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第1話

新居の鍵を開けるとき、あの慣れた手ごたえみたいなひっかかりがなくて、拍子抜けしてしまった。入るとそこは雑然と段ボールが置かれているだけの、白い箱みたいな空間だった。

壁紙の接着剤なのか、つんとした匂いがなじまず、手早く家中の窓を開けてから、茶色いかたまりからその内の1つを引き寄せて封をしているガムテープをはぎ取る。


そのとき、ふとフラッシュバックしたのは、1つ前の引っ越しのことだった。


やっぱり新居特有のその匂いに耐えかねて真冬に窓を開け放った俺に、彼女は同じデザインの

真新しいカップをそれぞれの手に持って笑いかけたのだ。


「これから始まるね、

楽しみだね。」と。



ありふれた恋だった。多分、一緒にいた期間が

長かったから、こんなに引っかかってるように感じているだけで。


その人とは、大学時代に出会って、その年から社会人3年目までの5年間付き合っていた。

月という名前だった。

顔だけじゃなくて、動作とか言うこととか、全てが美しい人だった。


まだ覚えてる。

付き合って2年もすぎて、2人とも就職が決まって、何となくこれからどうするのかわからないまま結構な頻度で会っていた頃の話。


このまま付き合っていても良い。

新しいスタートを切るという意味で別れても良い。

馴れ初めすら曖昧だった俺達だから、別れさえも空気に溶けるようなものなんだろう。

少なくとも俺はそう思っていた。


そんなある日、昼飯を一緒に食ったあとに、いつも通らない道を歩いていたとき、ふいに月が足を止めた。

「どした?」

手をつないでいたから、俺は彼女の1歩前で腕をのばした体勢で立っていた。

彼女の視線の先にはどこかなつかしいガラスの壁に大量にチラシが貼られた不動産屋があった。

しばらく俺達はその姿勢で止まっていた。

そしてようやく気づく。


彼女はそういう人だった。

こういう恋人らしいことが苦手で、未だに恥じらいを見せる。

そんなしぐさを愛していた。


「…見てみる?」

「うん。」


俺が聞くと、月は嬉しそうに頷いて、つないだ手にぎゅっと力を込めた。


そこは優しそうな初老の男性が1人でやっている不動産屋で、

キンと冷えきったあの冬の日に、よく効いた空調がありがたかった。

そのとき俺は久しぶりに、月の嬉しそうな笑顔を見た。

ふとした思いつきだったけど、

彼女とああでもないこうでもない、外観がどうだとか間取りがどうだとか言い合って、

結局若者らしくコンビニ傍の物件の契約書に判を押した。


即日入居可のその部屋の鍵を手に入れて数日後、小さな軽自動車で俺達は新居に突入した。

新品なはずなのに鍵が穴の奥でひっかかって少しの間取れなかったことに2人で大声で笑った。

2人分の段ボールが積まれた部屋は狭かったけど、確かにそこには未来があった。


「そんなに窓開けたら寒いよ。」

月は笑いながらここに来る前に買ってビニール袋に入れたおそろいのカップにコーヒーをいれてくれた。

白い湯気が部屋を満たす。

そうしていると、やっぱり彼女といると楽しくて、安心できて、自分に必要だと感じた。

多分、お互いにそう感じていた。



それから2年と半年は、うまくいった。

初めは生活リズムが違っていたり、洗濯物の扱いや朝飯の主食でもめたりしたけど、それにすら愛を感じていた。

できるだけ2人で食べることにしていた食事には、必ずあのカップを使っていた。

だんだんとその風景が日常に馴染むようになって、俺はそれに幸せを感じた。


休みの日なんかを長時間一緒に過ごすとき、初め、月は3人がけのソファーの端っこに縮まるようにして座っていた。

それが時が経つにつれて徐々に近づき、気づけば逆に広いものである意味がないくらい近い位置にいた。


自分達の気に入ったものだけで満たした部屋。

レースのカーテンを透かして見える優しい空の色。

好きな映画のディスクやパンフレット。

広いけどその利点を全く活かしきれてないソファー。

そしてそこには愛しい月がいた。


時が経過する度に、彼女を好きになっていく。

今までの人生で1番幸せだった。


2人だけの全てで満たしたそこは、温もりに溢れていた。



土曜日の夜は絶対に2人で映画を見て一緒に布団に入ろうだなんてくすぐったい約束もした。

俺達は(というか彼女はともかく実は俺も)そういう約束は守るタイプで、実際に色んな映画を見た。


サブスクで見ることもある。ブルーレイを借りてくることもある。もちろん、私物のディスクで見ることもあった。


どんな方法で見るにしても、隣に触れるか触れないかの距離でいる月がいたら、何でも面白かった。

彼女も楽しそうに笑っていた。

眠るときは寝にくいとわかっていながら、ハグをして一緒に毛布をかぶった。


