬ大船らしき商社を選んだが、

人のいる浅瀬を知らずにいた。清香せいかさんの指

示と成城せいじょうさんの関心は、一方に傾けず。

百千ももゆき君。あのね。おれは入社日がきみと同

じだったかも。新卒採用滑り込みなんだ」

「えっ」

 俺が聞く姿勢を見せると、成城せいじょうさんは微笑

し、「他社から内定を貰ったけれど、社則に

納得できなかった」と社友の前で言った。何

が不満かわからぬが、意を決したのであろう。

「車通勤は許可しないって言うんだ。そんな

こと聞いてなかった。電車と車の両方を認め

てくれないと、電車が遅延したら困るもん」

「それは……わかります。雪が降るとダイヤ

が乱れますから」と頷きつつ、それを計算し

て行動してほしいものだと思う。そもそも彼

は車通勤でも遅刻しそうな日々である。しか

こうして遅延と言ったので、元より電車を利

用する気はなさそうだ。他社からの内定を辞

退したのは恣意しい性故だろう。俺のことは扨置さてお

き、彼は思慮が足りないけれども、おもしろ

い人である。彼との会話は愉快なものだ。

百千ももゆき君がにこにこしてくれて嬉しい。ご褒

美を貰ったみたいだ。きみは飛び切りの笑顔

を見せてくれるから、楽しい気分になるんだ」

 おや、よく見ていてくれたと、心の安らぎ

を覚える。さりとて、日々が楽しい訳ではな

い。ただ、笑顔を心掛けていれば楽しくなれ

ると思っている。その所以ゆえんは、和顔愛語わがんあいごとい

う有難いお言葉だ。自分が優しい言葉と笑顔

で人に接すれば、相手も笑顔で応じて下さる

との教えで、俺は他人へ向き合うために実践

すべしと心得た。決して誰とでも仲よくなれ

ると楽観はしないが、社会は未知なる世界な

ので、味方は必要だと思う。印象をよくして

損はない。お互いに笑顔なら、良好な人間関

係を築けるであろう。

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