―諾―

 九月とはいえ秋は未だ遠く、本条の事務所に設置されていた年代物のエアコンは、やたらと大きな動作音を鳴らすだけでいくら設定温度を下げても汗が引くことはなかった。


 風力を「強」に設定しても、体感的には「弱」程度の微風そよかぜくらいにしか感じない。昨日はちゃんと動いていたはずだが、よりにもよってこのタイミングで故障したのかと間の悪さを呪う。


 まだ猛暑が日本列島を襲っていた八月頭に、こんな蒸し風呂耐えられないと、靖国通り沿いのドンキホーテで購入してきたサーキュレーターがフル稼働してなんとか急場を凌いでいる。それでも室内にこもる蒸し暑さは解消されない。


 額に浮かぶ汗をハンカチで拭いていると、その様子を見て本条はニヤニヤと笑っていた。


「お前の場合、暑いのは〝更年期〟が始まってるからなんじゃないのか? ほら、まさにホットフラッシュと同じような症状じゃねえか」

「茶化すのもほどほどにしてくださいよ。まだ三十代前半だって言うのに。そういうデリカシーのなさが奥さんから見限られた原因なんじゃないですか?」

「まあまあ、そうカリカリするなって。たかが冗談だろ。それともアレか? 生理で余計に怒りやすくなってるとか」

「いい加減にしてください。帰ってもいいんですよ」


 今の御時世、完全にセクハラ認定されること間違いなしの冗談を、平気で口にする。上司と部下の関係だった頃も、息をするように女子社員に耳を疑う暴言を吐いてばっかだった記憶が蘇る――。


 自分の言動に反省の色を見せない本条は、歯の隙間に挟まっていた食べカスを、爪楊枝で取りながら天井を見上げると怠そうに口を開いた。


「冗談はさておき、実は昨日の晩に屋上に置かれている室外機がクレイドルの群れにやられたんだよ」

「うわ……それはご愁傷さまですね。それで空調がまるで効かないんですか」

「そういうこった。一匹や二匹なら一人で駆除も出来ないことはないが、ざっと数十匹は固まってたもんで苦情業者に依頼したんだが、どうやら他所の依頼で手一杯で向こう一週間は無理だと断られた」


 諦念の表情を浮かべながら、煙草を取り出して咥えると火を灯した。空気の流れ乗って漂う不快な臭いから、逃れるように席を立つ。窓の前に場所を変えると、向かい側のビルの窓にクレイドルが張り付いている。


 二十年前に深海で発見され、陸上にまで生息範囲を拡げている三十センチ大の生物は、場所を選ばず至るところにへばりついていた。移動速度こそ亀の歩みより遅々としたものではあるが、視界に映る全ての景色に紛れ込んでいる。


 あまりにも日常的な光景になりすぎて、二十歳未満の若い世代の間では、クレイドルが〝ゆるキャラ〟として捉えられているが、奴らはそんな可愛いものではない。


「焼いても死なず」

「凍らせても死なず」

「真空状態でもびくともせず」

「人間が即死レベルの放射線も効かず」

「世界一腐食性の高い超酸を以てしても溶けず」


 ありとあらゆる環境下でも死ぬことなく、一時的に活動を停止させるのがやっとなの存在は、発見当時世界中の海洋学者を色めき立たせた。発見者で父でもある沖浦正嗣は、一夜にして時の人となったのだが――。


 発見から数週間後、研究室の職員達がを遂げたことで世論の空気は一変する。彼等は皆、研究対象だった新種のウミウシに、半透明の体内の中で息絶えていたところを発見されたのだ。


 研究自体もすぐに中止が決まったのだが、その死に様が揺り籠の中で眠る赤ん坊に見えたということで、新種のウミウシはいつしか揺り籠クレイドルと呼ばれるようになって久しい。


 父をはじめ、深海調査に携わった関係者並びに大学側は批判に晒されることになり、ついに責任感に押し潰された父は当時小学生だった伊織と母を残して、一人海に入水自殺を図った過去がある。


「お、またクレイドル絡みの事件みたいだぞ」

 

 本条の言葉に反応して振り返ると、電源をつけたテレビに伊織がつい先程まで立っていた大ガード下が映し出されていた。カメラの前に立つリポーターが、しきりにクレイドルに呑み込まれたのは住所不定の男性だと説明していた。


「最近また犠牲者が増えてるな」

「ですね。基本的にクレイドルが積極的に人を襲うとは思えないのですが」

「奴さんに意思があるかどうかもわからんからな。実際なところは誰にも判断できないだろうよ。で、話したいってのはクレイドルに関することか」


 わざとらしく伊織に向けて紫煙を吐き出す。


「はい。実は事務所を訪ねる前に、中高の同級生と会ってたんです」

「ほー。それで?」

「その同級生は、どうやら私をとある宗教団体に勧誘するために呼びつけたみたいで、話の流れで本部を案内してくれることになったんです」

「なんだ、その宗教団体がまさか揺り籠の会とか言うんじゃないだろうな」

「そのまさかです。たまたまとはいえ、揺り籠の会の信者がわざわざ私に接触を図ってきたんですよ。千載一遇のチャンスだと思いませんか?」


 興奮のあまり、つい声が大きくなってしまったことを恥じて咳払いをすると、普段のトーンで会話を続ける。


「昨日の話を聞いた時点では、正直危険な臭い匂いがプンプンする案件だったので二の足を踏んでましたが、現役信者を上手く抱きかかえれば内部調査もバレずに済むかもしれません」

「そんな出来すぎた話があるもんかね……。しかし、なるほど。確かに現役信者のお墨付きがあれば、潜入もさほど警戒はされないかもな」

「せっかく舞い込んでチャンスですので、依頼された案件は引き受けたいと思います」

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