亡霊は帰る、遥か入道雲の向こう側

森本 有樹

亡霊は帰る、遥か入道雲の向こう側

 どういう訳か、この状況下で父親の事を思い出していた。

 昔の大戦で、パイロットだった父親は、自分の記憶に有る限りは、とても静かで、まるで心ここにあらず、といった炭酸が抜けたサイダーみたいな顔をしていた。

 そんな父親が唯一正気を取り戻すのは、飛行機に乗る時だった。農薬撒きのための飛行機を引き出す時の父は若返りでもしたかのように元気さで背筋もしっかり伸ばしていた記憶がある。そして、戻ってくると、また、ぼんやりした様子で空を眺める姿に戻る。

「もしかしたらば、ああやって空を見ているのは、昔の親友がそこにいて、その人たちが見えているからかもね。」

 そんな母の話を真に受けて子供の頃、父と同じベンチに座って八月の空を眺めたことがある。大きな入道雲が出ている日だった。

 父は時よりなにかをぶつぶつと言っていた。タリホー、6オクロック、今助ける。3は牽制打、そんな独り言。

 父さん?尋ねると父の魂は地上に戻り始め、完全に着地した後、昔話を語った。ああいう雲には敵が隠れていて、当時のレーダーの未熟さと相まって何度も奇襲を食らった、と。

 それから父は立ち上がると空をひと睨みして、あの戦争の終わりも空にこんな入道雲があったなあと言うと家に戻っていった。翌年、父は行方不明になった。農薬撒きの帰りが遅いと母が通報した翌日、父の機体は無惨な姿で山腹に突っ込んでいることが確認されていた。遺体は今だ確認されていない。

「あの人は、空で死ぬ訳がない。」母は半ば冗談とはいえ父の死を認めていない。自分も、大きくなるまでは、また、あの情けない顔がドアを開け放つのではないかということを真剣に信じていた。

 その父の影響は受けたが、軍隊に合わない自分は、民間の訓練学校に通い、まあまあな規模の新設航空会社に入社した。

 そして、今、危機を迎えている。


「機長、TACANダメです。」

「VORはどうだ?」

「反応ありません!」

 万事休すだった。

 転職したLCCはブラック企業で、危険な空模様を無理矢理離陸させられた挙げ句、これだ。

 空中で落雷を一発。おかげで航法計器が死に絶えた。位置を示すのはただ、方位磁石だけだ。操縦はできるのが幸いか。

(まずいぞ……自分の位置が分からない。)

 よりによって真夜中の洋上でのトラブル。今だ機体は切れ目ひとすらない雲の中、時々鳴り始める警報。燃料計の減りも明らかに早い。これはモタモタしていたら燃料切れでドボンだ。無線?PAN!PAN!PAN!で待ち人返事せず。万事休すだ。

 飛行時刻と平均速度からなんとなくで位置を割り出しが、ズレはどれくらいか、そのずれを修正して滑走路に入るまでの燃料はあるか……燃料の減り方を見る限り、あまり明るい話はできない。雲の下へ?息継ぎをするエンジンで高度を捨てるのは、やりたくない。第一、予想位置が正しいならば、目指せる位置にある空港の近くは山ばかりだ。もし雲が低い所まで垂れこめていれば、突っ込む危険はいくらでもある。

 さて、どうするか、内心の焦りを押さえながら反転する。あらゆる疑問が湧いてくるが、システムが全てお釈迦になった現状ではもはや確かめようもない。

その時だった。

『こちらはコヨーテ21、聞こえるか、民間機?』

 先程まで空電一つ鳴らさない無線から声が聞こえた。

慌てて外に目をやってそこに飛行機がいるのを確認した。随分と古めかしい機体だった。

『無事か?』

『こちらはカタバシス814便、飛行には問題ない。だが、長距離無線と航法が全部死んでいる。近くの飛行場まで誘導していただけるとありがたいのだが。』

『コピー、貴機を誘導する。ついてこい。』

『ありがとう。』と返答して余裕が出たのか並走する機体に視線を動かす。父親が乗っていたのと同じ機体だ。……国籍は見えない。黒っぽい塗装の機体は時より雷で輪郭が浮かび上がるが、合成写真の様にくっきりとしすぎている様な気がする。だが、それを詮索している暇はない。コヨーテ21の後についていく。それでも、明かりをつけるだけ付けているせいか、やはりその機体は良く見える。真っ黒な雲の中、エンジンが止まった時に備えて高度を維持しながら飛ぶことを伝える。幸いエンジンは動いている。ただ、左の推力が少し怪しいか。それを伝えると、戦闘機はこちらに合わせて速度を落としてくれた。

