私に流れる赤い液体

金石みずき

私に流れる赤い液体

 細い筋のような線が走り、ぷつぷつと雫が膨れた。よかった。ちゃんと流れていた。発育の乏しい胸をほっと撫で下ろしたところで、ふと思う。これは本当に血なのだろうか。似ているだけの、ただの赤い液体なのではないだろうか。

『人の血が通ってないんじゃないの』

 手首を伝って零れた雫が風呂場の床を赤く染めた。


 母が死んだ。桜の開花宣言が流れた日の事故だった。突然の訃報は驚くほど現実味がなく、だが受け入れられないわけでもなかった。むしろ「なんだこんなものか」とあっけなささえ覚えた。母の遺体をただただ無表情で見下ろす私に、顔も知らなかった親戚たちはたいそう気味が悪そうにしていたけれど、心底どうでもよかった。それよりもこれからどうなるのだろうか、という漫然とした不安の方が大きかった。そういえば最後に激情に身を任せたのはいつのことだっただろうか。


 物心ついた頃から母子家庭だった。六畳一間の畳敷きアパート。トイレはあったけれどお風呂はなし。朝食はなくて当たり前。夕飯だって二日に一度か、三日に一度ほど。体面を気にする母が給食費だけは払っていてくれたので、昼食だけ平日は毎日食べられた。とはいえどう取り繕おうにも、同級生たちと比べて明らかに小さく痩せっぱちで、髪にも艶のない私を見れば、どんな生活を送っているのか想像がつきそうなものだけれど。

 

 母は週に一度か二度ほどしか帰ってこず、たまに帰ってきたと思えばよく私を殴った。自分は必死に働いているのに学生の分際で勉強すらしないのはどういうわけだ、がお決まりの文句。常に低空飛行を続ける私の成績を見ての言葉だったが、ノートを使ったら「余計な出費が嵩む」と怒られるのに、一体どうしろというのか。教科書を読むくらいは出来たかもしれないが、読んでいるとお腹が空くので気は進まなかった。


 幼い頃はもう少し感情を表に出していたと思う。けれどいつの頃からか、出さなくなった。笑えば「あんたは暢気でいいわね」と怒られ、泣けば「疲れてるんだからやめてよ」とやっぱり怒られる。何もしなければその点で母が不機嫌になることはなかった。いつしか能面を張り付けた様に過ごすことが板に付いていた。


 身寄りのなくなった私の処遇を巡って、親戚たちは大いに揉めた。引き取りたいというものなど、誰もいなかった。当然だ。進んで負債を抱えたいものなどいるはずがない。私にもどうしたいか訊かれたが、何を選べるのかわからなかった。だから黙っていたら、何も訊かれなくなった。


 そのうち話が落ち着いたらしく、遠縁らしい親戚の家に引き取られた。今まで暮らしていたアパートとは違い、一軒家だった。特別広くはないかもしれないけれど、決して小さくはない。近所の家と比べてもおそらく平均的で、しかし私にとってはとても広い家だった。引き取る際はあれだけ揉めていたわりに、おじさんとおばさんは私に良くしてくれた。子宝に恵まれなかったらしく、将来子供ができたときに与える予定だったらしい部屋をあてがわれた。その家や部屋を自分の居場所だとはなかなか思えなかったが、自分の部屋の広さはアパートとちょうど同じくらいで、隅っこで丸まっていると妙に落ち着いた。


 通っていた学校は、引っ越しに伴い転校することになった。元々話すような人は少なかったけれど、今度は全くいなくなった。転校したての頃は興味本位か話しかけてくれる人はいたが、せっかく話しかけてくれても私はぼそぼそと一言返せればいいところで、話甲斐がないと思ったのかすぐに誰も寄って来なくなった。しかし退屈は退屈なので、休み時間は教室の中や窓の外を眺めて過ごした。目に入る人たちは皆、笑ったり怒ったり泣いたり、どんな形にせよ豊かな表情をしていた。手を伸ばせば届くほど近くにいるのに、世界が断絶しているほど遠くに感じた。


 おじさんたちは私が母を亡くしてふさぎ込んでいると思ったらしい。よく連れ出そうとしてくれたし、私は何も希望しなかったけれど、いろいろな物を買い与えてくれた。そのたびに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 ご飯は三食食べられたし、本だって買ってくれた。ノートも鉛筆も惜しむことはない。それどころかカラーペンはいらないのかなんて訊かれたくらいだが、赤以外は用途がわからなかったので断った。さすがに買ってもらいっぱなしで何もしないわけにはいかないので、家で勉強を始めた。成績は伸びた。


 しかしそんなおじさんたちもだんだんと、言葉の端々に苛立ちのようなものを見せるようになってきた。いつまでたっても何も主張せず、表情すらほとんど動かさない私が癪に障ったのかもしれない。

 そんなある日のこと、たまたま深夜に目が覚めたため水でも飲もうと階段を降りたとき、リビングに通じる扉から光が漏れていることに気がついた。音を立てないように近寄ると、おじさんとおばさん二人の話し声が聴こえてきた。途中からなので詳しくはわからないが、どうやら私のことを話しているらしかった。


