ランチのシンデレラ

風天堂

第1話

 ベンチに座り、透き通るような青い空を見上げていたら、クゥと腹の音がした。

 と同時に、十二時を知らせる街のチャイムが鳴る。

 世間は、ランチに出てくる人が多くなってきている。神崎ヒロトは人の動きを見ながら、あの人達は何を食べるんだろうと、無駄な想像をしてみる。

 そういえば今日は朝から何も食べてなかったな、というか、ここ何日か食うや食わずだった。

 貧乏大学生のヒロトにとって、いかに一食がありがたいことか、身に染みてわかっている。

 とりあえずバイトの給料が出るまであと五日、それまで、公園の水でも飲んで凌ぐしかなかった。

 立ちあがろうとした時、砂糖を焦がしたような甘い香りが鼻をついた。

 ヒロトは隣のベンチに座り、小さなランチボックスを開けた女性を、じっと見ていた。

 今思うと、物欲しそうにヨダレを垂らしていたかもしれない。


 ーーねえ、君、よかったら食べない?


 気づいた女性は、話しかけてきた。歳は自分と同じ二十代くらい。見た感じ小柄で細身。艶のいいストレートの黒髪が肩まで伸び、涼しげな切長の二重がどことなく品を感じさせる。

 鼻筋は通り、唇はややぽってりとしている。特徴的なのは昔の姫様のように、前髪が一直線に切り揃えられているとこだ。

 普通ならおかしく感じても無理はないが、どことなく彼女には似合っている気がする。


 微笑んでいる彼女のつまんだ箸先には、綺麗に何層にもなっている玉子焼きが、太陽に照らされて、輝いている。

 それを見てヒロトは、またお腹が鳴った。

「ほら、お腹空いているんでしょ」

「えっ、でも……」

「遠慮しなくていいから。ほら、遠慮と貧乏はするもんじゃないってね」

 まるで、うちのばあちゃんが言ってたような台詞を言う。

 女性は、持っているランチボックスを差し出すと、ヒロトは誘蛾灯のごとく近づいて、玉子焼きを口に入れた。

「うん…うん…」

 頷きながら、ヒロトはもう一つ口に入れた。適度な甘さと若干の塩気が口一杯に広がる。それとほのかな温もりも…。

 寿司屋のような本格的なものでなく、母親の愛情がこもっているどこか懐かしい玉子焼き。

 ヒロトの記憶の中で、かすかに蘇る。

「で、味はどうよ?」

「うまいに決まっているよ。最高!でも、玉子焼きって、さじ加減が難しいと思うけど、君、料理上手いんだね」

「確かに、玉子焼きは簡単そうに見えて、その塩梅が難しいわね。でも、他の料理も食べたことないのに、料理が上手いだなんて、よく言うわよ」

 ややぽってりした唇を突き出す。が、その後、すぐに笑顔になる。

 天気予報のように、くるくると表情がよく変わる。

「まあ、それはそうだ」

「じゃあさ、こうしない?わたしが料理上手かどうか弁当を作ってくるから、それを食べて君判断してよ」

「だけど、それじゃ悪いだろ。食材だってタダじゃないんだし」

十円のもやし一つ買うのに悩んだこともあるヒロトは、顔を曇らせる。

「大丈夫だよ。食堂で余った食材を使うから」

「食堂?君、食堂で働いているの?」

「まあね。だから、気にしなくていいよ。あくまでモニタリングとしてでもいいから」

「そういうことなら…」

「じゃ、決まりね。あっ名前言ってなかったね。わたしは、仙道サクラ」

「俺は神崎ヒロト」

「じゃ、ヒロト。これからよろしくね。あ、そうだ。悪いけど、携帯にメール入れといてくれる?」

サクラは、ヒロトに携帯を手渡した。

 まだ何か引っかかる気がするが、悪い娘じゃなさそうだし、何より一食分、浮くのが魅力的だった。

「さてと、お付きが探しているかもしれないから行くわね。じゃ、またね。お気をつけてー」

 軽く頭をぺこりと下げた彼女は、ゆらゆらとした暑さが立ち昇る中、幻のように消えていった。


「……それで、あんたちゃんと大学行ってるの?」

四時限目の介護三原則の授業が終わり、昼休みに入ったところで、叔母の節子から電話がかかった。

「……ああ、ぼちぼち」

「ちょっと、ぼちぼちって何よ。せっかく大学に入ったんだから、せめて卒業しないともったいないでしょ。咲子だって、心配するし」

いつも釘を刺しに、ちょくちょく電話をかけてくる。ちなみに咲子は、ヒロトの母親だ。今はフリーで雑誌編集をしていて、海外に取材に行っている。

「わかってるよ。でもさ、大学ったって野球の特待で入ったわけだし、今じゃそれも出来なくなったんじゃ、いる意味なくない?」

「そんなことないだろに。だったら、資格だけでも取るつもりで行けばいいんじゃない。何、あんた、まだ野球に未練があるの?」

「まぁ……それは……」

「いい。医者もその肩と肘は完全には治らないって言ったんでしょ。だったら、諦めるしかないじゃない。男はね、どんなに辛いことがあっても、黙って腹をくくるもんよ。それが男の美学ね」

