―澱―

 新宿二丁目に足を踏み入れると、日没には早い時間帯ということもあって通行人の姿は疎らではあるが、夜のとばりが下りると街の雰囲気は一変する。


 日本一のホテル街なだけあり、至るところに宿泊施設が軒を連ねている。一見すると高級マンションにしか見えない外観のデザイナーズホテルから、肩身狭そうに建つ昭和レトロ感漂う連れ込み宿まで、その数はざっと八十を超える。


 伊織自身はこれまでそういったホテルを利用した経験がない。潔癖症というわけではないが、たとえ綺麗に清掃されていたとしても見ず知らずの人間の情事を想像してしまい、性欲が減退してしまうからだ。


 とはいえ、過去に付き合っていた彼氏に誘われたことがないわけでもない。健吾と付き合いたての頃だって、アルコールが入ったあとに分かりやすく誘われた方もある。毎回理由をつけて断ってはいたけれど――。


 若かりし頃の思い出に浸っていると、正面から若いカップルが相合傘で近付いてきた。幸せそうに腕なんか組んだりして、人目もはばからずにキスまでしている。


 彼氏も彼女特別顔面偏差値が高いわけではない。そこまで見惚れるほどでもないだろう――失礼を承知の上でツッコミながら、ここは年長者として仕方なく道を譲ると、すれ違いざまに隠しきれない石鹸の匂いが鼻についた。


 無邪気なカップルの笑顔がどうにも納得がいかない。アピールするように周囲に振り撒く石鹸の匂いにもイライラしてしまう。他人に向けるべきでない感情は、月経前症候群PМSによる副産物なのか。それとも健吾と〝レス〟状態にある自分の醜い嫉妬心なのか――。


 いずれにせよ、女として求められずにいる自分と比較して勝手に羨んでいることは間違いない。幸せな空気に本格的に当てられる前に歩るきだすと、左手に歌舞伎町には似つかわしくない大久保公園が姿を見せる。


 高層ビルとマンションに囲われた敷地内には、バスケットやフットサルのコートを完備されていて、時にイベントが行われたりする一方で世間的にはのイメージが付きまとっている。


 その大久保公園沿いのガードレールに、見知った人物が腰掛けている姿を見つけた伊織は小走りで駆け寄ると、肩を叩いて挨拶をした。


「ちょっと敦子さん。入院してたんじゃないの?」

「あら、伊織ちゃんじゃない。久しぶりねぇ。元気してた?」

「もう、はぐらかさないでくださいよ。私は元気ですけど……まだ肝臓がよくないんじゃ?」


 公園沿いのガードレールにもたれ掛かっていた敦子あつこさんは、通行人の目を引くボディコンのワンピースの上にジャケットという出で立ちで、パーラメントを燻らせて立っていた。


「仕方がないわよ。入院してたところで完治するわけでもないし。寝ているだけで入院費がかさんでいくだけなんだから。それならいっそ退院して仕事してたほうが健康的よ」


 宙に輪っかの煙を吐き出しながらウインクをするも、眼球の白い部分が黄色に染まって目尻には化粧で誤魔化せない深いシワが目立つ。


 飲食店や遊興施設、カラオケ店が軒を連ねる一番街やセントラルロードと異なり、二丁目の中でも特に異質な空気を醸し出しているのが、〝立ちんぼ〟で一躍有名になった東端に位置する区画である。


 数年前の感染爆発パンデミックを境に、職を求めて全国から集まった女性が売春目的で集まったことで、最盛期には百人近い女性が等間隔に並んで客引きをしている光景が、お茶の間に流れたのは記憶に新しい。


 敦子さんはパンデミック以前からここに立っている古株で、年齢は怖くて未だ聞けていない。一応は客がついてるというのだから恐ろしい。どれだけ若く見積もっても五十かそこらで、実年齢はさらに上であることは間違いない。


 数年前にたまたま二丁目のバーで一緒になって以来、顔を合わせると他愛もない会話に興じている仲だったが、肝臓を悪くしたとかで長期入院していたために歌舞伎町から姿を消していたのだが、まさか再会できるとは思いもしなかった。


「素人だから適当なこと言えないけど、黄疸おうだんが出てるんだし軽症ってことはないでしょ」

「いいのいいの。人間は遅かれ早かれいつかは死ぬもんだし、どうせ死ぬなら死期は早いほうがいいってものよ」

「はあ……。ほんと人の忠告を聞かない人なんだから。ていうか、仕事をするにも時間的に路上に立つの早すぎません?」

「ああ、伊織ちゃんはまだ知らないのか」


 そう言うと、敦子さんはプラダのショルダーバッグ(スーパーコピー)から雑に折り畳まれたチラシを取り出す。


 どうやらNPO法人が作成したもので、内容は不特定多数の相手との性行為の危険性や、知らないうちに事件に巻き込まれる具体例を交えて、数行に渡って立ちんぼを辞めるよう促す警告文が記されている。


 最後に代表者の氏名と連絡先が書かれていた。


「ひめのりおん?」

姫野ひめの凜音りおって読むのよ。最近歌舞伎町内でよく見かける得体のしれないNPO団体さ。私たちみたいな女の子を見つけると教師センコーみたいに同業の子に説教するわけ。『貴方の人生それでいいのですか?』ってね」


 敦子さんが〝女の子〟と呼べる年齢かはさておき、確かに立ちんぼが社会問題化している以上、どこかで歯止めをかけなければならないのは事実である。


「奴らが姿を見せるのは決まって夜の七時以降なのよ。いちいち声をかけられてたら仕事にならないから、早めに立ってるわけ」

「なるほど。他の女の子はまだ来てないんですか?」

「日によってまちまちなんだけど……最近はそもそもの数が減ってるわね。説教に感化されて歌舞伎町から去っていく女の子も増えてるみたいだし」

「まあ、真っ当な暮らしに戻るのが一番ですけどね」


 そこまで口にして、敦子さんに対して失礼に当たるのではと危惧したものの当の本人は気にする素振りも見せずに新しく加えた煙草の穂先に火を灯す。


「ねえねえ伊織ちゃん」

「なんですか?」

「もしかして、これから用事があるんじゃないの?」

「あ……まずい。忘れてた」


 現在進行系で遅刻をしていることを思い出し、慌ててチラシを返したのだが、「代わりに捨てといて」とやんわり受取を拒否されたので、仕方なくカバンの中に突っ込む。


 また今度飲みに行こうね、と口約束を交わして伊織はその場を離れた。



 


 

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