『814便へ、チャンネルは開けている。無線の送受信確認のために雲の下に出るまで、何か話をしてくれ。』

 そうだな、と自分はこの情景で思い出すことを適当に垂れ流した。昔、夜まで遊びすぎて山の中で一人になった時、父親が迎えに来てくれた。父は怒らず、ただ、無言で頭を撫でたこと、その後、その後ろ姿を追って母親の待つ車まで降りていくとき、今みたいな不安と安心感の入り混じった、こんな気分だったこと。

『いい父親だったな。』

『ああ、自慢の父親だ。あんたように、誇らしいパイロットだった。』

そうか、とコヨーテ21は感慨深い言い方をした。

『母親は?』

『最低の母親だ。』半分冗談でそう言った。『お陰で今もくたばらず元気にやってあがる。』という愚痴にコヨーテ21は『ははは、そうか。』と笑った。

『元気か……』

『何か変か?』と聞くも、コヨーテ21は答えない。

『そろそろ高度を落とすぞ。ディセンド(降下)、3度。磁気方位は275。風は前方からだ。運がいいぞ。』

『下は地面までどれくらいだ?ここまで来て山に激突はごめんだ。』

『大丈夫。未だ海上だ。そして、このまま一直線上に行けば飛行場が見える筈だ。』

『あんたを信じるよ。コヨーテ21』自分は半信半疑のままだったが、従う。信じない要素は何もない。だから、信じるしかなかった。

『昔親父がいっていた。空では皆助け合う、だから他人を信じなければいけないし、嘘はついてはいけない。』

『親父さんは、どうやら立派なパイロットだったの様だな。』

『ああ、そうさ……先の大戦で……丁度、今のあんたと同じ機体だったよ。』

 厚い雲を抜ける。はるか向こうに飛行場が見える、ドンピシャで滑走路の前だ。

よし……成功だ!という達成感が大きい。

『護衛に感謝する。コヨーテ21!貴方のおかげだ……。』

返答はない。

『コヨーテ21?』

 返答なくコヨーテ21はこちらを覗き込める位置まで近づく。手を振っていた。前席のパイロットがヘルメットを上げている。

『あ……』

 その顔が何故か懐かしいと感じた。だが、思考に靄がかかっているように頭が回らない。

『こち……………国際…港、応…願います……』

『こちらはカタバシス814便、エマージェンシーを宣言する。直ちに滑走路を開けてくれ。』

 何かを思い出そうとする意識を押さえつけ、壊れかけた戦記相手に海水浴を避けるための行動を取る。管制は、現在滑走路に機体なし、侵入中の便も直ちに止めると言ってくれた。開けてくれた道へ侵入する。いくつか新しい警報がなったが無事着陸できた。感謝を伝える。そして、ようやく出来た余裕でもって、もはや見えない相手に礼を尽くす。

『ありがとう……それと誘導してくれた戦闘機に感謝を。』

 管制は混乱した様子で『何のことです?』と返答する。『見えてなかったのか?ここまで護衛してくれた戦闘機がいた。』

 それに少し沈黙があって。それから管制官は思わぬことを言って来る。

『先程侵入してきた空域にあったレーダー反応は貴機のみです。』



次の週、すべての事後処理が終ると休暇を取った。

 出発ロビーではテレビは今回発覚したスキャンダルを報道し、ネットは正しさとか、公益だとかという言葉で誰かを貶めようと醜態を晒し続けている。早速あの社長会見が世間の玩具となり、声と写真を使ったディープフェイクがフリーソフトとして配布されている