一昔前の任侠映画みたいな台詞を吐き出した叔母の自分に酔っている姿が目に浮かぶ。

「わかったよ。励まし、どーもです」

 これ以上また口を出せば面倒なので、礼だけ言って切り上げた。



 台所で、鍋がグツグツと美味しそうに煮上がる音を立てている。その側で、トントントンと包丁が軽快なリズムを刻んでいる。

 リズムを刻んでいるのは、割烹着を着た年配の女性。綺麗な白髪を後ろで束ね、背筋もしゃんと伸びている。

「ヤバい、ヤバっ!おはよう、ばっちゃ」

 ドタドタと足音をたてながら、ユリがボサボサの頭を振り乱しながら、洗面に向かった。

「ちょっと、もう、忙しいわね。だから、あれほど夜更かしはしなさんなって言ったのに。言わんこっちゃない」

「わかってるけどさあ、レイズメンのシュウタのソロキャンプの動画が、どうしても観たかったんだよ」

 洗面台から、バシャバシャと豪快な音が聞こえてくる。そしてまた台所に来ると、煮上がっていた鍋から、里芋の煮ころがしを口に放り入れる。

「うむっ、相変わらず上手いよ、ばっちゃ」

「もう、行儀が悪いんだから。少しは、お姉ちゃんを見習いな!」 

 呆れるように年配の女性は首を振った。

 ユリはモグモグさせながら手早く制服に着替えて、玄関にいく。

「じゃあ、いってきま〜す」

「ちょっと待ってユリ、ほら、お弁当」

 花柄の弁当袋を手渡す。

「ありがと。でもさ、この袋、何とかなんない?もう、子供じゃないんだし」

「どうしてだい?可愛くっていいじゃないか。お姉ちゃんも、気に入ってたよ」

「今だったら、もっとシックな袋がいいって言うに決まっているよ」

「そうかね〜」

 ばっちゃと呼ばれた年配の女性は、頬に手をあてて、視線を上に向ける。

「じゃあ、ね!」

 玄関脇に置いてある自転車にまたがり、ユリは猛ダッシュでこいでいった。

「事故に気をつけなよ!」

 年配の女性は背中越しに声をかけると、ユリは手を振って応えた。


 腕時計を見ながら、ヒロトは大学からそう離れていない公園に走ってきた。

 彼女との約束の十二時に遅れないためだ。メールでは、行きますと言っていたが、本当に来るか疑心暗鬼だった。

何しろ、たまたま偶然に公園のベンチに居合わせ、弁当の玉子焼きをもらって食べた。

 それだけでも、十分、おかしな関わりだが、それに輪をかけて、見ず知らずの者に弁当を作ってきてくれるというのも、何か魂胆があるんじゃないかと眉をひそめてしまう。

 それでも、彼女に何故か彼女に会いたいという気持ちが勝っていた。


 公園の中央に噴水があり、その周りにベンチが所々置かれているので、ヒロトはざっと見回した。

 すると、トントンと肩を叩かれ振り向くと、指が頬に食い込んだ。

「あっ、なんだよ!」

「ごめん、これを一度やってみたかったんだ」

 軽く手を合わせながら、サクラが無邪気に微笑んでいる。

「ちょっと、子供じゃないんだから」

 少しむくれたが、学校の帰り道、よく友達と繰り返ししていた懐かしい記憶が頭をかすめた。

「本当に悪かったよ。代わりに、美味しいの作ってきたから」

 近くのベンチに座り、大きめのショルダーバックから、ひまわりの柄をした弁当袋を出した。

 ヒロトも隣に座り、「本当に作ってきたんだ」と言った。

