8-8 恋慕のはて

『助けにきた、って……』


 芥子からし色の着物の彼女は、眉根を寄せて私を睨み付ける。


『そんなの、どうやって信じろってのよ。あんた、あたしがその人の夢に入ったら怒ったくせに』

「彼は私のアシスタントだし、怒るのは当然でしょ」

『アシ……何よ、それ』

「仕事の助手」

『だったら別にいいじゃない。あたしは彼が望んだ夢を見せてあげただけよ。せっかく楽しんでたところだったのに』


 これに反応したのが有瀬ありせくんだ。


「いや、なんつーか、余計なお世話じゃね? あんな偽物の恋愛ごっこさせられてもさ」

『れ、恋愛ごっこって……』

「君がここで働いてた時はそりゃあ大変だったかもしんないけどさ、今もう妓楼じゃなくなってるわけだし。そんな必死にお客さん集めなくっても、もう大丈夫だから」

『知ってるわよ、そんなこと』

「えっ、じゃあなんで?」

『どうせあんたには分からないわ』

「えー……」


 有瀬くんが助けを求める視線を寄越してくる。

 私は軽く肩をすくめて引き受けた。


「ねえ、教えて。あなたはいったい誰を探してるの?」

『ん……』

「へっ? 何の話?」


 黙り込む彼女とは対照的に、有瀬くんは私と彼女の顔をキョロキョロ見比べている。


「有瀬くんが夢を見てる間、私も負の念の記憶を覗いてた。あなたは、必死に誰かを探していたと思う。この建物まるごと幻影に変わって、どの戸を開けても同じ部屋だった。そう、まさにこの部屋」


 現実のシングルベッドに重なって視える、小さな薄型テレビと畳まれた布団。


「かつてこの部屋に住んでた人。十年前に亡くなったっていう。彼のことを、探してるんじゃないの?」


 彼女は小さく目を見開いた。


『どう、して……』

「誰かを強く恋慕う気持ちを感じた。あなたはきっと、彼に恋をしていた」


 最初の幻影で、二人は言葉を交わしていた。互いに想い合っていたように聞こえた。

 そこから導き出されるのは。


「彼には、あなたのことが視えてたんじゃないの? この部屋で出会って、一緒に暮らしてたんだ」

「えっ? じゃあつまり、幽霊と付き合ってたってこと?」

「うん、恋愛関係だったんじゃないかなと思う」


 俯きがちな彼女の目が揺れる。


「手伝えることがあるかもしれない。何があったか、教えてくれる?」


 できるだけ柔らかいトーンで問いかけると、彼女はぽつりぽつりと語り始めた。


 曰く。

 時は遡って大正のころ、借金のカタとして妓楼に売られた彼女は、娼妓として辛い日々を送っていた。

 もともと内向的な性格だったこと、おとなしい顔立ちだったこともあり、思うように客が付かず、仲間たちからも陰口を言われていたという。


『他のみんなが妬ましかった。あたしももう少し器量が良かったら、もう少し上手に立ち回りできたら、あんなに辛い思いはしなかったかもしれないのに』


 そうこうするうちに身体を壊し、呆気なく命を落としてしまった。


『死んだって、他に帰る場所なんかなかったのよ。幽霊になってみると、他にも惨めで辛い思いをしてる女の子たちがいるって気付いた。少し嬉しかったわ。あたしだけじゃなかったって』


 負の念は同質の念を引き寄せ、膨張する。

 そうして彼女は地縛霊としての存在感を増して、この場に居座り続けることとなる。


 時は流れ、この建物も運用形態を変え、いつしか下宿となった。

 貧乏学生が寝起きするだけ。彼女は、空き部屋や共用スペースに身を置くことが多くなったという。

 そして。


『脱衣所で、声をかけられたの』


 ——君、ここで何をしてるの?


