―報―

「だから、連絡しなかったのは悪かったって何遍も謝ってるだろ」

「その態度のどこが謝罪してる人間の態度だって言うのよ。一度や二度ならまだしも、今月だけで三度目なんだけど」


 姿見の前でネクタイを結んでいた健吾は、いかにも怠そうな声でおざなりの謝罪を繰り返す。昨晩の酒がまだ残っているようで、鏡越しに映る顔は酷く浮腫むくんで別人のように見えた。


 結局、健吾が帰宅したのは時計の針が十二時を超えてからだった。一度もラインに既読マークはつかず、連絡もなしに帰ってくるなり健気に待っていた私に放った一声が、あろうことか「出迎えもなしか!」だ。


 大声で騒ぎ立てるので、近所迷惑になってはいけないと慌てて玄関に迎えにいくと、すっかり〝出来上がっていた〟健吾は革靴を脱がずに崩れ落ちて、そのまま寝落ちしようとしていた。


 まさか朝まで玄関で寝かせるわけにいかず、こみあげてくる怒りを必死に自制心ブレーキを働かせて飲み込んだ。


 下腹部の痛みを堪えながら、伊織の体重より遥かに重い身体を支えると、意味不明な譫言うわごとを呟く健吾の身体から漂う不快なアルコール臭と、酸化した皮脂の臭いが渾然一体となって鼻を突き刺す。


 近頃枕が臭うと感じてベッドまで連れて行くと力任せに投げ倒した。その夜はすぐにイビキをかき始めた健吾とは別々に寝ることにし、伊織はリビングのソファで朝を迎えた。


「ったく……ギャンギャン喚かないでくれよ。休日だってのにこれから仕事なんだならさ、そんな調子で送り出される身にもなってみろよ」

「それを言うなら、生理痛に苦しみながらも夕食を作って深夜まで待ってた私の事も、少しは考えたらどう? 口を開けば自己弁護しかしないじゃない」

「わかったわかった。頭に響くから勘弁してくれ。それより、朝食は用意してくれてるよね?」

「してるわけないでしょ!」


 あまりに身勝手な物言いに、頭に血が昇ると貧血気味なことも重なって立ち眩みに襲われた。同じ空気を吸っていたくないと、寝室から逃げるよう出ていった伊織はキッチンに向うと、コップに水を注いで貧血対策の錠剤を一息に飲んだ。


 ――昔は私の事を最優先に考えてくれてたのにな。


 人間歳を重ねれば考え方も変わるので、二十代と三十代のそれとでは接し方も変わるのはじゅうじゅう理解ている――だけど、こうもあからさまに面倒な奴だと思われると、ふとした拍子に一緒に暮らしている意義を見失ってしまいかねない。


「ほんと、人生ってままならないわね……」


 部屋中に漂う陰気な空気を晴らそうと、締め切っていたカーテンを開けて室内の空気を換気する。昨日の雨模様は嘘みたいに太陽が燦々さんさんと輝いていた。


 外干しできずに溜まっている洗濯物を干すにはちょうどいい天気。ついでに気分転換も兼ねて、新宿まで足を伸ばそうか思いを巡らす。最近は家事と仕事に追われるばかりで、全くと言っていいほど自分の事は後回しにしていた。


 ――そうよ。健吾が好き勝手にするんだったら、私も好きにすればいいじゃない。


「よし」大きく伸びをして今日一日の予定スケジュールを頭の中で組み立てる。

 普段は敷居が高くて近寄らない百貨店で、自分へのご褒美にバッグを購入するのはどうだろう。落ち込みがちな気分を上げる為に久しぶりにネイルアートもしてみようか。雑誌に掲載されていた人気のパティスリーに行って舌鼓を打つのもありかもしれない。そうなると髪もカラーを入れたいところだけど、流石に一日じゃ時間外足りないか――。


 次から次へとやりたいこと、行きたいところが思い浮かぶ。妄想しているときが一番楽しいわけでもあるわけだが、現実的に何を選ぶか取捨選択をしなければならず思い悩んでいると、リビングまで聴こえてくる騒々しい足音とかすれた声が伊織を日常へと連れ戻す。


「おい。スマホが鳴ってるぞ」


 寝室に置きっぱなしだったスマホに着信があったみたいで、シェーバーでヒゲを剃りながら出勤の準備をしている健吾から受け取る。画面に表示されていた番号は見知らぬものだった。


「なんだ、電話に出ないのか?」

「え? ああ……そうね」


 ぼうっとしていたところに話しかけられ、急かされるように通話に出るとやけに明るい声が耳朶に届いた。


「あ、いーちゃん? わたしわたし! 急に電話かけてごめんねえ。びっくりしたでしょ」

「ちょ、あの……失礼ですが相手を間違えてませんか?」

「へ? 何言ってるのよ。間違ってるわけないじゃない。あ、さては誰高わかってないな」

「そう言われましても……」


 こんな朝っぱらに、面倒な電話がかかってきたものだと頭を掻きながら健吾を見ると、既に姿はなく玄関の扉が閉まる音が聴こえた。ちなみに、いーちゃんとは幼い頃の伊織のあだ名で、使っていた人数は限られる。


「じゃあヒント。中高と一緒だったよ。高三の夏に退学しちゃったけど」

「もしかして……奈保子なの?」

「ピンポンピンポン正解」


 言われてみれば声質は記憶の中の少女と変わらなかったが、もっと落ち着いた離し方というか、人によっては暗く感じる喋り方だった気もするが――。


 電話口の向こうから絶えず聴こえてくる声は、あけすけもなく言ってしまえば、ただただやかましく癪に障る。


 確かに中高と学校は同じではあったが、正直昔のこと過ぎて忘却の彼方にあった。わざわざ忘れてたと言うのは失礼極まりないので、そこは大人としてのマナーで忘れていたことはおくびにも出さずに会話を続ける。


「久しぶりすぎて一瞬誰かわからなかったよ。てか、うちの番号何処で聞いたの?」

「ほら、同級生に、チエちゃんっていたでしょ? あの子と偶然出会して、その時に教えてもらったの」


 奈保子とは高三の夏に挨拶もなしに別れたきりだったので、当然電話番号を知るわけもない。その〝チエ〟とやらも名前を聞いただけでは思い出せないが、いくら同級生に尋ねられたとしても本人の許可なく個人情報を他人に教えないでほしいものだ。


「それでさ、突然で悪いんだけど、今日時間空いてたりする?」

「今日? まああるっちゃあるけど」


 口にしたところで、正直に時間はあるなんて言わなければよかったと後悔したが、後の祭り。


「ほんと? それじゃあ、いーちゃんが都合の良い時間でいいから待ち合わせしよ。場所も任せるから、後で連絡してちょうだい」

「う、うん。後で連絡するね」


 一方的に通話を切られた伊織は、終始会話の主導権を握られていたような気がして、奈保子の変貌ぶりに驚きを隠せなかった。昔は引っ込み思案で、自分の意見をズバズバ言うような性格ではなかったはずだけど――。


 スマホを見下ろしながら、洗濯機だけは回していくかとポケットに入れた。

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