―現―

 アスファルトの水溜りに落ちる雨粒が、水面に幾重もの波紋を重ねている。昨晩から降り出した雨は、日付けを跨いでも止む気配を見せず、正午を過ぎた現在まで降ったり止んだりを繰り返している。


 暦の上では秋だというのに、九月の新宿は息苦しささえ感じるほどの湿度に覆われていた。呼吸をするたびに肺腑はいふの奥底に水が溜まっていくような、非現実的な錯覚にとらわれる。


 予期せぬ車輌トラブルに巻き込まれていた斎藤伊織さいとういおりは、当初の予定時刻から一時間も遅れて西武新宿駅に到着した。


 こめかみを押さえながら空を見上げると、鈍色にびいろの雲が低く垂れ込めている。底が丸みを帯びた形が、歪な乳房のように見えなくもない。


 急発達した低気圧は、慢性的な片頭痛の悪化を伊織にもたらすため、出来れば出歩きたくないのが本音であるが仕事であればそうも言ってられない。背中側に手を回すと、頭痛以上に頭を悩ませている腰を擦って重い溜息を吐いた。


 実は昨日から始まった〝月のもの〟の症状が、普段の数倍も酷かったせいで睡眠時間は仮眠レベルしかとれていなかった。この痛みと圧迫感を喩えるなら――下腹部の上で力士が二十四時間休まずに四股を踏んでいるようなものだ。


 断続的に続く痛みの波は、昼夜問わず伊織を襲い続けている。今朝の起床後は特に酷かった。夜用ナプキンでさえ吸収しきれなかった量の経血が、溢れ出したことで下着はおろか、ベッドシーツまで汚すという惨状が広がっていたのだ。


 鎮痛薬を通常の倍ほど服用して、家を出る頃には多少は痛みがひいてはいたものの、何時何時ぶり返すかわからない恐怖に晒され続けている。


 そんなこととはつゆ知らず、寝坊して慌てて出勤の準備をしていた高岡健吾たかおかけんごは、ベッドで横になっていた伊織に不平不満を漏らしていた。


「しんどいのはわかるけどさ、毎月のことなんだからさすがに慣れてるだろ? 簡単なものでいいから朝食くらい用意してくれたっていいじゃないか」

「ごめん……。今回は本当に怠いの……。食パンはあるから自分で焼いてくれる?」

「なんだよ、面倒くさいな」


 トースターでパンを焼くことの何が面倒なのか、伊織には全く理解ができなかったが反論する気力もなく、ボヤく健吾を無視してベッドで寝ていた。


 付き合って五年目――同棲してはや三年目に突入していた相棒パートナーの健吾とは、書類上は赤の他人。結婚式もしていなければ、入籍届も提出していない。


 今では初々しさなど枯れ果て――互いにそんな年齢としでもないが――最低限の会話で関係は成り立っているし、それが丁度いいと距離感とさえ思い始めていた。


「子どもが欲しい」


 それとなく結婚を促す意思を伝えたことも過去にはあるが、意図は伝わらず今に至る。このまま女性として終わっていくのかと考えると、深い海に沈んでいくような――途方もない不安にかられることもある。


 ストレスは生理痛に禁物と自分に言い聞かせ、肩から提げていたトートバッグから折り畳み傘を取り出して広げる。


 まだ右も左もわからない新卒社員だった頃、奮発して初任給の半分くらいの金額を注ぎ込んでで購入した本革のバッグは、こまめに手入れを施しているため時間の経過を感じさせない。使ってる本人の劣化は著しいが……。


 時の流れの残酷さを噛み締めて横断歩道を渡りだすと、薬の効果が早くも切れ始めたのか下半身に違和感を感じた。


 念の為、商業施設のトイレを借りてナプキンを取り替えようかと思案したが、ただでさえ遅刻している身分でさらに時間をかけてしまえば、〝あの男〟に何を言われるか溜まったものではない。


 これ以上余計にストレスの元を増やしたくはない一心で、覚悟を決めて歩みを進める。足早に車道を横切る伊織の視界の隅には、何台もの車に轢かれて身体を四散させていた揺籠クレイドルの残骸が、アスファルトの上でウジ虫のように蠢いていた。

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