 それが、運命の彼との出会いだった。


『あの人、前々からあたしのことが視えてたみたい。あたしがそこにいるとお風呂に入りづらいからって、とうとう声をかけてきたのよ。自分の部屋にいていいから、って』


 彼女は小さく笑みをこぼす。


『あたしの話も、聞いてくれた。これまで誰にも相手にされなかったのに、あの人だけはあたしを見てくれた』


 以来、二人は同じ部屋で過ごすこととなる。

 彼は市内の大学に通う学生で、国文学を専攻する人だった。学校や書店のバイトの出来事、読んだ本の内容など、いろいろな話を彼女に聞かせてくれたそうだ。


『幸せだった。幽霊と生きた人間じゃ、できることには限りがあったけど、一緒にいられるだけで良かった。ずっとこのままでいられたらって思った。でも——』


 幸せな時は、長くは続かなかった。

 彼の卒業が決まり、就職のため遠くの街へ行くことになったのだ。


『あの人は『また時々遊びにくるから』って言ってくれたけど、本当はどこにも行ってほしくなかった。片時も離れたくなくて、あたし、かわややお風呂場にもついていった』


 私が最初の晩に視たのは、そんな時期の記憶だったのだろう。


 いくらかの間の後で口を開いた彼女の声は、かすかに震えていた。


『まさか、あんなことになるなんて思わなかった。お風呂場で、気を通じ合わせてたら、急にあの人、意識がなくなって……』


 有瀬くんが「風呂場で、何て?」と小さく漏らしたが、ひとまずスルー。

 ニュアンス的には恐らく、擬似的な性行為をしていたということだと思うけど。


「要は、本当に事故だったんだ」

『何が起きたか分かんなかった……あたしじゃあ直に触ることはできないし、助けを求めても誰にも気付いてもらえなくて……』


 彼女はぼんやりと虚空を見つめ、淡々と言葉を紡いでいく。


『でも、心のどこかでホッとしてた。これであの人は遠くへ行かずに済む。幽霊になって、ずっと一緒にいられるって。あの人が目の前で死んでくのに、あたしのせいで死んだようなものなのに、そんなひどいことを考えたからバチが当たったのかもしれない。だってあの人の魂、どこにも見当たらないのよ』


 だからずっと探し続けていたのだ。

 一緒に過ごした思い出の部屋は、どれだけ経っても主不在のまま。


『でもあの人、遠くに行っても『時々遊びにくる』って約束してくれた。『僕の家はここだ』って言ってくれた。だから、あたしに会いに帰ってきてくれるんじゃないかって信じてるの。あたし、いつまでだってここで待ち続けるから』


 今も彼女はあの無限回廊の中に囚われている。いつか彼が戻ってくると、一縷の望みに縋り続けて。


「事情はよく分かったけど。関係ない男性たちを夢に引き込んだのは、どうして?」


 彼女の瞳が、わずかに揺れた。


『……寂しくて』

「……そっか」

『そこは怒らないんだ』

「まあ、分からなくもないから」


 私はほんの少しだけ笑ってみせる。彼女の頬も、ほんの少しだけ緩んだ気がした。


『心に想い人のいる男の人は、夢に入り込みやすかった。お相手のふりしていろんなところに出かけたり、結婚して家庭を持ったりね。あの人とはできなかったことを、いろいろやってみたの。そうしてるうちは気が紛れた。繰り返し来てくれる人もいて、もしかしたら添い遂げてくれるかもって、ちょっと期待した。だけどね……』


 瞬きを忘れた目のふちに、じわじわと涙が溜まっていく。


『結局、虚しいだけね。みんな、いなくなっちゃう。もっと寂しくなっただけだった』


 彼女は両手で顔を覆って、押し殺した声で泣き始めた。


 これは、一番どうしようもないパターンかもしれない。

 憎しみや嫉妬など負の感情に由来する未練であれば、それを忘れさせた上で明るい来世を示してやればいい。

 あるいは悪意を持った霊ならば、心置きなくあの世へ強制送還できる。

 だけど。


『会いたい……もう一度、一目だけでいい。あの人に会いたい……』


 今回、彼女の魂をこの場に繋ぎ止めているのは、ただただ純粋な愛だ。

 負の感情で地縛霊となっていた彼女を、恋の感情で上書きして救ってくれた人への、まっすぐで強い想いだ。

 このままでは、彼女はこの場所で彼の魂を求め続け、いつまでも離れないだろう。


 私の念力眼で、どこまで記憶を消すべきか。

 愛した彼との思い出か、娼妓としての不遇の日々か、はたまたそれ以前の。

 どうせならば、全てを消し去るべきかもしれない。中途半端は余計に彼女を苦しめる。

 そうすれば、また濾過の術を使って、負の念から解放できるはずだ。


 自分が正しいとは思わない。

 私は仕事を完遂するだけだ。

 物件に染み付いた霊の未練を断ち切り、浄化する。

 なぜなら、私はそれを生業とするプロだから。


 胸の奥に重くわだかまるキリキリした痛みを、振り払うように無視して、私は彼女の顔を覗き込む。

 揺らぐ視線を掬い取ろうとした、その時。


「あのっ!」


 こういうタイミングで切り込んでくるのは、やっぱり有瀬くんだった。

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