「あの子のこと、どう思う?」

「何しても無反応よね。何が楽しくて生きてるのかしら。いい加減、嫌になっちゃう」

「無理に笑えとは言わないが、不満なら何か言ってくれればいいのにな。とはいえ、一体どうしたものか」

「本当にそうよ。もうちょっと感情表に出したらどうなのかしら。まるでロボットみたい。人の血が通ってないんじゃないの」

「おいおい参ってるのはわかるけどそんなこと言うなよ。あの子だって――」


 聞いているうちに背筋が寒くなった。これ以上、ここにいてはいけないと思った。急いで、でも音を立てないように階段を駆け上がった私は、自分の部屋に入ると布団にくるまって目を閉じた。

 さっき出て行って何か言えばよかったのだろうか。謝ればよかったのだろうか。涙ながらに何かを訴えればよかったのだろうか。

 痛かった。けれど泣けないし怒る気もしない。感情に確かな起伏は感じたけれど、表に出すまでには達しない。そういえば涙は血から作られると聞いたことがある。血が通っていないから、母が死んだときですら泣かなかったのかもしれない。


 そして明くる日のこと、切ってみた。風呂場にあった剃刀カミソリを手首に当てて、横に引いた。尖った痛みと共に、赤の液体が床を濡らした。思ったほどは流れてこなかったが、別に死にたかったわけではないから、むしろ都合がよかった。結局流れてきたのは血だったのかわからなかった。


 風呂場を出てから真っ先に悩んだのは、傷の隠し方だった。なんとなくだが、バレてはいけないと思ったからだ。だがすぐに長袖を着ておけばいいやと思い至った。どうせもう私に関心を向ける人などいないのだから。ふと、学校で見た私以外の姿が思い浮かんだ。彼らではきっと隠せない。親なり友人なりが、あっという間に見つけてしまうのだろう。想像して可笑しくなった。鏡に写った自分の口角が、ほんのわずかだが上がっていたことに驚いた。皮肉なものだ。そんなことを確かめる必要のない彼らの中には、きっと人の血が通っているのだろう。

 

 それからの私は、時折おじさんたちの目を盗んでは、切ることを続けた。剃刀を軽く当て、引く。ついた傷は赤から茶になり、やがて白く残った。流れてくる赤い液体は相変わらず血かわからなかったが、刃物の冷たさと引き攣れたような痛みは、いつも私を安心させた。理由はわからない。与えられるだけ与えられて何も返そうとしない自分に罰を与えているような気にでもなっていたのかもしれないし、そんな気になっている自分に酔っていただけなのかもしれない。だがなんとなく、その痛みのあるときだけは、私がこの世界にいることを許されているような気がした。


 しかしそんな日々は、そう長く続かない。油断していたのだ。


 学校が夏休みに入った。傷を隠すために日中はずっと長袖を着ていた私だったが、寝るときはエアコンを切って半袖で過ごしていた。電気代がかかるからだ。昼間は図書館やスーパーなどどこかで涼をとれるけれど、夜に彷徨っていたら補導されてしまう。話すことは相変わらずあまりなかったけれど、面倒を見てくれているおじさんたちに迷惑をかけたくなかった。


 そんな夏休みの、特に暑い日の朝のことだった。前日の夜、あまりの暑さになかなか寝付けなかった私は、いつも起きる時間を大幅に超過して眠ってしまっていた。別に夏休みなのだから、そんな日があっても良い。だが、基本的には人のいいおばさんは、私が起きてこないことが気になったらしい。彼女は私が夜にエアコンをかけていないことを知っていた。もしかすると熱中症で倒れているかもしれないとまで、考えたかもしれない。


 おそらく彼女は物音を立てぬように、慎重にドアを開けたのだろう。そして見たのだ。ベッドで寝ている私と、投げ出された傷だらけの腕を。


 小さな悲鳴に気が付いて飛び起きた私は、状況を悟って慌てて隠したけれど、当然遅かった。血相を変えてやってきたおばさんが私の肩を掴んだ。必死の形相で「なんでそんなことしたの」と詰め寄った。寝起きで頭が回っていない上、何をどう取り繕っても誤魔化せない状況にどうしようもなくなった私には、素直に答える以外の選択肢は残されていなかった。


「人の血が通っているか、確かめようとしてた」


 それを聞いたおばさんは息を呑み、私の頬を張った。そして涙を流し、私を強い力で抱きしめた。ごめんなさい、ごめんなさいと何度も謝られた。何を謝っているのか、完全には理解出来なかった。ああ言ってしまったおばさんの気持ちはむしろ理解できるし、元はと言えば、よくしてくれていた彼らに何も返さなかった私が悪いのだから。ただ、力強く抱きしめられた感触と頬の痛み、そしておばさんから流れ出た雫で濡れた肩のすべてが温かかった。


 それを実感したとき、不意に視界が歪み、涙が一筋流れた。私には人の血が通っていた。

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