少なくとも俺は幸せを感じていた。

月もそう感じていた、と思っている。


幸せな日々を象徴するような、週に1度の約束。

でもそれは、ある日突然破られた。



その日、午前勤務と言っていた月は、笑顔で家を出た。

休みだった俺は彼女を送り出し、楽しみにしていたけど都合で見られなかった邦画のブルーレイを借りてきて、いつものように午後9時からの上映(2人でいつの間にかそう言っていた)をゆっくりと家事や趣味のことをしながら待った。


だが、午前が過ぎて午後になって、約束の時間になっても、月は帰って来なかった。何も出来ずにソワソワして、迎えた次の日の深夜午前1時すぎに、彼女が疲れた顔で玄関に立った。


本当は跳びついて抱きしめて問いつめたかった。

何があった?怖い目にあってない?どこも傷ついていない?

気を抜けば、ずっと渦巻いていた疑問を、機関銃のように浴びせるところだった。


でも俺は問い詰めるなんてことができなくて、平気な振りをしていたくて、リビングのソファーで座ったまま「おかえり」と声をかけた。


きっと疲れたんだろう。

もしも辛いことがあったなら、それを説明なんて絶対したくないに違いない。

何も聞かないことは、俺なりの、精一杯の気遣いのつもりだった。


今でもまだ覚えている。


あの時はわからなかったけれど、何かがあった彼女に茶番で対応する俺を見たあの目に浮かんでいたのは。


失望。

そのものだった。


月は何も言わずに自室に行って、それから2日間、1度も部屋を出なかった。

そんなことは初めてで、だから俺はどうすればいいか分からず、とりあえず食事だけは1日に3回、部屋の前に置いた。

でも、それが食べられていたことはなかった。


その時、俺は何となく感じていた。


何かが壊れていく。

2人で作り上げてきた何かが。

今、目の前で音を立てて、もう二度と戻らない形にまで。


それから俺達が2人で映画を見ることは二度となかった。



あとはもう、あっけなかった。

壊れた何かは、決して元に戻らなかった。

月は何気ないことで怒ったし、俺も一晩中何も言わずに外で飲むようになった。

今までそんなことは絶対にしなかった。


ケンカをしたとき、月は決まって俺に

「本気で話をしてよ。」

と、同じ言葉をぶつけた。

意味がわからなかった。

でもそう言うときの月は、いつも泣きそうな顔をしていた。


辛かった、ような気もする。

離れていくお互いの気持ちを

哀しく思った、

そんな時間もあった気はする。


でもそれを修正する努力をしたか?と聞かれたら、

していないと言うほかないだろう。

またいつもみたいに自然と仲直りできると思っていた。

壊れた何かを直せなかったって、俺達は新しく何度でも作り出せると思い込んでいた。


ただ、彼女は違った。

そのときには、耐えてきたものは水位を上げていて、何か1つでもきっかけがあったら、全てが溢れるところにまで来ていた。

それに俺は、全く気づけなかった。



あの日は、これまでの中で1番酷いケンカをしていた。

そのときにはもう、お互いに初めは何を言い合っていたのか覚えていなかった。


俺はダイニングテーブルのイスに座って、月はソファーの端っこに自分を守るかのように体操座りをしていた。


長い年月をかけて少しずつ縮めてきた俺達の距離は、ここ何ヶ月かで初めのときより離れてしまっていてた。


小学生レベルの悪口の押収。

次第に行き場を失う言葉にならない感情が、

まるで逃げ場を消すように部屋を重苦しく包んでいる。


これ以上話したってどうしようもならない。

そんな気持ちで、ついに俺は

最低な言葉を吐いた。




…やばい。言い過ぎた。




言ったあとでふと我に返って、今日初めてしっかり彼女の顔を見た。


はっとした。

背中に氷のかけらを入れられたような気分になる。


月は目に涙を浮かべて、それを零さないように必死に耐えていた。


ややあって、大きく肩を上下させて溜息をついて、空気の多い声で、一言呟くように言った。



「もうやめませんか。」



いくら気が昂っていたとはいえ、さすがに彼女のセリフがこのケンカのことじゃなくて俺達の関係のことを指していることくらいはわかった。


俺が何も言わずにいると、

月はついでのように

気になる人が、いるのと話した。


とにかく反応しなければと、とりあえず首を縦に振る。


所詮映画じゃないんだから、こんなに意見が合わないのにこれまで通りとか無理だよな。

そのときは、言い訳のようにそう思った。


でも今ならわかる。

あの時、俺は全然その言葉を受け入れられていなかった。

正直に言うと、月に別れを告げられるなんて、全く思っていなかった。何も読ませない表情の裏で、俺の頭は疑問だらけだった。



こんなことを言う人じゃなかった。

目の前の月は、一体誰だ?




