8-9 めぐり愛

 なぜか正座。なぜか神妙な面持ち。有瀬ありせくんは私たちの正面で、なぜか勢いよく頭を下げる。


「さっきは、ごめんなさいっ!」


 比喩抜きで額を床に擦り付けた金髪の頭。それはもう見事な土下座だった。

 私も彼女も、しばし呆気に取られてしまった。どちらともなく顔を見合わせ、互いの瞳に同じ困惑を認め合った後で、彼の雇用主たる私から問いをかける。


「有瀬くん、急にどうした」

「だって俺、さっきその子にひどいこと言っちゃったんで」

『え……?』


 有瀬くんは、ちょっと笑えるくらいの真剣な表情で彼女と向き合った。


「ほら、『恋愛ごっこ』とかって」

『あー』

「あー」

『いいわよもう、そんなこと』

「いやいやいや! 事情も知らずに決め付けみたいに言っちゃったし、マジで良くなかったと思う。本ッ当にすんませんっした!」


 再びの土下座である。辺りがしんと静まり返った。

 このタイミングで私は彼のLIMEの土下座スタンプを思い出してしまい、密かに唇の内側を噛んだ。


『……いいの、本当のことだから。そんなに謝られたって困るわ』


 有瀬くんがおずおず身を起こすと、彼女は軽く目を伏せた。


『あたしも、ごめんなさい。あんたの気持ちを利用して、夢を見せた』

「そんなことないって。俺が普段見てる夢とほぼほぼ似たような内容だったし」

「待って」


 昨日「変な夢は見てない」「だいたいいつも通りな感じ」と言っていたのは事実だったらしい。


「まあ、それで思ったんだけどさ。君の彼氏くんが夢に引き込まれて意識不明になったのって、たぶん彼氏くんも君のことが好きだったからなんじゃねえかなって」

『え?』

「風呂場で気をどうとかって言ってたじゃん。俺もそうだったけど、君の見せてくれたものに、文字通り夢中になっちゃった的な? 本当に好きな相手じゃなきゃ、そうはならんでしょ。夢から覚めたくないって思ったんだよ、きっと」


 などと経験者は語っており。

 どういう顔して話を聞けばいいのか決めかねているうちに、こちらへ水が向いた。


弐千佳にちかさん、ここに彼氏くんの魂ってやっぱいないっすよね」

「うん。幻影で声は聞いたけど、彼女の記憶に残ってただけだね」

「だとすると、天国?」

「そういうものがあるのかは分からないけど。いわゆる『あの世』か、もう来世が始まってるか」

「前に弐千佳さん、『気の交換』の話してたじゃないすか。魂の繋がりができるみたいなやつ」

「ああ、うん、まあ」

「この二人の場合は? 気をなんちゃらした影響で、そういう繋がりがまだ残ってたりとか?」

「確かに、可能性が全くないとは言い切れないけど」


 有瀬くんが意外と正しいニュアンスで理解していたことに軽く驚いたのは内緒だ。


「で、俺が言いたいのは、もしその繋がりがあるんなら、ワンチャン彼氏くんと再会あるんじゃね?ってことっすよ」

『えっ……』

「だって、ここにいたって絶対会えないわけでしょ。でもあの世とか来世とかに行ったら、なんやかんやしてまた巡り会えちゃったりするかも? やっべ超ロマンチックじゃん」


 その確率は、さほど高くないとは思う。むしろ限りなく低いだろうと。

 だけど、お構いなしに期待したくなるようなトーンだった。

 全くのゼロではない可能性が、鮮烈な光となって闇を切り裂くような。


 有瀬くんは相変わらずの軽いノリで言う。


「つーわけで、いっちょ成仏してみない?」


 私が逆立ちしても言えないセリフを、実に簡単に。


『成仏……それで、あの人に会えるかもしれないのね?』

「まあ絶対ってわけじゃないけど、ここにいるよりは絶対可能性あるって!」

『そっかぁ……』


 彼女が、綻ぶような淡い笑みをこぼした。紛れもない、恋する乙女の顔だ。

 どうにも幸薄く陰気な雰囲気だった彼女が、とても可愛らしく見えた。


 この物件への彼女の未練はかなり小さくなっていた。だけど自発的な成仏には至らない。


「長年居着いてた影響で、魂がしっかり場に紐付いちゃってるね。これを断ち切る必要がある」

「……俺にやらせてください」


 有瀬くんが荷物からフローリングワイパーを取り出した。

 彼女は訝しげに目を眇める。


『それ、何?』

「ああ、これ? あのね、これはそう、スペシャルアイテムです。俺がこの棒にすげえハッピーパワーを注入して、君とこの場所との繋がりを切ったら、君はいい感じに成仏できるってわけ」

