春陽、薄明かり

 参考書を開いて5分が経った。教室に入室して「ありがとう」と言ってから、一言も話していない。1分経つまでは話さないことが不自然な空気だったが、それ以降は今更話すことの方が不自然な空気に変わった。だが僕は話したこともないのにじっと見つめたり、わざわざ同じ空き教室に入ってくるなど既にこれでもかと不審な動きをしているので半ばやけくそである。


 「ねえ、この教室って使用禁止じゃなかった?」

 「え?」

 「もしかして知らずに使ってるのかなって思って」

 「使用禁止なのは知ってるよ」

 「え、悪いことじゃないの。それ」

 「ふ、ふふ。あなた人のこと言えるの?」


 初めて彼女の笑顔を見た。


 「あー、俺は普段図書室にいるんだけど今日は書庫の整理があって10時半で閉まっちゃって。静かなとこが良いから普通教室使っちゃおうかなって思ってさ」

 「知ってる」

 「え?」

 「よく図書室来てるよね」

 「え、なんで知ってるの?」

 「たまに私のこと見てるでしょ。今朝も目合ったし」

 「それ、ごめん。謝りたかったの。あ、え?今までも見てたのも知ってたの?」


 思ってもみなかった返答に裏声になってしまう。


 「本当に見てたの?お花見てただけとか、適当に誤魔化したらいいのに」

 「確かに……」

 「あなた、面白いんだね」

 「いつもなんとなく見入っちゃって。不快にさせてたらごめん」

 「いいよ。気にしない」

 「名前、なんていうの?」

 「陽葵ひなただよ。陽だまりの陽に、葵って書くの」

 「当て字?これでひなたって読むんだ」

 「みんなそう言う。見た目通りひまわりから取ってて、一応この字でもひまわりって読むんだって。あなたは?」

 「蓮葉 碧です。蓮の葉っぱに、紺碧のへき」

 「珍しいね、苗字も名前も。中性的だし」

 「はは、みんなそう言う。ひなたって読み方も結構男の子にも女の子にもいるよね」

 「そうかも。友達にもひとりいる」

 「陽葵さんって呼べばいい?」

 「陽葵でいいよ。同学年でしょ。逆になんて呼べばいいかな」

 「俺あだ名が多くてさ、みどりとか、はすとか、あおとか、呼びやすいように呼んでよ」

 「じゃあ、あおって呼ぼうかな。碧の字があおとも読むからってこと?」

 「そう。昔ひとりだけあおって呼んでくれる人がいてさ、今はあんまりそう呼ぶ人いないんだけどね」

 「そっか」


 全くの初対面の人と話すなんてほとんど経験の無いことだったが、ささいなことから話が広がり思っていたよりもキャッチボールは成り立った。


 「勉強中に話しかけてごめんね」

 「あ、私もうそろそろ帰るよ?今日吹奏楽部の練習いつもより早いみたいで、早い子はもうそろそろ来はじめるだろうから。あおも怒られたくなかったら早めに帰った方がいいよ」


 時計は短針が11の字を回り、長針が3の字に差し掛かっている。気がついたら30分近く話していたみたいだ。


 「抜かりないんだね。帰り道どっち方向?」

 「怒られたくないから。帰りは駅の方だよ」

 「俺も駅だからさ、一緒に帰ってもいい?」

 「うん。いいよ」




 教室の窓からは春の陽が覗き込む。電気の付いてないこの部屋は、太陽光の明るさのみで視界を保っている。仲良くなれた嬉しさで覚束無い手のまま、結局進まなかった参考書を鞄に詰め込んだ。

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