―宵―

 午後九時――歌舞伎町はこれからが稼ぎ時の時間帯に、ゴールデン街も漏れなく酔客で溢れかえっていた。一丁目の西端に位置する二千坪程度の敷地に、二百軒以上の狭小店舗がひしめき合っている。


 本条が訪れた『リトリート』は、ゴールデン街の一画に店を構えて五年目になる。店名の由来は――日々の疲れを癒す場所でありたい――との意味が込められていると言うが、高尚な店名はさておき二坪程度の客席は、あいにく一席も埋まっておらず閑古鳥が鳴いている有り様だった。


 七十年代の洋楽オールアーディーズがひっそりと流れる店内に足を踏み入れると、人一人立つのが精一杯のカウンターに立つ店主が期待の眼差しをむけてきた。が、次の瞬間に相手が本条だと気付くと、落胆を隠そうともせず溜息を吐いた。


「なんや、ようやくお客さんが来はったとと思うたら、本条はんやないか」

「今日も相変わらず暇そうだな、熊澤。こんなんで経営が成り立つってのが不思議でならないよ」

「こんなんでも自分一人食っていく分にはギリギリ稼いでます。なんですか? まさか嫌味言うためにわざわざ顔を出したわけじゃありませんやろ」


 断りもなく回転椅子に腰掛けると、クッションがだいぶ薄くなっているせいでケツが痛い。客がいないのに延々と拭いていたグラスを戸棚にしまうと、無料いつものナッツの盛り合わせとジョニーウォーカーブラックラベルのロックが置かれる。


 普段あまり酒は嗜まないので、リトリートを訪れるのも一、二ヶ月ぶりだったか。その空白の期間で随分と熊澤は抜け毛が進行していたようで、歳が近いはずなのに頭頂部はだいぶ薄くなっていた。


「そんで、今日はなんの用で? まさかふらっと立ち寄ったわけじゃありませんやろ?」

「なあ、熊澤。お前最近、随分と羽振りがいいらしいじゃねえか」


 薄い琥珀色のウイスキーを喉に流し込む。しばらく酒から離れていたせいか、喉がヒリヒリするような熱さが堪らない。本条のちょっとした揺さぶりに、熊澤の顔が強張るのを見逃すほど甘くはない。


「自分でも言ってたよな。自分一人と食い扶持くらいは稼げると。おかしいなあ、こんな店の収益アガリで二丁目のキャバクラに入り浸ってるって話をよく聞くが、何処からそんな遊ぶ金が出てくるんだ」

「……それがどうしたんですか。そないなこと、本条さんに関係ないですやろ」

「濁さずにハッキリ言えよ。遊ぶ金欲しさに、また強請ゆすりをやってるってな」


 カウンターから身を乗り出して顔を近づける。視線を逸らさずにいると分かりやすく眼球が泳いでいた。間違いなくだと確信した。


 熊澤崇くまざわたかしは以前、関西系の新聞社に務める一記者だった。なんでこんな男を雇ったのかは知らないが、元々不良社員として有名で、行きすぎた取材が原因で過去には取材対象者を自殺に追い込んでいる


 懲戒免職となり、逃げるように東京に舞台を移すと今度は個人フリーで活動を始める。政治家や芸能人相手に、スキャンダルのネタを突きつけては暴力団顔負けの脅迫行為をシノギとして続けていた。


 ところが悪事は続かないもので、逆に本条に脅迫行為の数々をネタに強請られ続けた結果、現在は使い勝手のいいコマとして利用されている。熊澤が嫌な顔をしたのも、本条がリトリートを訪れる時は決まって頼み事があるときだと決まっていたからだ。


「さあ。いくら本条はんでも、証拠もなしに白を黒だと決めつけるのは感心しませんわ」

「いいか、俺はお前がどうなろうと関係ない。歌舞伎町で人一人消えるのなんざ珍しくもなんともないからな。ただ、今回は相手が悪かった。今度は俺じゃなく、がお前のことを狙ってるぞ」

「え……それ、ホンマですか?」

「お前はとことん馬鹿だな。得体の知れない人間が湯水のごとく金を使ってたら、嫌でも裏の人間の耳に入るに決まってるだろ。お前も耄碌もうろくしたな」


 平静を装ってはいるが、その声に隠さた不安を見抜けない本条ではない。流石にタマをとられることはないにせよ、の追い込みが待っていると告げると顔を青白くさせ、今にも泣きそうな顔で本条に縋り付いてきた。


「どうすればええんや。ワイには田舎に年老いた母ちゃんがおるんやで」

「身から出た錆だと諦めるしかないな。口酸っぱく言っただよ。勝手な真似はするなと。約束を破ったお前が悪い」

「そんな……堪忍してくれや。何でもするさかい、どうかこの通り助けてくれ!」


 腕に食い込む指を払いのけると、血走った眼が本条を睨みつけていた。今の精神状態を如実に物語っている。


「これを機に、本格的に盃をもらったらどうだ? 末端の構成員として強請りを続けるなら、五体満足で切り抜けられるかもしれないぞ」

「そんなバカが何処におるんやッ!」

「バカはお前だ。まあいい、俺としても使えるコマが減るのは困るから、なんとかしてやる。そのかわり、聞いてもらいたい頼み事があるんだ」

「本条はん……最初からそれが目当てだったんやろ、なあ」


 胸ポケットから煙草を取り出して、口に咥える。ライターを探したが見当たらず、熊澤が無言で差し出してきた安物のライターを借りて火を灯すとゆっくりと紫煙を吐き出してから、本題を口にした。


「実は今、とある人間と揺り籠の会について調べていてな、お前と客の中に信者がいるかどうか、知ってたら教えてほしいんだ」

「揺り籠の会って、またけったいな教団を調べてますな。それなら、確か榊伸雄が信者だったはずですわ」

「榊伸雄って、あの汚職塗れで閣僚のポストを追われたジジイだろ」

「そうです。ワイが言うのもなんですけど、あれだけ不祥事まみれの議員はそうおりません。もうちょっとで数千万が手に入る予定でしたのに、先に大手にスクープをすっぱ抜かれておじゃんでしたわ」


 ナッツを口の中に放り込んで噛み砕く。榊伸雄さかきのぶおは、八坂政権下で国土交通大臣を担当していた。出身は確か静岡で、静岡六区出身――つまり揺り籠の会の本部、総本殿が建つ伊豆市が含まれている選挙区の出だとすると色々と便宜を図ることも可能ではないか。


 溶け始めて一回り小さくなった氷を見つめていると、もう一杯飲むか勧められ首を横に振った。これ以上酒量が増えると、今夜の仕事に支障が出かねない。


「あ、そういえば」


 何かを思い出したのか、熊澤は自分が飲むための酒をグラスに注ぎながら榊󠄀について話を続けた。


「榊󠄀のやつ、不祥事の責任を取って閣僚を辞任してはいますけど、永田町では大病を患ったのが原因じゃないかとも囁かれていたましたわ」


 



 

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