「わたしは、嘘はつかないよ」

 そういって、前に見たピンクの二段の弁当箱を出す。一段はおかず、もう一段はごはんが敷き詰められている。

 おかずは、生姜焼きにシメジとインゲンの白和え、里芋の煮ころがしに玉子焼きがきれいに詰めてある。

 最後に彩りを意識してか、プチトマトが端に添えられていた。

「うわっ、うまそ!」

 ヒロトは思わず声を出した。と同時に腹の虫も鳴る。

「さあ、どうぞ、召し上がれ」

「いただきます」

 ヒロトは、まず生姜焼きから口に入れると、甘辛いタレと生姜のさわやかな辛みが絶妙に豚肉に染み込んで、白メシをすぐにかきこんだ。

「すごい勢いね。ねえ、普段、あまり食べてないの?」

「バイトしても生活がギリギリだから、食費を抑える時もあるけど」

「大学生なの?」

「そう。そこの東城大学の三年」

「大学生かあ、いいなあ」

 サクラは、羨ましそうに声を上げた。

「君は…そっか、食堂で働いているんだったね」

「まあ、働いているっていうか、ボランティアだけど。だからいつも、今日作ろうと思うものを試しに作ってみてみるの。で、それをお弁当にして、ユリに持たせているんだけど。大体多く作っちゃうから、ヒロトに食べてもらえるのは、かえってよかったよ」

 すでに半分以上食べ終わっているヒロトを、サクラは満足そうに見ていた。

「ユリ?」

「ああ、わたしの妹。今、高校生なんだけど、いつもギリギリに起きるから、それはもう朝から戦争よ。あっ、こんなこと言ったら、兵隊さんに怒られるわね」

 サクラは舌をちょこっと出して、申し訳ない顔をする。

「妹さんと暮らしているんだね」

「あとは……おばあちゃん。うちはシングルマザーなんだけど……ちょっと具合が悪くなって、ずっと入院しているんだよ。だから、おばあちゃんが母親代わりで、色々してくれているんだ」

「へぇ、大変なんだね。けど、こっちも父親が事故で亡くなって、シングルマザーで育っているから、似ているか。それと、何かにつけて面倒みたがる叔母の口撃を浴びなきゃならないけど」

 大げさに口うるさい仕草をすると、サクラはクスッと笑った。

「けど、この前もこの公園で会ったけど、食堂が近くなの?」

「違う。病院が近いから」

「あっ、そのお母さんの」

「違うよ。わたしだよ……わたし、がんなんだよ」

 そよそよと吹く風に混じって、こともなげにサクラは言った。

「えっ……」

言葉に詰まり、なんて言っていいかわからなかった。

「子宮頚がん。今はそこからリンパ節まで転移してね、ステージ四なんだ。だから…いつまで生きられるかわからない」

 食欲が一気に失せ、その代わり胸の辺りが重苦しくなった。

 ヒロトは、パタッと箸を置いた。

「ごめん。こんな話されたら、食欲も失せるよね。けど、大丈夫だよ。まだ、やりたいこともあるから、そうそう死ねないよ」

 安心させようと、彼女は上半身をひねったり、腕を伸ばしたりして、元気をアピールする。

「けど、やりたいことって?」

「ちょっと待って」

 サクラはバックからメモ帳を出して、ヒロトに広げて見せた。


一、美味しい料理を作って喜ばす


一、美味しいものをいっぱい食べる


一、遊園地と動物園に行く


一、きらきらしたところに行きたい


一、学校に通う


 

