―掃―

 息を切らして雑居ビルの一つに飛び込むと、今にも寿命を迎えそうに明滅を繰り返す蛍光灯が、ただでさえ暗いエレベーターホールの仄暗さを過剰に演出していた。


 最後に〝ココに〟来たのは二週間前かそこらだったか――その間に切れかけの電球が交換された形跡もなければ、ゴミで汚れたエントラスが清掃された様子も見受けられない。


 空き缶や煙草の吸殻が無造作に捨てられたまま放置され、入居者用のポストにはポスティング業者が無断で投函していくチラシが投入口から溢れ、床に散乱している有り様だった。


 一応天井には監視カメラが設置されてはいるが、これといって迷惑行為の抑止には今のところ繋がっていない。それどころか、夜間に迷い込んできた酔っ払いがゴミを捨てていったり、挙句の果てには便所と勘違いして、用を足す不届き者までいる。


 ――何もこんなとこに事務者を構えなくてもいいのに。変わり者にも程があるでしょ。


 雨露で濡れた傘の水気を飛ばして折り畳むと、隅に立てかけられていたほうきとちりとりに持ち替えて誰に頼まれるわけでもなく掃除を始めた。


 潔癖症では決してないけど、こうも汚いと得体の知れない病原菌に感染しそうで、どうにも精神が落ち着かない。時間にして数分の作業を終えると、額に浮かぶ汗をハンカチで拭いながらポストに視線を向ける。


〝ライフハック株式会社〟と記されたポストも漏れなく配達物とチラシで溢れかえり、少なくとも数日間は誰も手を付けていないことが容易に想像できる。


 我ながら息子の部屋を掃除する母親みたいだな、と呆れながらも溜まりに溜まった書類ゴミを片付けていく。暗証番号は把握済してるので、勝手にダイヤルを回すと雪崩のごとく書類の山が伊織の足元に落下してきた。


「あ〜あ。こんなになるまで放っておいて、一体何歳になるのよ」


 ブツブツと文句を垂れながら、散らばった風俗店のチラシやサラ金の広告ハガキを掻き集めていると、チンという間抜けな音とともにエレベーターの扉が開かれて一人の男が降りてきた。


「なんだよ。いつまで経っても来ないと思ったら、こんなとこで油売ってたのかよ」

「酷い良い草じゃない? こんなになるまで放っておく誰かさんのために、仕方なく面倒を見てあげてるっていうのに」

「面倒を見てるって……お前は俺のお袋じゃないだろ。一体誰がライターのイロハを仕込んでやったと思ってるんだ」


 湿気でうねる髪をかきながら、シワだらけのワイシャツに袖を通していた本条傑ほんじょうすぐるは、舌打ちをすると自らも屈んでゴミ拾いを手伝った。


 お礼の一言も言えないの人間性は今に始まったことではない。感謝という概念を母親の子宮の中に忘れてきたとしか思えない本条との出会いは、新卒で運良く転がり込むことができた出版社で働き始めたころまでさかのぼる。


 当時、出版業界の常識はおろか、右も左もわからない新入社員の直属の上司として、本条に面倒を見てもらった期間がある――今思い出すだけでも食欲が失せるほど恐ろしい毎日を過ごしたものだ……。


 数年前に独立して、現在はこの雑居ビルに小さな事務所を抱えている。


「はいはい。その節は大変お世話になりましたね。ところで、今から何処に出かけるつもりだったんですか?」

「煙草だよ。たまたま切らしちまってて、どうせまだ来ないかと思って近くのコンビニに行こうとしてたんだよ」

「コンビニだと、一番近いのは職安通りのセブンですよね? それなら期間限定のスイーツがたべたいんですけど」

「……仕方ねえな。一つだけにしてくれよ」


 しぶしぶ許可を出した本条は、伊織が両手で抱えていたゴミをひったくるとチラシを捨てるために置かれていたゴミ箱に無理矢理押し込む。


 履き古したサンダルの底を鳴らしながら、傘も差さずに出ていく背中の後を追った。

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