三話

「無礼は元より余裕を持って出勤しなさい。

今一つ覇気がないのも、一考に値するわよ」

 吉乃きつのさんが問題の核心をえぐる。皆が静観だ。

 何せ吉乃きつのさんは、この春で勤続五年目に突

入したという我々の先輩であり、言わば事務

職の旗手だ。情報では三人の子供を育てるシ

ングルマザーでもある。

「返事をしなさい」

 緊張感のある家庭をかいま見る思いがした。

 注意の仕方は弥が上にも冴える。俺は釣ら

れて背筋を正す。自称淑女。他称粛清の人君じんくん

は、たぶん俺より十五は年上だと感じている。

 さて、注意された彼に注目すると、悪びれ

た色もなく、ミニ扇風機を襟元に当てた儘で

椅子に腰掛けて足を組むではないか。

「だって、ネクタイの色で迷ったもん」

 彼の飄々ひょうひょうとした口振りに対し、俺はあっけ

にとられていたら、「花曇りだと余所見した

くなるし、いっそ一日寝て過ごしたくなるな

あ」と夢現ゆめうつつである。さては吉夢を見たのだ。

「冴えない話だわ。そのうち鞄を忘れて出勤

しそうね」

「そうかも」

 彼は馬耳東風と聞き流す。

「あなた。社長から格好良いと褒められたか

ら、調子に乗っているんでしょう。若さ故と

上司が注意しなくても、わたしは断じて容認

しない。パートとはいえ、お手伝いの積もり

ではないから、言わせて貰うわよ。十分前に

出勤。元気に挨拶。この当たり前のことがで

きる人は、信用されるの。人の見本になりな

さい。確たる信念を以て生きなさいよ」

 吉乃きつのさんは、説き起こし説き来たって実に

三分、営業部を魅了した。

吉乃きつのさん。気落ちしちゃう。堪忍して」

 彼は奇妙である。礼儀とは生活の基本であ

ろうに、どこで基礎を落としたのだろう。俺

と同じで、ベッドの上に置いて来たのか。お

かしい人と思いつつ、パートナー故に目を向

けている。容貌も見る。本日も清らかなり。

相手の短所を見るのではなく、長所を見付け

て真似る努力が吉なのだ。

 俺は彼の格好良さも認めているが、生きざ

まに関心を寄せており、精細を欠く態度を褒

めはしないけれども、憎めないのである。彼

とはパートナーであることを持続させたい。

「……まあ、吉乃きつのさん。間に合ったからよい

ではないか。成城せいじょう君は今後気を付けなさい」

 上司は注意をしないのであった。彼が漸く

起立して「はい」と返事をし、直ちに座る一

連の動作をつぶさに観察してしまった。今朝はとみ

に好奇心をくすぐる。すると彼と目が合った。

「何? 百千ももゆき君。もじもじしてどうしたの」

 彼が顎を撫でている。気色を損じたのかと返

事に迷うが、この瞬間に言葉を練ろう。

「……あの。爽やかだと思いまして。ネクタ

イ姿の男子は凛々しいと、あなたを眺めて気

付けました」

 彼はネクタイも洒落ている。青い色がよく

似合っているし、好きな色を聞いてみたい。

「ふうん。きみもネクタイを締めているのに。

でも、真率しんそつさのある百千ももゆき君に褒められると嬉

しいな。きみは人好きもするし」

「喜んで頂けて嬉しいです」

 俺は、言葉がほしければ相手を先ず褒める

ことだと、知人の挨拶から学んだ。喜びを与

えることで、自分も喜びを迎えることができ

ると感じたのだ。何とか会話ができたし、せい

じょうさんは俺をなみしなかった。リズムが大事

だ。次の言葉も彼の長所をと思って眺めたら、

彼は両手を広げて凝視している。何事だろう。

「今朝、車のボンネットに、花びらが付いて

いて」

 彼は恣意性しいせいがあるけれども、指を曲げて嗅

ぐので、さては手の甲で拭ったのであろう。

「匂いがしないみたい」

「はい」

「ほら。花の影もない」

 彼が招き猫のように手首を曲げて微笑むの

で、俺は呼ばれたと勘違いをしそうだ。彼は

たぶん、人懐っこいのだ。