 箇条書きで、五項目が書いてあった。それぞれが出来そうなものもあれば、難しいものもある。

「どう、思う?」

「まあ、全部一気にやるのは難しいから、まず出来ることからやったらいいんじゃないかな。例えば、この美味しいものをいっぱい食べるって、具体的に何が食べたいの?」

「そうねえ……」

 顎に手をあてて、彼女はしばし考え込む。ヒロトは改めて箇条書きを見ると、これまでいかに制約された生活を送っていたか、不遇な身の上であったかが推測される。

ただ、まだ知り合って間がないので、それが本当かどうかもわからないし、箇条書き自体も、深い意味はなくて、その時思いついたものを書いたのかもしれない。

「……ちょっと恥ずかしいんだけど、ファミリーレストランに行ってみたい」

 声音を落として言った。

「ファミレス?ああ、それならすぐだね。今度、一緒に行こうよ。俺が奢るから」

 さらっと言ってしまった後で、何だかこっちも気恥かしくなった。

 これまで野球一筋に打ち込み、正直、女性を食事に誘ったことがほとんどなかった。ただ、高校生の時、親身になって世話をしてくれたマネージャーが好きになり、告白するつもりで誘ったことはある。

 その時でも、心臓はバクバクし、言葉もしどろもどろになった。

 結局、食事には行ったが、上手くはいかなかった。そういう苦い思い出があるので、いつしか女の人との距離の取り方がわからないでいる。

 でも今は、デートに誘ったわけではないから、気楽に言えたのかもしれない。

「やった!楽しみにしてるね。何、食べようかなぁ」

 彼女は、子供のように目を輝かせながら、想像を巡らせている。

 それを見てヒロトは、また一段と彼女に惹かれていった。


 乾いた金属音が、次々と響いていた。ヒロトは、朝から受付やピッチングマシンの玉入れなど、休む暇なく動いていた。

 ヒロトの実家のある八王子の駅前から少し離れたところにある『道重バッティングセンター』は、子供の頃から、慣れ親しんだ場所である。

 オーナーの道重幸三は、すでに八十をとうに越えているが、まだまだ若いもんには負けてなるものか、と息盛んだった。

 昔ながらのバッティングケージは、球速の違う六打席があり、時々、球が詰まって出なくなるトラブルが起こる。

 それを直すのを含めた従業員は三人いる。ただ、それでも回っていかない時は、バイトを掛け持ちしているヒロトが、臨時で駆けつけるのだった。

「……やれやれ、やっとかよ」

 九月の残暑が予想以上に厳しく、首に巻いたタオルで額の汗を拭いながら事務所に戻ってきたヒロトは、ふうと息をついた。

 ちょうど、休憩の時間になったからだ。

 事務所にはもう一人、自分と同じくらいの歳の倉田が、エアコンの前で首元をパタパタさせている。

「ご苦労さん。まあ、冷たいもんでも飲め」

 デスクで伝票とにらめっこをしていた幸三は、隅に置いてある冷蔵庫を差し示した。

 ヒロトは麦茶の缶を出して一口飲むと、涼しさが胃の奥の方まで染み込む気がした。

「今年は、本当、異常な暑さですよね。それにこのお客の多さも」

「おい、何言ってんだ、ショウ。この暑さの中、わざわざ来てくれるお客さんには、感謝しなくちゃ。昔から、お客様は神様ですって言うだろが」

