―邂逅Ⅲ―

「九五〇〇だって? 冗談だろ。ほぼ小笠原海溝の海底に近い水深じゃないか」


 電源を喪失している間に、しおさいは潮流に乗って下へ下へと降下を続けていたらしく、小笠原海溝で最も深いとされる水深九五〇〇〇メートル付近の海底に着底していた。


 その世界に到達した人類が、歴史上どれほどいるだろうか――。宇宙よりも遠いと言われる深海の遥か底で、時が止まったように静寂と暗闇が支配する世界が拡がる。


 沖浦一行を乗せたしおさいが、海底に着底した衝撃で悠久の時を経て堆積した微生物の死骸と糞が、パウダースノーのように白く舞い上がっていた。


 しばし言葉を失っていると、船外モニターを凝視していた木下が恐る恐る尋ねてきた。


「あの……沖浦さん」

「なんだ」

「このって、なんですかね?」


 乗用車七台分の光量に相当する投光器が、前方十メートルの狭い範囲に舞い上がる堆積物を淡く照らしていた。


「おいおい……。なんだよ、こいつらは」


 内藤はを目にするや、珍しくす言葉を詰まらせながら口にした。人生を海に捧げてきたと言っても過言ではない沖浦をもってしても、モニターに映り込んでいる信じがたい光景に、ただ息を呑むしかできなかった。


 誰の目にも触れない海の底を舞台に、ひらりひらりと、優雅な舞を踊るように一匹の生物が遊泳している。


 頭部から伸びる二本の触角に、海牛うみうしが有する側足そくさくと呼ばれるヒレに近い器官を波打たせていた。


 しおさいが照らす投光器の光が、半透明の体に反射してミラーボールのように七色に光っている。


「断言はできないが……恐らくの一種だと思われる。しかしこのような深海でウミウシが発見された話など、これまで一度も聞いたことがない。生息域だってこれまでの常識からすると考えられないが……体色といい体長といい、新種の生物で間違いない」


 海底に叩き落された緊急事態にも関わらず、沖浦を含めた三人が三人とも船外を映像を映しだす画面に目を奪われていた。


 地球上で五千から六千種にも上るウミウシは、最大サイズとなる種でさえ三十センチにも満たない。にもかかわらず眼の前に現れた個体は、採取用のマニピュレータと比較しても軽く一メートルに達する体長で、それまでの常識はまるで通用しない。


「とにかく捕獲をしよう」


 逸る気持ちを抑えて未知の生物の捕獲に成功すると、角度を変えた投光器がさらなる光景を映し出した――。


 極限下の海底一面に、捕らえたばかりの個体の仲間が、文字通り山のように溢れかえってうごめいている。


 数百数千――数を数えるのも馬鹿馬鹿しくなる群体が、まるで一つの個体のように光に反応して波打つ光景に、沖浦の両目から不思議と涙が溢れて止まらなかった。


「これは世紀の大発見になるぞ」


 功名心がなかったと言えば嘘になるが、未知の生物を捕らえられるだけ捕獲した沖浦たちは、上機嫌で制限時間ギリギリに支援母船に帰還を果たした。


 しおさいの添乗員が無事であったことに安堵するスタッフの中で、沖浦だけは一人新種に名付ける名前を既に考え始めていた。


 保管カプセルの中に閉じ込められた生物は、見るものを魅了する踊り子のようにゆらりゆらりと舞い続けている。

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