8-7 となりの君
思ったより柔らかい、というのが最初の印象。
体温が高いのは予想通り。
呼気を甘く感じるのは、きっと相性がいいからだ。
細く、長く。口移しで直に気を吹き込む。
息継ぎをして、もう一度。
私の陰の気に反応して、
「……あと少しかな。もうちょっと頑張って」
そこそこ引き締まった
更に追加で二度の口移しを試みるも、大した変化はない。
本人に意識がないので、自力で気を回復させるのは難しいようだ。
もう、ここまで来たら何でもいいや。
私は改めて有瀬くんの唇を塞ぎ、今度は舌を捩じ込んだ。割り進む、覚えのある八重歯の、その奥。
探り当てた舌も、また甘い。彼がタバコを吸わない人だからだ。私の方、苦かったらごめん。内心でそう思う。
丁寧に絡め取り、吸い上げ、唇を離す。
混ざり合った唾液を飲み下した瞬間、身体の芯から熱が拡がった。
意識が遠のき、視界が暗転して——
気付けば、屋外にいた。家族連れかカップルか、顔の視認できない人々が行き交う中。
有瀬くんがいる。やや長めの金髪に、派手な柄シャツ姿の。
その右手が、誰かの左手を握っている。私と良く似た姿形の、黒髪ショートの女。
パンツスタイルで、上から下まで黒。ただしトップスは透け感があり、化粧や髪型の雰囲気も含めてなんとなく色っぽい。
あんな服、持ってないんだけど。思い返せば、有瀬くんはオンラインゲームでもキャラメイクでセクシーお姉さんを作っていた。
「
「順番に回っていこう」
どうやら動物園デートの設定らしい。
誰がどう見ても仲睦まじい二人を、私は虚無の心地で眺めていた。
思った以上にキツい。自分と同じ姿をしたモノが、有瀬くんとイチャイチャしているシチュエーションが。
「弐千佳さん可愛いー!」
彼はひたすら緩んだ笑顔を『私』に向け、事あるごとに『私』に触れ、スマホで何回も『私』を撮影した。
『私』は『私』で、目を疑うような甘ったるい表情をしていたため、心に謎のダメージを負った。
私は何を見せられているのか。だんだんイライラしてきた。動物見ろよ。動物園なんだから。
場面が変わる。今度は室内らしい。
ラブホのロビーのタッチパネル前だ。前に除霊した物件と似ている。
二人は顔と顔を寄せ合い、小さな声で言葉を交わし、くすくすと甘く笑い合った。
「いやいやいやいや! もうそこまでにして!」
私は刀印を結び、有瀬くんの腕に絡んだ『私』の両腕目掛けて空を切った。
バチィッ!と強い音が爆ぜ、『私』が飛び
解放された有瀬くんが、いま初めて気付いたように私を見た。
「あ、れ……? 弐千佳、さん?」
「しっかりしなよ、有瀬くん」
「なんで? 弐千佳さんが二人?」
「そっちは偽物だよ。霊が化けてる。私が本物」
『私』が有瀬くんの腕に縋り付き、鼻にかかった声を出した。
「ねぇ
「えっ? えー?」
「……は?」
私は苛立ち任せに気を放ち、再度『私』を弾き飛ばす。
「私はそんなこと言わない」
解釈違いも甚だしい。
「私のアシスタントに手を出すとは、いい度胸だな」
胸の前で素早く印を結ぶ。臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、
「前ッ!」
「きゃあっ!」
甲高い悲鳴を上げ、『私』だったモノは正体を現した。
くすんだ色の着物姿の、若い女だ。今の術が効いたか、倒れ伏している。
「え……?」
「これは夢だ、有瀬くん。約束通り助けにきた」
「夢……あっ……!」
有瀬くんは、表情を固めて目を見開いた。まさしく夢から醒めたように。
「そっか、今までの全部……すんません、俺……」
「謝らなくていい。無事で良かった。ちゃんと夢って認識できた?」
「あー、はい……もう大丈夫です」
夢を夢だと認識することで、明晰夢となる。明晰夢となれば、自分でコントロールできる。つまり夢の空間をテリトリーにできるのだ。
事実、逃げ出そうとした霊が見えない壁に弾かれ、行き場をなくしている。打ち合わせ通りだ。
ただ、有瀬くん自身の気力はギリギリといったところだろう。『場』の空間に揺らぎを感じる。
「よし、早いところ元の階層に戻ろう」
女の霊を術で拘束し、私自身の気を手繰った。
しかし夢の世界は維持されたままだ。有瀬くんは一歩も動こうとしない。
この『場』は夢の主に主導権がある。有瀬くんが目覚めようとしなければ、脱出できないのに。
「ちょっと、有瀬くん。私の気の集中にも限界が」
「あのっ……前から訊きたかったんすけど」
切羽詰まったような声だった。
「何」
「弐千佳さんにとって、俺って何なんすか」
「……は?」
何を言い出すのか。
「え、それ、今?」
「だって、俺の気持ち知ってるでしょ」
「ん……まあ」
「それなのに、ひどくないすか。ちゃんと答えてくんないなら、俺は目覚めません」
これまで見たこともない、真剣で切実なまなざしだった。念に囚われた状態、などではないだろう。
言葉を返せない。その通りだ。彼の気持ちを把握した上で、半ば利用するようなことをしている。