「確かに、いっぱい来てくれれば商売繁盛で、神様かもしれないけど、こっちのバイト代アップに繋がらなかったら、忙しいばかりの貧乏神ってことになりますけどね」

 エアコンから離れた倉田は、時計を見てヒロトに手で合図して、事務所を出て行った。

「まったく、あいつときたら……」

 幸三は苦い顔をする。仕事はテキパキとこなすが、一言多いのが玉に瑕である。

「でも、悪いヤツじゃないですよ」

「わかっている。だから、雇っているんだ。ところで、悪かったな、急に呼び出して。何しろ、一人コロナにかかっちまったから」

「いえ、大丈夫です。今日はバイト休みだから」

「そうか、助かったよ。ところで、学校はどうなんだ?」

 元プロ野球選手だったという幸三は、歳の割に背も高く、がっしりしている。

 体力も他の従業員と変わらず動けるのだから、この年代の人は半端なく鍛えてきたのかもしれない、とヒロトは時々、感心する。

「まあ、ぼちぼちってところです」

「介護だっけ?おれ達みたいな年寄りの世話の勉強するとは、世の中も変わったよな。昔は、長男が見るっていうのが、当たり前だったんだから」

 ゴツゴツした指の間にタバコを挟んだ幸三は、天井に向けて煙を吐き出した。

「今は核家族や夫婦共働きが普通だから、家で見るのは不可能に近いですね。まして認知があれば」

「おれなんか一人だから、施設に入るか、野垂れ死ぬしかねえわな。けど施設たって、コレがからっけつじゃ、話になんないけど」

 人差し指と親指を丸くして、一瞬、情けない顔をしたがすぐにガハハと笑った。

幸三はもうずいぶん前に離婚していた。子供は息子と娘がいるらしいが、連絡は取っていないと、以前、ヒロトは聞いていた。

「まっ、最後はどうなろうと、今やりたいことをやるのが一番だな」

「バッティングセンターって、面白いですか?」

「ああ、面白いな。最初は打てなかったヤツが、どんどん上達して最後はホームランだ。おれとしてもセンター冥利につきるってもんだ。お前だってそうだったろ、ヒロト」

 確かにここには、小学生の頃から来ている。その時はまだ父親がいたので、バッティングの基本を教えてもらっていた。

 打席に立つ自分に、まず肩幅くらいに足を広げ、当てやすいようにバットを短くして少し寝かせて構える。

 この時、身体に力を入れずリラックスすることが大事だと言われた。もちろん身体の動きをスムーズにするためだ。

 そして球がきたらよく見てタイミングを合わせ、上から振り抜く。

 言われた通りやってみるものの、最初は全然当たらなかった。が、何回かバットを振るうちにかするようになり、それから段々と前に飛ぶようになった。

「中々、筋がいいじゃないか。ヒロトには、野球のセンスがあるかもな」

 父に褒められ満更じゃなくなった俺は、それからすぐに野球を始めた。

「ここは俺の野球の原点だから……」

「お前の親父さんも、熱心だったな。そうやって野球を始めてくれるのは嬉しいことだが、そうじゃない人も、無心に球を叩いてスッキリする。まあ、ストレス発散だな。それだけでも、その人の役に立つなら、おれはいいと思っている」