俺は最低だ。

こんな疑問、自分で答えが出るって思いながら、知らないふりをした。


月がこんなに辛そうな顔をしているのも、

別れを切り出したのも、もしかしたら念押しのように言った気になる人の話でさえ、




全部、俺が原因だったって、

心のどこかでわかっていたのに。





俺達は良い意味でも悪い意味でも誠実な人だった。

愛のない男女は一緒に暮らせないという良識のもと、ケンカの次の日には、びっくりするほどあっさりとした流れで別れを決めていた。


月は“別れる“という決断には

躊躇いがなかったが、

長い間の付き合いが胸に沁みるのか、

「年甲斐もないね。私が言ったことなのに。」

と笑いながら泣いていた。


かくいう俺はどうだっただろう。

今考えてもよくわからない。

だけど、月のように泣きはしなかった。


…いや、泣けなかった。



まるで舞台の観客みたいに、自分達の5年間に緞帳が降りていくのをぼおっと眺めていただけだった。


不動産屋に契約の解除を伝え、引っ越し業者を決め、水道光熱の差し止めの日取りも指定して、俺達は順調に別れへのステップを踏んで行った。


そのひとつひとつに

月は辛そうな顔をして、

反面俺は無表情でいることを心がけた。



そうすることで、

辛いとか悲しいとか、そういう感情を自分から閉め出した。


そうすることで、

自分の心を守った。




今ならちゃんとわかる。


本当はこうやって別れの気配が濃厚になって、今までにないくらい動揺していた。



あのとき俺がしなくちゃいけなかったのは、

平気なふりをしてたんたんとお金の計算とか共有のものを分けることとかじゃなくて、

せめて

“ありがとう“と“ごめんね“を

伝えることだった。


情けなくても良かった。

不自然でも良かった。





今になって気づく。

俺は5年も月と一緒にいたのに、自分の馬鹿みたいなプライドのせいで、

本気で心をさらけ出せたことは

1度もなかった。


それがきっと、

月が“もうやめませんか“

と言った理由だ。






“もう、下らない恋人ごっこはやめませんか“

多分、本当に言いたかったことはこうだろう。


そんなの、当たり前だ。


怒れるのも、怒鳴れるのも、

感情をぶつけられるのも、

全部信頼できてるからすることだ。

少なくとも月は俺を信頼して怒ったりぶつかったりしていたのに、

俺は全くそうしなかった。


そんなの、恋人なんかじゃない。

ただの知り合い、いや、それ以下かもしれない。


それはつまり、

5年も一緒に過ごしたのに、

俺は月を拒み続けたことと同罪だ。



だけど、それを悔いたってもう遅い。



月にとって俺は、もう過去の人である。

俺が指をくわえて見ているときに、もう全ては終わってしまっていたんだ。










そしてやってきた引っ越しの前日、俺達はそれぞれの荷物に封をしていた。

お互いの手の内にあるのは、柄の違う段ボール。


何となく気まずかったけど、言葉を交わすことはなかった。


ビーッ、ビッ、とガムテープが伸ばされて千切れる音だけが部屋を満たしている。


…きっとこれで良いんだろう。


後悔したって、今更謝ったって、もう修復できるものは何もないんだ。

そんな思いで、ここを出る約2週間の間を過ごした。

今ならわかる、って思ってみても、今わかったってどうしようもないということがわかっただけで、それ以上の進展はなかった。


月は明確な発言を避けたが、例の“気になる人“と共に暮らす、

というニュアンスのことを言っていた。

俺は、ここから離れたもっと通勤に便利なワンルームの部屋を手配している。


住所はお互いに伝えていない。

そりゃそうだ。もう他人になるんだから。


…なんて。

結局都合のいい言い訳だ。

本当は、月がその“気になる人“と共に住む場所なんて知りたくないから。


意味がわからない。

“別れたい“と言ったのは月だけど、そう言わせるように無意識に仕向けたのは俺だった。

永遠に噛み合わない歯車に、使い道はない。

合わないチューニングで、奏でられる音楽はない。


月は俺から、

俺は月から、

お互い自由になれるんだから。



だからきっと、

これで良いんだろう。




ふと気になって、持っていた段ボールの中を覗き込む。


5年も一緒にいたんだから、その中の持ち物のほとんどに月との思い出が詰まっていた。




ブルーレイプレーヤー、譲ってくれたけど、2人で貯金して買ったものだったよな。


このスピーカーは、2年前の誕生日にくれたものだった。

