二話

「これからは、周りを見る余裕が持てるとよ

い。うむ。きみの笑顔には秘訣があるようだ。

花は語らずともその姿が人に感銘を与える。

百千ももゆき君の努力する姿は、全社員に吉運をも

たらすであろう」

「光栄です。激励に感謝して、頑張ります」

 足が地に着いた上司に一礼して、静かに自

分の席へと歩いた。新入社員の顔を覚え、お

声掛けして下さるとは、寛仁な上司である。

 ふと、SDGs十七の目標には、『パート

ナーシップで目標を達成しよう』があると思

い出す。我が社は時代に沿うのだ。

 経済変動の渦に見舞われるご時世である。

 現状維持を求める者は失意が大きいと、人

から聞いたことがあった。俺は、常に変化は

あるものとして、受け容れる柔軟な心を持ち

たいと思う。しかし、業務とはわずらわしい。先月

の俺はおろおろしつつ、新人なりに頑張った

のだが、又一ヵ月が始まった。俺の知る限り、

黄金が買える金額を計上し、業績を潤した筈

なのに、社内はお祝いする雰囲気ではない。

『今月も』とは一から出直しのようで沈鬱だ。

 立ち詰めの車内から出ても辛抱である。

 会社とは、ひたすら走り続ける電車らしい。

 そして独楽鼠こまねずみのように働くのも、俺だけで

はないのだろう。社会人には固定給という安

心感はあるが、お給料を戴くために自らの労

働力を提供することが前提だ。休憩できぬと

思わずに前を向こう。

 怒涛どとう逆巻く大海のように受注するのを、躍

り上がればよいのである。世界が激動し、景

気の低迷が報道される中で、受話器を耳に宛

てがい、仕事があるのは有難いことなのだ。

――俺はかつて学生時代に学費を工面するた

め、アルバイトを掛け持ちした。平日は日本

茶を淹れるバーで働き、週末はスーパーの朝

市で豆腐を売った。時間に追われ、お金を追

い掛ける日常に疲弊したので、拘束時間が決

まっている社会人に憧れた。行き先を一つに

定めるのは向上心を育むらしく、社会へ羽ば

たけたので、これからはやっとの思いで暮ら

すのではなく、頑張る姿を親に見せるという

心の余裕も持ちたい。俺は人の役に立つ仕事

をしたいと思う。配属された営業事務職で販

売の経験を活かせるとよい。贈答用の茶葉に熨

斗紙のしがみを付けた時のように、丁寧でありたい。

 

 一方で、会社は永劫不変なのかと懸念する。

 何しろ取引先の一つが倒産したばかりなの

だ。その一件は一社員の俺にはつまびらかでない。

されど、米倉よねくら部長が納入品の回収と代物弁済、

併せて債務回収のために先方の説明会へ出向

いたと聞いて、経理部ではなく管理職が動く

のかと、事態の大きさを知って衝撃を受けた

のだ。俺の推測だが、倒産したなら借金の返

済は疎か売り掛け金も払えぬ状態であろう。

それでも金銭を求めて人が行く。もはや食べ

る部分のない魚を取り合う図が読める。しか

し、決して余所事と思わず、我が社は人様へ

迷惑を掛けぬように努めることだ。

 人間に限界はあるが、真理は限りなしだ。

 探求心を持ち、諦めずにいることで世に益

することはあると思う。俺は会社に在籍する

のを奇跡と感じ、明日も自分の席があるよう

にと、真摯に業務へ臨めば吉となるだろう。

 安定した生活の実現は難しい。正社員であ

ろうとも、会社あってのことなのだ。世の動

きを注視しつつ、静かにこつこつ働こう。諦

めなければ福は来ると思い、今を生きるのだ。

……座しているとスラックスの波状に気付く。

 少し痩せた。心を整えるには、矢張己を見

詰めることだ。



 おや、軽やかな足音が聞こえ、我に返る。

 まるで波間に魚が飛ぶようで吉兆を捉えた。

「うっかり寝坊したけれど、間に合いました。

お早うございます」

 営業担当の成城頼せいじょうらいさんだ。目元の涼やかな

彼は、人馴れした朗笑も素敵で、学ぶべきも

のがある。しかしパートさんより遅い出勤で

も悪びれぬ。細かいことにこだわらない彼は、

業務上で、俺のパートナーなのだ。

百千ももゆき君。お早う」と彼の息が弾むので、大

急ぎで社屋へ駆け込んだのが如実に伝わる。

成城せいじょうさん。お早うございます」と会釈した。

 彼とは同期であるが、俺は追加採用の身で、

而も一ヵ月遅れの入社故に、引け目を感じ、

丁寧に接している。それにつけても彼は美々

しい。上背もあるので、社友の注目を浴びる

ようだ。故に遅刻したら益々目に立つだろう

から、彼が無事で安堵する。それに、彼が俺

の名前を呼んで挨拶したのは初めてなので、

耳に残る。明かるい声音で呼ばれたなと、妙

くすぐったくなり、座した儘で見上げる。今朝

は生き生きとした印象だ。何と無く御機嫌と

感じるのは、いつもは覇気がない人だからだ。

 俺の知る限り、出勤時の彼は調子が宜しく

ない。気怠そうに表情を曇らせ、尚且つ無言

で自分の席へ向かうので、とんでもない男子

なのだ。おや、欠伸をした。気儘なのだろう。

ネクタイは締めているけれど、学生気分が抜

けていない様子だ。しかし上司はお目零し。

たぶん、部下を支配する気はないし、成城せいじょう

んの活躍に期待して大目に見るのだろう。直

近は容姿の優劣を語らぬものだが、人は第一

印象を重視する。若く美しい男子が商談に現

われたら、先方は絆されると俺でもわかる。

さりとて、先方に挨拶をしているかは定かで

はない。何せ覇気のない人である。

 社友が見守る中、彼は奇術を始めるかのよ

うに、机上を厭悪えんおし、襟元に触れる。

「汗かいた。駐車場から走って来たのは大失

敗」と上司の前で不平を並べるし、ミニ扇風

機を取り出すので、俺は目を疑う。

 部署に風が吹く。しかして床の軋む音が聞こ

え、『山が動いたぞ』と誰かに耳打ちされて

見向くと、黒いパンプスが威容いようを現わした。

圧倒的なそちらの女性は上司へ一礼し、凛然

たる態度で彼へ向き合う。皆がたなごころを合わせ、

未来を託すと、「そこのあなた。成城せいじょう君。わ

たしは看過しないわよ」と鶴の一声だ。勇ま

しい女性はパートで働く吉乃きつのさんである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る