「じゃ、幸三さん、まだまだ頑張らなきゃですね」

「まっ、朽ち果てるまでやるさ!」

 タバコを揉み消した幸三は、鮮やかな緑色の帽子を被り、肩を回して立ち上がった。


「サクねぇちゃん、腹減ったよ〜」

 小学校の低学年くらいの男の子が、台所に来て、エプロンを着たサクラに抱きついた。

 他の児童らは、こじんまりしたデイルームで積み木をしたり、中学生くらいのお兄さん達とボードゲームをして、時折、嬌声を上げている。

「ちょっと待って。これから夕食の下準備しなくちゃ……でも、その前に軽く何か作るかっ!」

 壁にかけてある時計を見て、サクラは袖を捲った。

 三ヶ月前から、サクラは友達の鴻巣トモコからの頼みで、この子供食堂ほがらかで週二回ボランティアとして働いている。

《ほがらか》に来る子供達は、昼夜問わず働いているシングルマザーや経済的に困窮している家庭を支援すべく、神社の神主であるトモコの父親が開いた子供食堂だった。

 定員は十人。ほとんどが小学校低学年くらいの児童なので、じっとしているなんてことはなく、おもちゃで遊んでいて軽い怪我したり、喧嘩したりなんてしょっちゅうだった。

 普通ならどうしようか焦ったり、嫌になったりするものだが、サクラは時にやさしく宥めたり、時に叱ったり、母親のごとく動じることなく接していった。

 子供達もその思いが通じたのか、次第に心を開き、今では大家族のような雰囲気を醸し出していた。


 冷蔵庫から余った野菜や期限ギリギリのじゃこを出して、水と卵で溶いた小麦粉の中に入れ、酒、みりん、少量の醤油を混ぜ合わせながら、フライパンで焼いていく。

 すぐに香ばしい匂いが部屋中に漂った。遊んでいた子供達もくんくんと鼻を鳴らし、台所へ視線を向ける。

「うまそーな匂いだ、早く食べたいなー」

 抱きついた子供が言うと、「待ってて、すぐに出来るから、あそこからお皿を出しといてくれる?」サクラは棚を指差した。

 子供が皿を出すのに手間取っていると、「ごめん、遅くなったぁ〜」ドタドタと足音が聞こえ、淡い紅色の丸いフレームのメガネをかけた鴻巣トモコが顔をみせた。

「まだ、大丈夫だよ」

「ちょっとご祈祷するのが長引いちゃってさ。慌ててーーん、いい匂い、これは?」

 食いしん坊のトモコは、すぐにフライパンの中身に気づいた。

「おやきだよ。わたしが子供の頃、母がこうやってありあわせの食材を使って作ってくれたの。シンプルだけど、美味しいんだから」

 フライパン一面に香ばしく焼き上がったおやきを六等分に切り、これだけだと足りないので再び焼き始めた。

 ホールで子供達の「美味しい!」の声を聞くと、自然とサクラの頬も緩む。

「ここに来る子供達は、こういう母の味に飢えているから、余計に美味しく感じるかも」

 そういってトモコは、焼き上がったばかりのおやきの切れ端を口に入れた。

「これは母じゃなくて、おばあちゃんの味だよ」

「こういうのってさ、一生頭のどこかに残っているんだよね。私もおばあちゃんが作った大きなおはぎの味が忘れられないもん。もう一度、食べたかったなあ」

 トモコは懐かしむ。

「一皿でもいいから、子供達にはわたしの味を覚えておいてほしいな。そのためには……生きている間にたくさん作んなきゃね」

 サクラの言葉に、たちまちトモコは浮かない顔をする。

 しばらく子供達を見ていたサクラは、「よし!」と気合いを入れて、夕食の準備を始めた。


 待ち合わせは、いつもの公園だった。時刻は11時を回ったところ。ヒロトはいくぶん胸がざわつくのを感じながら、ベンチを見ていく。

 するとトントンと肩を叩かれ……前回、イタズラに引っかかったのを思い出したヒロトは、反対側に顔を向ける。

 ーーすると、むにゅ。くそっ、またかーー。

「なに、うけるぅ〜。こんなきれいに引っかかるなんて〜」

黒いキャップを被った若い細身の女性が、大きく手を叩いている。

「ちょっと、なんだよ!」

 ヒロトは声をあげた。

「ごめん、ヒロト。もう、だからやめなって言ったでしょ、ユリ!」

 ダブッとした編み目の荒い白のバルキーセーターと黒のダメージジーンズを履いているサクラは、口をへの字に曲げている。

「だってさ、今時の小学生だって、もっと警戒するよ。お姉ちゃんの彼氏って素直なんだね」

「ユリって。じゃ、この子が妹の?」

 アニマル柄のロンTに、迷彩のダブッとしたパンツ。大きめのネックレスにリストバンド。いかにもヒップホッパーのような出立ちだった。

「そう。今日会うって言ったら、どんなんだか見てみたいって……あっ、ごめん」

 サクラは手を合わせる。

「別に気にしてないけど……それに彼氏でもないし……」

「わかった。じゃ、候補としてよろしくね、ヒロポン。見た目はアタシのタイプじゃないけど、ヒロポン優しそうだから、とりあえずクリアにしとこう。でもひとつだけ、お姉ちゃん泣かしたら、あたしが許さないからね」