今でも部屋で使っている。


このブルーレイは、このCDは、この食器は、この本は。



どうして今更、こんなに愛しく思うんだろう。

楽しかったあの日々の、

映画を見たあとの笑い声が、

胸の中に溢れていく。

だけど。


こういう思いを伝えなきゃいけなかった時はもっと前にあって、今はもう手遅れなのに。




「……っあ゛。」


いきなり大きな声がして、俺は反射的に見ていた段ボールを隠すように遠くに置いた。

見ると、月が扱っていた段ボールの前で尻もちをついている。


急いで駆け寄り、その箱の中を覗き込む。

虫でもいたかと思ったが、段ボールには途中で切れたガムテープが貼られているだけだった。

多分、糸の織り目で力を掛けすぎたんだろう。

どうやらテープの手応えがなくなってびっくりしただけらしい。


「…良かった。

でっかいハエでもいたのかと思った。」


手を貸すと、月はありがとうと言いながら立ち上がった。

間近で見る月の気配に、頭が何かを勘違いしそうになる。


「ごめんね?

案外ガムテープって脆いんだね…」


こんなに強そうなのに、と久しぶりに見る笑顔で月は言った。その笑顔が、今と同じように段ボールだらけの部屋で笑った3年前の彼女と重なる。





『これから始まるね、

楽しみだね。』








考えるより先に、手を伸ばしていた。

月の細い肩に触れて、自分の胸にその身体を押しつけた。


そうしたあとで、怒られる、と思ったけど、

意外なことに月は俺を拒否しなかった。




溢れてくる。

この部屋に初めて入った日の笑い声、

何度も映画を見て考察をした夜、ささいなもめごとを沢山したあとの“ごめんね“。




優しく暖かい手のひらが背中を上下する感覚でようやく気づく。

いつからか、肩を震わせて泣いていた。



思い出と共に零れていく俺の下らない涙は、

本当に今更で、必要なくて、やるせない気持ちに満たされていくだけだった。



もっと本気でぶつかれば良かった。

情けない態度でも、加工のない自分のありのままの言葉を伝えれば良かった。

かっこつけて、自分を守りきることなんて、どうでも良かったんだ。



それが恋人への、信頼している人への、正しい振る舞いだった。





許しを乞うように、月の肩に縋って泣いた。




きっと月は、千切れたガムテープに、大した力をかけていないはずだ。

ちょっとした手の向きなんかで、強力な粘着力を持つガムテープは、あっけなく千切れてしまう。


俺達も一緒だ。

ずっと2人で確かに手を繋いで歩いてきたはずなのに、

たった1夜の俺の振る舞いが、先に続くはずだった道を永遠に葬り去ってしまった。



糸よりも脆い。


だけどそれは、いや、だからこそ美しかった。

まるで月のように。



「忘れないで、俺のこと。」



最初で最後の、偽りのない感情を伝える。

今このときだけは、プライドより大切なものがあった。

情けない態度でも、どんだけ嫌な奴として月の記憶に残っても構わなかった。




「ここに確かに愛はあった。

俺は月がとても好きだった。」




抱きしめていた月の顔は見えなかった。

でもちゃんと聞こえた。

少し嬉しそうな声だった。




「うん。」






そして今日、俺達は5年間の付き合いに終止符を打ち、あの部屋を出た。







俺に残されたのは、

思い出だらけの荷物に満たされた新しい部屋だけだ。


月は俺よりあとに出ていたから、今頃はきっと誰かと共に荷物を待っているだろう。


多分、彼女の中の俺達2人の思い出は、すぐにその“誰か“に上書きされていくに違いない。


不思議と、もうそれを憎く思いはしていなかった。


月が大切に守られているなら、それで良い。




ありふれた恋だった。

でも、一緒にいた期間が長かったから、こんなに引っかかっているように感じているわけじゃない気もしてきた。


確かに、お互いに愛し合っていた。

そして多分俺は、今も…。


まぁ、これを言葉にするのは、きっと間違っている。

だからちゃんと鍵をかけて胸に閉まっておこう。


そしてもしいつかまた会うことがあったら、

そのときは笑って下らない世間話でもできるようになっておこう。


しばらく止まっていた手を伸ばして、座ったまま段ボールを手繰り寄せる。

あの日部屋を優しく温めた湯気はもう二度と現れない。


俺は音を立てて、思いっきりガムテープを剥ぎ取った。


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