「あの。花びらと出勤するところだったなん

て、始まりの春らしいですね」

 人への声掛けも、焦らず怠けずに、淡々と

してゆこう。俺は他人へ向き合わずに生きて

来たけれど、成城せいじょうさんに関しては、その容姿

に動ずることなく接したいものだ。毎日、姿

を眺めているので、会話は臆すことなくでき

る。そう思うと、実のある一ヵ月であったと

いえる。しかし、実質二十日かなと、指折り

数えてみた。

百千ももゆき君の指が細くて綺麗だな。竹細工みた

いだもん。あれ。指が六本あるみたい」

 動きが不自然と気付き、「五本ですよ。で

も、見て下さって嬉しいです」と感謝の思い

を添えた。俺は親に褒められた思い出がなく、

それに人前なので、本当は動揺していた。故

に右手を左手で隠す。

「ふうん」と彼が柔和になる。

「その仕草が男子にしては品がある。百千ももゆき

はかわいいね」

「えっ」と、話に艶を付けているのかなと思う。

「きみが入社する前の一ヵ月を思い出せない」

 俺がいてよかったということなら、有難い。

 それに、彼は俺の仕草を真似してみせた。

「きみは、新卒採用者が出揃った後に入社し

たけれども、よくついて来ている」

 彼はまるで上司のようにのたまう。

「そう仰って頂けると、励みになります」

「楽しそうだね。初見で人の善し悪しはわか

るらしいよ。商談で活かそうと思うけれど、

おれには曲者がわからないかも。おかしな人

に出会ったことがないもん。異変に気付ける

ものかな」

 朗らかな彼に迷いがあった。外回りによる

苦悩のほどが読み取れる。しかし、俺は彼の

不平不満を受け止める余裕がない。人と向き

合うのを避けて生きて来たので、対処する術

を持ち合わせていない。故に黙る。元より自

分がわからぬ儘なのだ。


――俺が一か月遅れで入社したのは、恥ずか

しい経緯がある。夏頃に、別の会社から内定

を貰っていたが、希望していた営業部ではな

く、総務部への配属との通知を受け取り、仰天

した。俺には資質がないのかと懊悩おうのうの極みで、

ミーティングの会場へ行く気になれず、内定

を辞退するに至った。考えなしで行動したか

ら、失敗したのである。それは、年が明けた

一月のことであった。

 俺は再び就職活動へ情熱を燃やした。先を

見据えぬ俺に対し、降り暮らす雪で電車が遅

延する日は続いた。無彩色の世界で、無味無

臭の雪に凍てる。爪先から氷る気がした。

 停滞の原因は、自我欲が強いからであった。

 そして、情熱だけでは成せず。失敗から学

び取り、反省することだ。会社員を志すから

には、世のために生きるべしと気付くのに時

間を要した。果たして自分は社会に通用する

のかと悩み、孤独であった。さりとて、俺が

落としたボールペンを、意中の会社が拾って

くれた。追加募集のお知らせであった。

 俺は面接まで漕ぎ付け、約束の時間を守る

べく、難儀な雪道を歩いた。会社員になりた

いからだ。

 外界では特性を活かし、動画を作って生計

を立てる人がいる。だが、俺には不眠症の母

親と、早期退職した元会社員の父親がいる。

仕事で挫けた父親に意識を傾け、息子の自分

が社会へ羽ばたくことで、励ますことができ

ると、前向きに捉えた。

 父親に併せて母親も働けぬ状態で、俺が背

負うものは重かった。しかし、面接では努め

て笑顔でいたのが功を奏したのか、採用され

て胸が躍り、家への道すがら余所の畑に梅の

花を見掛け、祝福に足を止めて涙を流した。

 入社日は三月三日で、先に内定を貰った組

より、一か月遅れになった。俺としては引け

目を感じず、ゼロから始めるのだと、決意も

新たであった。春は誰もが出発の季節なのだ。

胸を張ろうと思い、通勤用の靴を購入した。



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