8-6 囚われの身
——……だ、いやだ……だれか、たすけて……
暗い、昏い、誰かの記憶が、直接的に流れ込んでくる。
狭い小部屋。目に映るグロテスクな極彩色。
他に選びようもなかった、ひたすらに我慢を重ねるだけの日々。
——くるしい……つらい……
ほら、あの子とろいから。
器量も悪いくせにねぇ。
引き立て役にはちょうどいいよ。
……ちょっと親切にしてくれた仲間たちが、そんな陰口を言っているのを耳に挟んでしまった。
勇気を振り絞って逃げ出せば、あっけなく連れ戻される。ますますひどい目に遭わされて、ただの一度で心が折れた。
誰かにうんと気に入られたら、ここから出られるかもしれない。
だけど、摘まれていくのは綺麗な花ばかり。
誰も自分に見向きもしない。
誰も。誰も。誰も。
どれだけ嘆いても尽きることはない。
ようやく命が終わっても、還る場所すら知らない。
……そうして、どれほど時が経ったのか。
『君、ここで何をしてるの?』
それはまるで、世界の色を塗り替えるような出会いだった——
意識が浮上する。
過去の部屋だ。小さな薄型テレビのある。
布団は畳まれ、衣服は壁際に寄せられている。
誰の姿もない。
——どこ?
女の声だけが聞こえる。
——ねぇ、どこ?
哀しみが、焦りが、まるで我が事のように伝わってくる。
——いつ帰ってくるの?
あまりに切実な情動につられて、私は起き上がった。身体は重いが、一応動く。
引き戸を開ける。狭い廊下に出る。
——どこ?
隣の引き戸を開け、狭い部屋を覗く。
薄型テレビに、畳まれた布団。
どうしたことか、今しがた出てきた部屋と全く同じだった。物の配置はもちろんのこと、積まれた衣服の皺の形さえ、そっくりそのままの。
もう一つ隣の部屋を覗く。現れるのは同じ部屋だ。
更に隣も、そのまた隣も、やはり同じ部屋。
右を見ても、左を見ても。
気付けば無数の同じ戸が、先も見えない無限の回廊の壁沿いに延々と並んでいる。
これは不味い。幻影の中に取り込まれかけている。
——ねぇ、あなた今、どこにいるの? ずっと待ってるのに。
自分の中に生じたわずかな焦りが、相手の同質の感情と繋がって、乗算される。
落ち着け、
私は深く息を吸い、静かに吐いた。丁寧に気を練り、目を眇める。
集中すれば、現実の景色も見える。ただし相手の念が濃い。
懐を探ると、御守り代わりに忍ばせておいた霊符に触れた。
周囲に湧き立つ念を振り切って、霊符に気を注ぐ。
狙い通り現実の二階フロアの四方に貼った四枚の霊符が反応したようで、バチン!と空気が爆ぜ、たちまち幻影が消え去った。
大きく息をつく。今になって汗が吹き出してくる。眩暈がひどくて視界が回る。
どうにか自分の部屋へと戻り、シングルベッドへと倒れ込んだ。
窓の外が白んでいる。陰となった格子の見下ろす、監獄みたいな元妓楼の中。
あの念の主の心境を思う。いったい何があったのか。
この妓楼にいた娼妓のはず。
なぜ、十年前の部屋に固執する?
誰を、そんなに探し回っていた?