 頬を膨らましパンチを繰り出す仕草をした後、満面の笑みになる。お姉ちゃんと同じうりざね顔だが、鼻は団子鼻で、たまにピクピクと動くのが可愛らしい。

「よしっ!じゃあ、邪魔者はこの辺で消えるとするよ。サラバじゃぞ〜」

 手を振りながら、走っていった。さすがあのノリは女子高生じゃなければまず出来ないし、自分が高校時に会っていたら、絶対避けるタイプだ、と苦笑いした。


「ごめんね、忙しなくてーー」

「今時の高校生って、あんな感じじゃないの。俺らの時よりか弾けてるよ。まさに青春そのものって感じだね。箸が転がっても笑うみたいな。あっ、古いか」

「箸がね〜」

 公園を出て、銀杏並木の大通りをオフィス街に向かって歩いていく。そこは様々な飲食店が立ち並んでいた。

 いつもなら大学でも公園でも、すぐに反対の駅の方に向かっていた。だから、同じ街でも新鮮に感じる。

「もう、すっかり秋ね」

 九月はまだまだ暑い日が続いていたが、銀杏並木は薄く黄色に色づいている。世界中でどんなことが起ころうとも、四季が移ろうのは正直だ。

 オフィス街は日曜ということもあってか、ひっそりとしている。空気も澄んで、ひんやりしているように感じる。

 和洋中の看板やのぼりが所々目に入る中、ヒロトは雑居ビルの二階にあるファミレスに入った。

 店内は客もまばらで、ヒロト達は、窓際の席に座った。

 ウェイトレスがすぐにメニューを持ってくると、うわぁとサクラは目を輝かせた。

「何かあった?」

「だってさ、どれも美味しそうなんだけど」

 チーズハンバーグやエビドリア、たらことしめじのパスタなどの写真は確かに食欲をそそるが、かと言って声を出すほどのパンチ力はない。

「あっ、お子様ランチがある。これ、いいなあ。これ、食べたい」

 写真には、星型のハンバーグにエビフライ、唐揚げ、サラダの横にナポリタンが添えられている。

 さらにチキンライスの上には、オムレツがふんわりと乗り、日本の国旗がちょこんと立っている。

 そのすべてが豪華客船に見立てた器に盛りつけられていた。

「確かに美味しそうだけど、子供限定だね」

 メニューの下にでかでかと書いてあるのを指し示すと、サクラは鼻を鳴らした。

「見かけは大人だけど、中身は子供っていうんじゃダメかな?」

 諦めきれないサクラは、どうにかして食べる方法を探っている。何だか微笑ましい。

「だったら、ほとんどの人が食べられるかも。そんなにお子様ランチがいいの?」

「だって一つのお皿に、憧れの食べものが宝石のように、敷き詰められているんだよ。こんな楽しいことないでしょ!」

 お子様ランチで、こんなに力説するのは初めてだった。

「確かに、俺も子供の頃はよく食べたような記憶はあるけど。でも大人になると、味覚も変わってもっと美味しいのが出てくるでしょ」

「あっ、それはヒロトは恵まれてきたから、そう思えるんだよ。わたしみたいに、食べたいものも食べられない経験をすると、今でもその時に食べられなかったものが貴重に感じるんだよ」

 そういえばうちも貧乏だったから、食べものではないが、欲しかったゲーム機を諦めた記憶がある。

 今でもたまにそれを見かけると、無性に手に入れたくなる衝動にかられる。人によっては駄菓子など、抑えられずに大人買いする人もいるだろう。  

 とりあえずウェイトレスを呼び、どうしても食べたい気持ちをサクラは何度も主張した結果、お子様ランチを注文することが出来た。

 ヒロトは無理を聞いてもらったことの代償として、値段の張るミックスグリルを注文した。

 今日は懐は心配することはない。先日、バッティングセンターを手伝った時、幸三から臨時でバイト料をもらったからだ。

「そんなに大変だったの、子供の頃?」

「はたらけど、はたらけど、猶、わが生活楽にならざり。ぢっと手をみる」

 目をつぶりながら、サクラは呪文のように唱えた。

「それって、授業で聞いたことあるよ」

「石川啄木の『一握の砂』だよ。わたしの子供の頃の心境に似ているから。と言っても、こんなに過酷じゃなかったけど」

 パッと笑顔になって言った。

「うちも母親がシングルマザーになってから贅沢できなくなったけど、唯一、硬式グラブを買ってもらった時は、嬉しかったな」

「硬式グラブって?」

「甲子園を目指す高校生とかプロが使う野球のグラブのことだよ」

「へぇ、凄い。甲子園とかプロとか」

「そんなことないよ。甲子園はあと少しで駄目だったし、プロなんてもう行けないから……」

 トーンを落とした声で外を見つめるヒロトの顔には、これまでになく暗い陰が滲んでいた。

「何かあったの?」

「大学に入ってすぐに肩を痛めてさ、それでも誤魔化しながら投げてたんだけど、今度は肘を痛めて投げられなくなったんだ。投手にとって肩と肘は、かけがえのない宝みたいなもんだから大事にしてきたつもりだったんだけど、やっぱりショックだった……。

