春雷、岐路

 「あ、ごめんね。今日書庫の整理があって10半時までの開館なの」


 図書室の司書さんに話しかけられ、ペンを止める。この人は松井まついさんといい、図書室に通ううちにたまに話すようになった。今日は新書にラベルを貼ったり、ボロボロになってしまった本を処分したりする日らしい。


 「分かりました。すぐ出ます」


 手早く荷物をまとめて図書室を出ようとすると、松井さんにまた話しかけられた。


 「今日、本当は終日閉館にするつもりだったんだけどね、もしかしたら貴方が来るかもって思って朝だけ開けてたの」

 「そうだったんですか。わざわざありがとうございます」

 「いいのよ。いつも来てくれるよね。この学校の司書に就いて5年くらい経つけど、休み期間中の、しかも朝に来てくれる生徒さんってなかなかいないからこちらこそ感謝してるのよ。せっかく朝早くに開けても誰も来なかったから、ちょっと寂しいじゃない?」

 「いつもありがとうございます。松井さんのおかげでこれからも朝の図書室を独り占めできます」

 「ふふ、また来てね」




 さて、どうしよう。解いていた参考書のキリが悪く、もう少しだけ勉強してから帰りたい。この学校には図書室以外に勉強できるスペースとして自習教室棟があるが、お昼前から3年生の春季講習が始まる。授業が聞こえて気が散るというよりは、受験を意識するのが嫌でできれば避けたい。悩んだ末、本当は吹奏楽部と演劇部以外使用を禁止されている普通教室でこっそり勉強することにした。




 目的地の手前で、ふと見た教室の中に予想外の人物がおり僕は目を疑った。彼女だ。僕の鼓動は急激に早まる。話してみたい。さっき見つめてしまっていたことを謝りたい。僕は別に極度の人見知りでも、彼女が意中の相手な訳でもないが、知らない人に話しかけるというのはやはり緊張する。一度お手洗へ行って落ち着くことにした。どうせここで話しかけなければ今日の夜には勇気を出せなかったことを後悔する。そう自分に言い聞かせて教室に戻った。しかし、そこに彼女の姿は無かった。肩透かしを食らって立ち尽くしていると、自分が今来た道と同じ方向から彼女が現れた。


 「あ、あの、こんにちは」


 予想と違う状況にたじろいでうまく発声できない。


 「こんにちは」


 微笑んだのか無表情なのか判別のつかない表情で彼女はそのまま教室に戻っていった。このまま教室を後にすれば二度と話すことがないのだと、直感で分かった。僕の肌はその体温を少し下げる。


 「あの!」


 勢いよく扉を開けて、もう一度話しかける。


 「はい?」

 「俺もここで勉強していっていい?」

 「どうぞ」 




 多分、この日から僕は僕の人生を不可逆的に変えてしまった。

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