『なんかよく分からないけど、それで上手くいくのね?』

「もっちろん! 任せといてー!」


 大丈夫?と私が目配せすると、やや引き攣った笑顔だけが返ってきた。


「んじゃあ、あの扉の方を向いて座って、目ぇ瞑っててくれる? しっかり彼氏くんのこと考えててよー?」

『分かったわ。よろしくお願いします』

「おっけー!」


 彼女が背を向ける。

 有瀬くんの笑顔は不自然に強張ったままだ。肩に変な力が入っており、見るからに緊張していると分かる。


「いつも通りに」

「はい」


 道具に気を込める。このところよく練習していた。いつも通り、いつも通り。そう繰り返して、有瀬くんは陽の気を練っていく。

 ここまで順調。あと一歩だ。


「いいよ、大丈夫。落ち着いて」

「……はい」


 もう一度。

 あと少し。

 もう少し。

 フローリングワイパーを持つ有瀬くんの手が、かすかに震えている。

 私はそこへ直に自分の手を添えようとして、やめる。


 彼自身の意思で、気を引き出すべきだ。


 代わりに私は深い呼吸を一つ。陰の気が霊符に反応する。

 有瀬くんがハッとする。

 そうだ、掴め。

 他でもない、自分の力で。


「俺が、ちゃんと送ったげるからね」


 大きな両手が今一度、柄を握り直す。

 途端、陽の気が溢れ出す。たちまちのうちに、フローリングワイパーの端から端まで波及する。

 今までのどのパターンより、強く安定した気だ。

 いける。


「おっしゃあ! んじゃあ、いっきまーす! 名付けてー? 『★あんご★のハッピー魂送たまおくり』! どうか彼氏くんと会えますように!」

『ありがとう、お願いします』


 彼女は手を合わせ、祈るように首をもたげた。


 有瀬くんは、清浄な光を纏うフローリングワイパーをバットのように構え、美しいフォームで振り抜く。

 シート取り付け部が、刃のごとく彼女の頸部を断つ。

 陽の軌道が見事な弧を描き、わずかにあった未練のくびきを芯から浄化する。


 彼女の霊体は、切断面から光の粒子を放ち始める。

 一瞬見えた彼女の唇には、柔らかな微笑みが浮かんでいた。

 その輪郭さえも淡くほどけて、きらきらと瞬きながら散りゆき、やがて完全に消失した。


 結界を解除する。過去の幻影が消え、部屋が元の客室へと戻る。

 有瀬くんが、その場に崩れ落ちた。


「で、できた……」

「うん、よくできました」

「良かっ……」


 フローリングワイパーを杖に、顔を俯かせたまま。しばらくすると、洟を啜る音が聞こえてくるではないか。


「ちょっ……泣いてんの?」

「だってぇ……お、俺、一人の人の、魂を……」


 語尾がぐずぐずに溶けていく。

 私は有瀬くんの髪をやわやわ撫でた。


「頑張ったよ。ちゃんとできた。えらい」

「ううう弐千佳さぁぁぁん」


 腰の辺りに腕を回される。どさくさでどこ触ってんだと思ったが、抵抗する気力もなかった。

 私とて、二段階で階層をコントロールしたために消耗しているのだ。実は先ほどから眩暈がひどくて、視界がぐるぐる回っていた。


 早々にベッドで休憩させてもらう。申し訳ないが、また片付けは有瀬くん任せだ。


「前も思ったけど、一瞬で回復できる方法とかあったらいっすよねー」

「……そうだね」


 横たわったまま気怠い声だけ放った。

 回復方法を伝えたら面倒なことになりそうなので、とりあえずは保留である。


 有瀬くんが同じベッドの端に腰かけた。私は少しだけ身を固くした。


「弐千佳さん……あの子、あれで良かったんかな。本当に彼氏と会えるか分かんないのに」

「再会できなくたって、また新しい人生が始まるんだから。少なくとも、ここに居続けるよりずっといいよ。有瀬くんも自分で言ってたじゃん」

「そう、なんだけど……仮にも一人の人生のことだし」


 はぁ、と重い溜め息の音。

 私は無理やり身を起こして、有瀬くんの隣に座った。


「私も、いつも迷ってるよ。本当にそのやり方が正しいのかって。今回は、もし有瀬くんが浄化してなかったら、私はあの子の記憶を何もかも消してた。悪いことだけじゃなくて、良いこともね。その後でまた濾過の術を使ったかも」


 いつも後ろ向きな選択肢を取りがちだという自覚がある。

 だから代わりに自分が痛みを引き受けるべきだと。

 でも、それすらただのエゴかもしれない。


「有瀬くんは、あの子に前を向かせた。この先に希望があるって気付かせた。その上で魂の重みに向き合って、自分の手であの子を送り出した。簡単にできることじゃない」


 一人だったら見られなかった景色が見える。

 一人だったらあり得なかった選択肢がある。


「決まった正解なんてないんだよ。一緒に考えながらやっていこう」

「……そっすね」


 有瀬くんはまだ少し赤い鼻を指先で擦り、にぃっと笑う。見慣れた八重歯が覗いて、やっと私も息をついた。



 その後、大黒だいこく不動産に作業完了の連絡を入れ、オーナーさんを呼んで顛末を説明した。


「念のため僕の方でまた数日宿泊してみて、問題なければ通常の運営に戻していこうと思います」

「ぜひそうしてください。また何かありましたら、ご連絡を」


 薄暗いイメージのある立地と物件だったが、これだけ真っ当な風通しならば、運気が上がってくるのではないだろうか。


「じゃあ、今回もお疲れさま」

「お疲れっしたー!」


 こうして、私と有瀬くんは『RENTAL SPACE PAPILLON』を後にする。

 さまざまな積年のモノが入り混じったこの街を、軽やかな風が駆け抜けていく。

 高く澄み渡った薄群青の空に、あの子の魂の幸福を願った。



—#8 妓楼に舞う胡蝶の夢・了—

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