 けど諦めるつもりはなかったから、色々な治療や手術もしたけど、結局は元通りにはならなかったんだ……」

 無意識に、ヒロトは肩のあたりを撫でていた。

「……そうなんだ。それは悲しいことね。自分のやりたいことが出来ないって。でもさ、わたしなんて初めから夢だとか目標なんてなかったから、それがどんなに悲しいことなのか、本当のところはわからないけど……ごめんね」

 申し訳なさそうに、サクラは手を合わせた。

「何で君が謝るんだよ。大丈夫、もう、終わったことだから……」

 しんみりするタイミングを見計らって、お子様ランチが運ばれた。

 途端に、わぁとまた子供のような声を上げ、視線をあちこちに向けている。今時の女子ならSNSに上げるため、すぐにスマホを掲げるだろう。

 食べるのもったいないなと言いつつ、エビフライを口に入れる。

「ん〜、美味しいっ!やっぱり、エビフライはフライの王様だね〜」

 一昔前のCMのような台詞を言いつつ、サクラは満足そうにうっとりしている。

 ーー完全に少女に戻ったかな?

 その後も一口食べては感激し、船型のプレートを見渡した。

「はぁー、こんなに美味しかったんだ。どうりであの子も頼むわけだわ」

「あの子?」

「わたしの……大切な人。今はいないけど……いつも外食に行った時、その子は『お子様ランチ、美味しかったよ〜』って瞳を輝かせて、わたしに報告したの。だから、いつかわたしもどんなものか食べたくて」

 彼女の口振りだと、子供の頃の友達?あるいは幼なじみかもしれない。

「よかったね。食べられて」

「うん。まず、美味しいもの一つゲット。ねえ、それも美味しい?」

 運ばれてきたミックスグリルに、サクラは興味津々の顔になる。

「どうぞ、味見してください」

 ヒロトは鉄板を差し出すと、「では、遠慮なく」一口ステーキを口に入れる。

「ん〜これも最高。ニンニクが効いていてスパイシー。よし、二つ目もゲット出来た。今日は盆と正月が来たみたいだ」

 古臭い台詞にハマっているのか、目をつぶりながら味を噛みしめていた。

「あのさ、この分だと美味しいものはキリがないね」

「それだけわたしは、人生を損していたかも。なんて、大袈裟か。けど、誰かと一緒に食べるのはいいよね。それだけで食欲が増し、エネルギーが倍増しそう」

「確かに。美味しさも増すよね」

 心では、君とだからかもしれないと呟いた。

「それも、わかるよ。一人より二人、二人より三人食卓ってさ、誰が欠けても駄目なんだよ……」

 誰かを思ってか、サクラは寂しそうな顔をしている。

 一見すると、わかりやすそうな人。でも、心の中がオブラートで包まれているような……。

 掴みどころがなさそうな、深い何かがあるような……。

 でもとにかく、彼女との食事が楽しいことだけはわかった。


「……それってさあ、何かあんじゃねえの?」

3時限目の講義が終わり、あくびをしながら嶋田耕作は、大きくけのびをした。

「何かってなんだよ?」

 ヒロトは次の講義の教科書を出しながら訊いた。

「たとえば、何かを売りつけるとか怪しい宗教に勧誘するとかさ、何かなければメシなんて作ってこねえだろ」

 一筆文字のような目元をさらに細くして言った。嶋田耕作はヒロトと同じ高校で同じ野球部だった。大学に入ってからは野球はしていないが、バッテリーを組んでいたこともあり、何でも話せる友達だ。

「そういう風には見えないけど。彼女も色々、苦労してそうだし。ただ、何かまだスッキリしないというか……」

「だったら、ハッキリ訊いてみろよ。ズバッとストレートでさ。かわすようなピッチングは、お前らしくないだろ」




 


 

 

 


 


 









 



 











 



























 





 












 














































 






 







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