ねこがわすれないこと。

あの人が私の名前を呼んでいる。

愛おしいその声に、優しい優しい祈りをのせて。

もっと、よく聞かせて。

甘えたような声が漏れた時、それは突然に終わりを告げた。


ぼんやりと目を開くと、孫が隣にいた。

何度か瞬きを繰り返すと、目を覚ましたことに気がついた孫は柔らかく微笑む。

「ふくちゃん、おはよう」

この子の声は、出会った時と変わらずずっと優しいままであった。

細く、綺麗な指が私の頭を少しだけ撫でる。

ぐる、と喉を鳴らすと、この子は一際優しい手つきでもう一度私の頭を撫でるのだ。

あぁ、似ている。

…似ている?突然湧き上がってきた言葉に、私は少し驚き、体をこわばらせる。

この子が、誰に?

思わず孫の顔を覗くと、彼女はその大きな眼を細めてゆるりと笑みを作った。

「ふくちゃん」

そうして、大切そうに私の名前を呼ぶのだ。

その姿が、声が、夢の中のあの人と重なる。

いつものようににゃおんと返事を返そうとして、失敗した。

誤魔化すようにぐるりと再び喉を鳴らす。

ねこは、知っている。

さよならが哀しいものだと知っている。

愛おしい人ほど哀しくなると、知っている。

孫が、私の頭を撫でる。飼い主とよく似た優しい手つきで、その手が暖かいことに気づいてしまうともう駄目だった。

愛おしい。愛おしくって堪らない。

その手が、声が、この子の全てが愛おしい。

飼い主とのさよならが最後のつもりだった。

あんなに哀しいことは、もう二度と要らないと決めていた。

だって、ねこは忘れないのだ。

誰1人だって忘れてなどいないのだ。

彼も。彼女も。あの子も。あいつも。飼い主も。あの人も。

ねこの名前に込められたそれぞれの祈り、足音、匂い、温度、そしてさよなら。

もう二度と要らないと決めたのに。それでも、この子が愛おしくなってしまった。

名前を呼んで、とねこは思った。

ねこの耳はすごく良いけれど、さよならしてしまった声はどんなに頑張っても聞こえない。

いつか私は、あなたを夢に見るでしょう。

だからそれまではあなたの声を聞かせて。

ねこは忘れたりしないけれど、それでも少し寂しく思うから。

甘えるように鳴いた私に応えるあなたの声を、ねこは生涯忘れないのだ。

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百万年を生きるねこ 東かおる @Azuma_k

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