だけど、だからと言って、無碍にしたいわけじゃない。
「いや、あのね……」
私は口を開きかけ、しかし言語化に失敗して、また閉した。
彼の口元だけが、自嘲気味に歪む。
「ほら結局、俺はただのアシスタントなんじゃん」
「……え?」
周囲の景色が澱み、負の色味を帯び始める。
「ただ単に、仕事をこなすのに都合がいいから、一緒にいるんだ」
「……ただ、単に?」
「ぶっちゃけ俺がいなくても大丈夫でしょ」
「そんなことない」
「弐千佳さん、一人でもすげえ強いし」
「何を言ってるの」
「別に俺じゃなくてもさ。ある程度霊感ある人なら、誰でもいいわけじゃん」
「……あの、さぁ」
私の中で、何かがカチリと嵌った。
「ただのアシスタントだって?」
「そうだよ、ただの——」
「誰でもいいって? アシスタントが?」
「だってそうでしょ」
「はぁ⁈」
一歩を踏み出す。
「ふざけたこと言わないで」
二歩、三歩と、歩み寄る。
気押されて
「弐千佳さ……」
ずるずるへたり込んだ彼の顔の真横へ、私はドンと鋭く手をついた。
「そうだよ。有瀬くんは、私のアシスタントだよ。この、いつ向こう側に魂を引っ張られるかもしれない危険な仕事で、私が命を預けられる、ただ一人のね」
至近距離で見据える。心臓が強く脈打っている。目の奥が熱い。
「今までこんなこと誰にも、自分の兄に対してだって、感じたことがなかった。それを『ただの』なんて、簡単に言わないでくれる?」
彼の言う通り、私は一人で大抵のことができてしまう。
でもそれは多少の無茶をしてでも、あるいは危険を冒してでも、一人で何もかも解決しなければならなかったからだ。
私の欠けたところを埋めてくれる人が、いなかったからだ。
ひと呼吸、ふた呼吸おいて、まっすぐに視線を穿つ。
「私の隣に立つんじゃなかったの? 有瀬 安吾!」
「あ……っ」
有瀬くんの頬が、かぁっと紅潮していく。
逆に、血の上った私の頭はさぁっと冷える。
「……ごめん」
彼に背を向ける。気を抜いたら涙が溢れそうだった。誰にも聞こえないよう、小さく洟をすする。
我ながらひどい。こんなふうに、一方的に感情をぶつけるなんて。
気持ちのベクトルの向きが違うことなんか、とっくに気付いていた。
彼を傷付けたと思う。その上で傲慢に振る舞った。どんな雇用主だ。愛想を尽かされても仕方ない。
「あの、弐千佳さん……」
真横から呼びかけられ、顔を上げる。
どういうことか、辺りはほんのり明るさを取り戻している。
「えっと……俺、弐千佳さんのオンリーワンてこと?」
「……そう、言ったつもりだけど」
「マジかよ、何それ……夢じゃないよね?」
「夢だけど、夢じゃないよ」
「素敵な冒険が始まっちゃう……」
両手で口元を覆う有瀬くん。
「んじゃあ俺、これからも弐千佳さんの隣にいていいってこと?」
「そりゃあ、もちろん、いてくれなきゃ困る……」
「ッうおおおおおッッ! やったー!」
突如、私たちの足元から植物の芽が顔を出し、見る間に背を伸ばしていく。いくつもの蕾が付き、色とりどりの花が開く。赤、黄色、ピンクに水色。
「は……」
私の身体や髪にも、花飾りがぽんぽんと咲いていく。
「はははっ……」
込み上げる笑いを、堪えきれなかった。
「よっし!」
私の隣に立った有瀬くんは、正面を向き、拘束されたままの女の霊を視界に据えて、はっきり告げた。
「戻りましょう! 戻って、あの子の魂を浄化しちゃお!」
にぃっと八重歯が覗く。口調にも表情にも、もう迷いは見られない。
私も下手くそな笑顔を返す。その瞬間、すっと意識の遠のく感覚があった。
瞼を開けると、私はベッド際から有瀬くんの上半身に覆い被さるような格好で倒れていた。目と鼻の先に、彼の喉仏がある。
背中に、体温の高い腕が回った。
「うえええ弐千佳さん、何この状態! ボーナスタイム?」
慌てて身を引き剥がす。
「仕方ないでしょ。有瀬くんの夢に接続しなきゃいけなかったんだから」
「最初から一緒に寝りゃ良かったかもね。今度はそうしよ?」
「少しは懲りたらどうなの」
寝ている間に何をしたか、口が裂けても言えない。
夢の世界を行き来したせいか、眩暈がした。だけど、大事なのはここからだ。
深い呼吸で気の練度を高めていく。
狭い部屋の空間。脱出しようと引き戸に手をかけた女の霊が、私の結界に弾かれて悲鳴を上げた。
『きゃあっ!』
「無駄だよ。この空間の主導権は私が完全に掌握した」
『何なのっ!』
彼女の周囲にドス黒いモヤが湧き立ち、こちらへ向かってくる。私はそれを軽く片手で払い退ける。
『あっ……、あ……』
「ねえ、落ち着いてよ」
怯えた様子でその場に崩れ落ちた彼女と、目線の高さを合わせる。
「危害は加えない。私は……」
違った。言い直す。
「私たちは、あなたを助けにきた」
小さく口角を上げる。
「さて、浄化を始めようか」
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