「ざまあみろ、なんて言える訳ないだろ。」

 はあ、と世間への失望を肺から絞り出してそれから椅子に深々と背中を鎮めると、一緒の便で帰還する副長の手から冷たいコーヒーを勧められるがまま取った。

「やり過ぎだよ、あの社長だとしても……」

「機長は、そうお思いで?」

 副長の言葉にああ、と自分は頷く。

「親父が言ってたんだよ。敵も人間だ。敵だから無限に憎んだり、貶めたりしていい訳じゃない。それをしてしまったら……今度は自分が修羅に落ちる番が来る……」

 実例を求める副長の方を向くと、自分は副長に父親の部隊を半壊させた敵のエースの最後の話をした。

「見たんだってよ、敵の百戦錬磨のエースを落として脱出しろと言って、だけど、キャノピーが飛ばなかったそいつは焼かれながら死んでいったんだ。」

助けてくれ!助けてくれ!という苦悶を浮かべた表情が一瞬だがはっきりと見えた。帰ると周囲は祝いの酒を出してくれたが、父親は一滴もそれを飲むことはなかった。敵の最後の姿を他人事だと思えなかったのだ。

 何でそんな話を聞いたのか?と聞かれて答える。皆が誰かを殴ろうとして、それに加わらなかった、その晩の話だ。

「確かにお前は戦士って柄じゃないな。」と言って父は頭を撫でてくれた。そんな記憶。

「親父は戦士になりたかったんじゃない、ただ、黄色いマフラーでブイブイいかせたかっただけだ……だが、あの戦争だ……」

きっと、父には何もかもが理不尽で辛かったのだろう。だからこそ、あの日、戦えなかった自分を見て喜んだのは嬉しかったのだろう。何であれ、敵を倒して嬉しいと正義にのめり込む事は父にはできなかった。


考えを一時止め、自分は手の内にある事故レポートを読み続ける。

雷での損傷は航法計器のみならず、操縦系統にも異常が出ていた。帰ってこれたのは、奇跡みたいなものだ。とその書類を渡した奴は言っていた。運がいいなとも言った。だが、違うと思った。

(父さんが、助けてくれたのかもしれない。)

 空港の窓ガラスの向こうには視界一杯の入道雲、それもあの日父と見たような入道雲が広がっていた。

 今なら気付ける。あの紫を凝縮した黒い塗装、あれは父親の部隊の塗装だ。恐らくあれは、どうしようもない状態に置かれた自分に思う所があった父親が助け舟を出しに現世に戻ってきた。そういうことなのだろう。そう思うとなんだか妙な安心感が出て来た。身体を動かして、夏の空を直視する。


……父は帰れたのだろう。あの入道雲の彼方へと。

 一緒にその敵エースを狩り、一緒に後悔した父の仲間達も終戦の頃には誰も残ってはいなかった。

 母が言うには、縁談で初めて会ったとき、父の顔はまるで魂が抜けたようだったという。多分父親は、あの入道雲の向こう側に全てを置いてきてしまったんだ、と母は冗談交じりに言っていた。

 世間はあの戦争を無益だ、無価値だと言うだろうし、実際そうだろう。だが、それは父にとってみれば紛れもなく青春の日々であったし、人生の輝きであった。

 父が全身でもって余分な生に憤怒をぶち撒けたかったであろうことは、分かる。あの農薬撒きに向かう時の絞まった顔と、帰りの後のぼんやりした顔、それと、生き延びたのではない、置いていかれたのだ。というあの寂しげな言葉。抜け殻になった自分が生きて家族を持って暮らしていて、それが全部間違いだという悲鳴。父はずっとあの入道雲の向こう側に帰りたがっていたのだ。そして、そんな思いを婉曲に吐露できるのは自分か母親ぐらいだった。だから、父はその恩を返しに来たのだ。

 自分と同じく、心が地面についていない「同胞」となった自分への敬意も兼ねて。


 母親に帰る、と打ったショートメールにどうしたの?と返事が来る。それに、墓参りだ、と答えると解ったといい、お土産宜しく、と返答が来た。

 面倒な返答を撃ち返すと自分は再び青空に目を戻した。それから、出発時間までの間にアンテナショップに行くべく、白煙の冥府に背を向けて歩き始める。

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