―誘―

「ったくよ……どうして遅刻してきた人間にわざわざ奢らなくちゃいけないんだよ」


 コンビニから帰ってくるなり、重要な封筒を封も開けずに机の上に放り投げた本条は、椅子に体重を預けると不満を口にした。


「たかが数百円のことでガタガタ言わないでください。先週だって急に回してきた案件を間に合わせたじゃないですか」


 不貞腐れながら買ってきたアイスを齧ると、視覚過敏が痛むのか頬に手を添えながら、苦痛に顔を歪ませる姿に少しだけ胸が空いた。


「歯医者くらい行ってきてくださいよ。まさか、その歳で怖いなんて言わないですよね?」

「馬鹿言うな。これしきのことで、わざわざ時間を割くのがもったいないだけだ」

「たかだ一時間かそこらの話じゃないですか。ていうか……本条さん」

「なんだよ」


 壁に目を向けると、ハンガーにかけられたワイシャツが一列に並んでいた。恐らく、数日間は自宅にも帰らず、事務所で寝泊まりしながら仕事をしていたのだろう――。


「少しは家に帰って休んだらどうですか?」

「大きなお世話だ。俺の辞書に休むって単語はねえんだよ」

「モーレツ社員なんて今時流行らないですって」


 伊織が知る限り、本条という人間は〝仕事〟さえあれば満たされる特殊な人間で、以前は会社に数週間泊まり込むこともザラだった。食事もろくにとらずに机の上が栄養ドリンクの瓶で埋め尽くされることも、社内では日常茶飯事だった。


 そんなイカれた上司を上手く操っていたのが、彼の奥さんである。こんな変人と結婚してくれる奇特な女性がこの世に存在したことにも驚きだが、そうでもしないと本条のような人間は、ブレーキが壊れた車のように遅かれ早かれ身体を壊すに決まっている。


「いくら奥さんが出来た人だとはいえ、南日も家を空けたら心配もしてるでしょう。まだお子さんだって可愛い盛りじゃないですか」


 期間限定のスイーツをスプーンで切り取りながら尋ねる。子供の年齢はまだ四、五歳だったはず――一度だけ写真を見せてもらったことがあるが、父親に似ておらず天使のような笑顔が印象的だった。


 そんな可愛い時期に父親が家を空けるのは些か問題だと思う。子供なんてすぐに親の元から離れていくのだから。


「あーそういえばお前に言ってなかったか」


 新品のラークを気怠そうに咥えると、穂先に火を灯して窓を開け放つ。


「なんのことです?」

「俺、離婚してっから」

「……すみません。どうやら聞き間違いをしたみたいです。もう一度言っていただけませんか」

「だから、元奥さんとは離婚したんだって。理由は勝手に邪推してくれて構わねえけど、今は田舎に帰ってる。子どもの親権も向こうが持ってな」


 吐き出す紫煙が外の闇に消えて溶けていく。そんなことがあったとは一度も聞かされていない。あくまで他人事のように話し終えると、「本題はそんなことじゃない」と言ってノートパソコンを開く。灰皿に半分ほど残っている煙草をおいてキーボードを叩く。


「あの、驚いて心の準備ができてないんですけど」

「俺の知ったことか。そもそも今日お前を呼び出したのは、ある件について記事を書いてもらいたいからだ」

「はあ……それはそうだろうなと思ってましたけど」


 本条はいつも仕事を依頼するときに、必ず直接会って口頭で伝えていた。故に伊織も電話で呼び出された時点で何かしらの案件を振られるだろなとは自覚していた。


「これは、お前にしか頼めない内容なんだよ」

「どうしたんですか? そんな事を言うなんて、らしくないじゃないですか」


 もともと伊織には秀でた文才があるわけでもなく、人を惹きつける文章力があるわけでもなかった。配属された課のなかでは、足手まといの役立たず。〝女〟だから、いずれ結婚でもして辞めていくだろう――それが周囲からの評価だった。


 そんな自分を見捨てずに厳しく指導してくれた本条には、それなりに恩義は感じている。今なら間違いなくパワハラだと訴えられる指導ではあったが、まだまだ本条の足元にも及ばない。


 にも関わらず、伊織を持ち上げるような台詞を口にするなど思い返しても記憶にはなかった。不覚にも嬉しさが込み上げて咳払いで誤魔化すと、急いで残りのスイーツを食べきって仕事モードに頭を切り替える。


 どれだけ忙しくても、本条からの依頼された案件は絶対に断らないと決めていた――絶対に本人に言ったやったりしないけど。



「それじゃあ話を進めようか」


 パソコンの画面を伊織に見えるように向ける。映し出されていたのは、それこそ現世での利益のみ追求している本条リアリストとは、一切無縁だと思われる宗教法人のホームページだった。


 トップページには、木漏れ日の下で純白のおくるみに包まれた赤子を女性が抱きかかえ立っている。お揃いの全身白一色に染まる装いで、慈愛を込めた眼差しを向ける公図は聖母を体現しているようにも見える。


 ところが――モデルの女性の目元には、火傷のような跡が存在を主張していた。一見するとモデルには不適格だと思われるが、何か意図があるのだろか。


 レイアウトもスタイリッシュで、アニメーションも多く活用しているようで、少なくとも伊織が想像する宗教像とは大きく異なる。


「〝揺り籠の会〟って知ってるか?」

「名前くらいは。ここ数年で信者を急速に増やしている新興宗教ですよね。あれ、でも宗教法人ってそんなに簡単に申請できるんでしたっけ?」

「ここで難しい話は省くが、揺り籠の会は面倒な手続きを休眠状態の法人を引き継ぐ形でクリアしている」

「法律上は問題ないと。それでは一体何を調べれば?」

「それがだな……聞いて驚くなよ」

「もったいぶらずに教えて下さいよ」


 珍しく言い淀むと、燃え尽きて短くなった吸いさしを掴んでフィルターギリギリまで吸ってから口を開いた。


「とある筋から入ってきた情報ネタで、決して確証があるわけではないが、どうやら揺り籠の会の本部にが運ばれてるらしい」

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