推声部3

 思い出す。

 体育館に火垂が現れたあの瞬間、奥底に眠っていた欲望が瞬く間に沸騰して湧き出たことを。

 たしかに感じたのだ。

 天使とは名ばかりである。端からそうだと決めつけてしまっているのに、どうして俺は未だに例の幼女に期待してしまっているのだろう。

 経てと経てども気持ちに変化はなく、自宅に着いてもそのことばかりを考える。

 まるで傷ひとつない一軒家の周りに立派な塀と門扉が建てられた我が家には、姉と俺とで同居している。二人分には余りあるほどの敷地面積で、現に使われていない部屋がいくつもあったりする。

 俗にいう富裕層だ。金に困ったことは一度もないが、だからといって幸せとは限らない。


「姉貴」

「……ん?」


 どんよりとした湿ったい雰囲気に侵されている、そのリビングのソファに寝転んでいる姉貴は、じーっと天井を見上げたまま首肯ひとつで帰宅の挨拶を終える。

 いつもと変わらない日常だ。


「いま帰った」

「おかえり」


 抜け殻のような掠れた返事を前にして、俺は幾度となく悲しみが込み上げる。それこそ、かつてはちゃんとした掛け声で家族らしさを保っていたはずなのに、今の姉貴は心ここに在らずといった具合だ。病魔が巣食っているといわれても違和感はないだろう。

 けれども彼女は健康体である。

 齢は三十手前、まだ現役で働けるというのに、ここ最近は仕事を休みがちになっていた。曰く有給消化らしい。


「飯はどうする?」

「もう食べたわ」

「なにを?」

 

 そして無言のままポテっと投げ捨てられた袋菓子の残骸が、今日の夕食なのだと主張する。

 栄養素が摂れるのかどうかを考慮していない彼女の自暴自棄には怒りすらも湧いてくるが、何度でもいうが彼女は健康そのものである。


「俺が作ってやるからよ」

「構わないでくれない?」

「そういうわけには……」

「頼むわ和也。今日もそっとしておいて」


 健康である所以は、時折見せる彼女の本気めいた口調にある。はっとした瞬間に我に返るときが多々あった。


 結局俺は一人分の飯を作った。

 昨日の残り物を使い回しただけの手抜きカレーだったが、それでも美味しいことに変わりはない。

 より旨味が出せるとすれば、それは食材に良さに頼ったものではなく、家族団欒という憩いの場を設けることにあるのだが、必然としてそんなもの叶うわけがなかった。

 いつからだろう? 姉貴との関係が破綻してしまったのは。

 どう接すればいいのかわからない。彼女は病気でもなければ正気でもない。だから何も答えが出ないのだ。


「そういや学校で部活動紹介があってさ。それで……推声部つう所に入ることにしたんだ」


 食事中の無言に嫌気が差した俺は、少しでも話題を提供したい一心で話しかけた。


「…………」


 やたらと返答が遅い。


「どんな部か聞かないのか?」

「星空を観察する部じゃないのは把握してるわ」

「おいおい、知ってたのか?」

「……実は、そうなのよねぇ」


 推声部の全容を知っていると暗に匂わせているのか? そう思わざるを得ないほどに彼女の受け答えには引っ掛かる節がある。


「キャラ……和也は何になるつもりなの?」

「特にまだ決めてない」


 八恵にも早い段階で決めておくようにと言われていたが、子どもの頃から特になりたい役はひとつもなかった。魔法使いだとか天使とかヒーローとか、そんなありきたりな役で良ければ俺でもすぐに思いつく。ただし、なりきれるかどうかはわからない。


「その程度の覚悟しかないなら、きっと辛くなるわ。辞めればいいのに……推声部なんて」

「は? 辞めるっ?」


 いきなり退部を促されるなんて思ってもみない展開だった。

 既視感が過る。

 八恵が入部試験と称して人払いをさせたとき、たしかに彼女は推声部の門を叩くことは許さない、軽い覚悟の者は出ていきなさいと言った。

 すなわち姉貴は八恵と同様に退部を促していたのだ。

 衝撃のあまり、あわや持っていたスプーンを落としそうになる。


「なんで急にそんなことを言うんだよ?」

「……仕事上の守秘義務でそれ以上のことは言えないの」

「義務だろうがなんだろうが、俺が知りたいつってんだから教えてくれたっていいだろ」


 大体仕事上の守秘義務ってなんだ? 姉貴の仕事が国家に仕える公務員だとは知っているが、詳しい職務は話してこなかったので、きっと聞かれたくないのだろうと思っていたが、まさか守秘義務を持ち出されるとは予想外過ぎる。呆気にとられて苛立っても文句はいえない。


「聞き分けてほしい。弟でしょ?」

「弟?」

「お願いよ和也」

「頼むから弟だからみたいな言い方はよしてくれ」


 この期に及んでも彼女は姉としての顔を崩そうとはしなかった。プライドなんてこれっぽっちもないはずなのに、都合が悪くなったら家族の立場を理由にして逃げやがる。


「やめてくれよ、もう……」


 姉貴には散々愛想を尽かせた挙句、もはや憎悪すらも辞さない。果ては絶縁か勘当か。


「……やっぱり私じゃ言うことをきいてくれないのね」


 鎮痛気な姉貴は自ら口を閉ざした。

 部屋に流れる凍てつく冷気が更に寒気を帯びてきて、両者の仲をこれでもかと引き裂く。


 どうして?


――『自慢のおねえちゃんなんだ』


 どうして俺にはいないんだろう。


 ないもの強請りなのはわかっていた。だからこそ実海の弟が羨ましかった。こんなにも愛される姉が傍にいてくれる幸せを、かつては俺も感じていたはずなのに、今となっては虚無感しか襲ってこない。途方もない感情が姉弟を破壊する。ずっと俺は悩まされてきた。


「どうして俺が推声部に入ったのか。その理由はあんたにあるんだ。ずっと……そうだった」

「……ごめんね」

「辞めろと言われる筋合いはないし、今後も干渉してこないでくれ。いい迷惑なんだよ」


 救いが欲しかった。

 火垂を一目見たあのときから、俺は人生そのものを変えられるような気がしてならなかった。今でも気持ちに嘘はなく、微かな希望が残されているのならば俺は縋り続けたい。天使の施しに。天使が導いてくれる光の先にこそ、本物の答えがあるのだと信じていたかった。


 自室に戻った俺は、悔し涙を堪えてその場で立ち尽くす。


 部屋の電気も点けないままでいたが、ほのかな光明が自然と灯されていた。闇夜に浮かぶ星空が俺を慰めるように光を照らしていたからだ。具体的にいえば、飛びきりの広大な月明かりが俺の許に射している。

 どうやらその日はスーパームーンだったらしい。

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タイトル未定(2023年末公募作品) 現在○○○○○文字 @nhhmm

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