もしかして——……
夜明けの朧げな光が存在感を増し、朝の気配が強くなったころ、私はようやく身を起こす。
必要な道具を携え、廊下に出て、隣の戸を叩く。
「有瀬くん、おはよう」
返事はない。
「入るよ」
ガラガラと引き戸を開ける。今度はちゃんと有瀬くんの部屋だ。
「有瀬くん?」
我がアシスタントは、ベッドの真ん中で仰向けに寝ていた。双眸はぴたりと閉ざされ、薄く開いた口からは静かな寝息が漏れている。
試しに軽く揺すってみた。
「おーい、おはよー」
頬をぺちぺち叩いてみた。
「有瀬くーん」
両手をメガホンにして片耳の至近距離から呼びかけてみた。
「有瀬
起きない。一向に起きない。伏せた長いまつ毛の先すら、ぴくりとも動かない。
念のため脈拍を確かめるも、ごく正常。ただただ深く眠り込んでいる。
ここまで、想定通りだ。
昨夜、有瀬くんにはまず自分の状態を把握してもらった。
『え? どっからどこまでが夢? 同棲の話は?』
『いや、そもそも私たち付き合ってないよ』
『うっそマジかよ。えっ、じゃあ俺たちの関係って』
『雇用主とアシスタント』
『うわー! そうなりますよねー!』
兎にも角にも、夢と現実とをきちんと線引きしてもらう必要があった。私がいつも幻影と現実とを区別しているように。
『女の私より、男性である有瀬くんの方が相手の念と繋がりやすい。敢えて『夢』に引き込まれることで相手に近づける。有瀬くんには、相手を『夢』の中で捕獲してほしいんだ。そうしたら私も有瀬くんの『夢』に入らせて』
つまり、疑似餌になれ、と。結構ひどいことを言っている自覚はあった。
『えっ、弐千佳さん俺の夢ん中入んの?』
『何か問題でも?』
『逆に問題ないとでも⁈』
『でも、確実に相手と接触するには、この方法がベストなんだ。どのみちもう一泊したら有瀬くん結構危ないと思う。断りなく侵入するのはさすがに気が引けるからさ』
少しの間の後。
『えーと……俺が目覚めなくなったら、弐千佳さんが助けてくれるんすよね?』
『もちろん』
『んじゃまぁ、何とかなるっしょ。よろしくお願いしまっす』
いつも通りの軽い調子でへらへらと笑った有瀬くんは、彼なりに気を練ってから眠りに就いたのだった。
私もいつも通りに、ざっとシャワーを浴びてきた。
そして荷物から新しい霊符を取り出し、この小さな部屋の四方に貼った。
ここから、有瀬くんの『夢』の中へと入らなければならない。前々回の現場でオンラインの世界へ入った時と同様に、普段より強固なテリトリーを組む必要がある。
「行くよ、有瀬くん」
ここは当然、いつもと違って返答はない。
私は部屋の中央、つまりベッドの上で有瀬くんの身体を跨ぐようにして立ち、両腕を水平に広げた。
前後左右の霊符が私の気に連動し、この部屋を改めて境界線で切り取っていく。
ぱちん。両手を胸の前で組み合わせる。
「
気が爆ぜる。
部屋の様子が一変する。
薄型テレビに、畳んだ布団。もはや見飽きたと言ってもいい、あの部屋だ。
先ほどの無限回廊の出現からも分かるように、念の持ち主はよほどこの部屋に未練があるらしい。
それはもう、建物全体に影響が及ぶほどに。
だから泊まる部屋に関わらず、『夢』を見せられてしまう。
私はベッドから降りて有瀬くんの掛け布団を剥ぎ、彼の
就寝前に練ったはずの陽の気が弱い。
眠り込んでなお自分の気を維持するには、相応の訓練が必要なのだ。彼にはまだ難しいだろう。
加えて、『夢』に意識を持っていかれているせいでかなり消耗しているようだ。返せば、相手をしっかり捕捉している状態とも言える。
私は今から、有瀬くんの気を辿らねばならない。
力なく垂れた手を取る。指先を絡める。私の陰の気を注ぐ。大きい、温かな手。だけど握り返してはこない。
「有瀬くん」
聴覚は働いているはず。耳元で呼びかければ、さざなみのような気の動き。わずかに陽の気を引き出せたものの、まだ全く足りていない。
さて、どうすべきか。
——手っ取り早く回復する方法とかってないの?
以前、私がダウンした時、有瀬くんからそう尋ねられた。これも防音室の案件の折だったか。
手っ取り早い回復方法は、あるにはある。
というか、今の状況だと他に手段がない。仕事を完遂するには必要なことだ。
幸い、有瀬くんの意識はない。
ないからこそ、罪悪感がある。
いやしかし、止むに止まれぬ事情があるので仕方ない。
と、あるだのないだの並べられるだけの言い訳を並べてから、改めてゆっくりと深い呼吸をする。
腹を決めろ。
「ごめん、有瀬くん」
そして私は、淡く呼気の
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