8-3 入り混じる境界線
怪奇現象を自らの身で体感実験したらしいオーナーさんは今、平然とした顔で私の正面に座っている。
「大丈夫だったんですか?」
「ええ、すぐ救急車呼んでもらったんで。ただやっぱり、身体には何の異常もなかったですね。夢の中では元カノと結婚して子供も生まれて、幸せに暮らしてたんですけどね」
彼はどこか自嘲気味に口の端を上げた。
「一泊目はまだ大丈夫だったんです。二泊目で夢の続きが見たくて仕方なくなってきて、日中もソワソワしっぱなしになった。三泊目で、夢の方こそ本物の現実なんじゃないかって思えてきました。夢を渇望した状態で寝入った四泊目、このまま二度と目覚めなければいいのに……って、強く思っちゃったんですよね」
胡蝶の夢、という言葉が頭をよぎる。夢か
「部屋を変えたら夢を見なくなるんじゃないかとも考えて、毎回違う部屋で寝るようにしたんですけどね。結果は同じでした。例のお客さんも、三回ともバラバラの部屋に泊まられてたんで。しかも日を開けて」
「つまりどこか特定の一室で起きる現象ということではなく、この建物全体にかかる問題なんですね」
「そうだと思います。コワーキングスペースは特に問題なく運用できてるんですが。宿泊の方は、今は新規利用のご予約の方のみに絞っています。早く何とかしないと、リピしたいお客さんも離れちゃうんで……」
「承知しました。ひとまず、お部屋を見せていただいてもいいですか?」
三人で連れ立って、やはりレトロな風合いの階段を上がっていく。段の幅や角度が現代的なので、雰囲気だけそのままにして作り替えたものだろう。
二階がまた、すごい趣だった。渋みのある柱に、柄入りガラスの嵌った各部屋の格子戸。狭い廊下には赤い長絨毯が敷かれ、黒っぽい木材の色に映えている。
坪庭部分は一階から吹き抜けになっており、嵌め殺しのガラスで二階からも覗ける仕様。フロア全体を明るく見せる工夫だ。
客室は、最も狭い部屋で四帖半ほど、広い部屋でも八帖ほどか。
手狭にベッドだけが置かれた部屋でも、格子窓や壁の錦絵に色気があり、この窮屈さゆえに独特の非現実感があった。
「ガチ遊廓じゃないすか。やべえ、超カッケェすね」
「でしょ? カップルで利用される方も結構いらっしゃるんですよ」
「えー! そんなん絶対盛り上がるでしょ! やべえ!」
「特に女性の方に評判いいですね。良かったらまた今度、彼女さんと一緒にどうです?」
「うわーマジすか! 俺いま彼女いないんすよねー! でも覚えときますっ! ねっ
私に振られてもな。
「トイレとシャワーと洗面台は共用です。湯船に浸かりたい場合は、近所に銭湯もありますんで」
水回りも、お洒落なモザイクタイルのあしらわれたデザインだ。
これは確かに、仕事抜きで泊まってみたい気分になってくる。もちろん一人で。ゆったりと。
「
「承知しました。お気遣いありがとうございます」
オーナーさんが帰っていった後、私と有瀬くんは二階にある全ての部屋を覗いた。
「ねぇねぇ弐千佳さん、どの部屋にするー?」
「どこでもいいよ」
「ダブルベッドのとこもあったよ」
「うん、シングル二部屋で」
建物内の負がかなり重い。纏わり付く気怠ささえも情緒のように感じてしまう、危うい『場』だ。
手分けして窓を開け放ち、空気を入れ替える。小部屋がたくさんあるせいで気流が分断されやすい。
何ヶ所かで簡易の九字切りをして、ある程度の念を追い出してから、四方に霊符を貼った。
ようやく人心地のついた状態で、有瀬くんの選んだ部屋のベッドの端と端に腰かける。
「さすがに今回は掃除しなくても綺麗っすね」
「ベッドもいいし、ぐっすり寝られそうだけど、今回みたいな怪奇現象だと逆に怖いな」
「あー、夢ね。なんか夢見るんかなぁ」
「私より有瀬くんの方が危険なのかも」
「へっ?」
「先に被害に遭ったお客さんもオーナーさんも、男性だったでしょ」
スマホでSNSのアプリを開き、プチバズしたという例のお客の投稿を探し当てて、関連リプを漁る。
「SNS上だと性別まで特定しきれないけど、『宿泊して夢を見た』って書いてる人たち、確認できる限りではやっぱりみんな男性だ」
「マジすか」
「妓楼の客は男性だからね。夢の深さや内容には個人差ありそうだけど」
「三泊か四泊かぁ。いつもより時間かかりそうっぽい?」
「これだけの念の場なら、霊符で囲って凝縮すれば、捕捉するのにそこまで何泊もかからないはず。むしろ意識の主導権を奪われないように気を付けないと」
就寝前に、しっかりと自分の気を練っておく必要があるだろう。
格子窓から茜色の陽が差してきた。その影がベッドの上に落ちている。
時刻は、あと十分もしたら午後五時を回ろうかというところ。日暮れの早い季節だ。
「まだちょっと夕飯には早いけど、外に出ない?」
「いっすよー。ここにいると無限にゾワゾワするしね」
そう、ちょっと息抜きしたい気分だった。
とはいえ、外に出たとて相変わらず地域そのものの気が不穏だ。
コインパーキングに入れた車をいちいち出すのも面倒で、二人並んで黄昏の街を歩く。アスファルトに延びた影も、並んでゆらゆら揺れている。
防災無線から、午後五時を告げるチャイムが鳴り響く。学校のチャイムの旋律。遠く過ぎ去った日々に馴染んでいた音と同じ。
見事に染まった夕暮れ空は、刻一刻と色を変え、あっという間に夜の帳が下りていく。建物の輪郭が宵闇に溶けていく。
「なんかこの辺、寺多いっすね」
「寺に参拝した後の人が、遊廓で精進落とししてたんじゃないの」
「あ、それも『精進落とし』になるんだ。うちの実家でも、檀家さんが四十九日法要の後でご馳走食べてた」
「要は精進が必要な行事の後に、我慢してたことを再開するってこと」
「へー」
時おり犬の散歩の人と行き合う。周囲の民家からは夕飯の支度の匂いが漂ってくる。
ノルタルジーとリアルな生活感が入り混じり、その境目も曖昧な雰囲気の中。
突如として、煌々と電気の灯るショッピングセンターが現れる。なんだかここだけ異次元みたいだ。
私たちはショッピングセンターの中にある、中部のソウルフードとも言えるラーメンチェーン店に入った。
カウンターで注文し、呼び出しベルで品物を取りに行く。
私はラーメンと五目ごはん。有瀬くんはチャーシューを増し増しにした大盛りラーメンに、五目ごはんとサラダのセット、更にはクリームぜんざいを同じ盆に載せている。
「あったかくてしょっぱいラーメンと、冷たくて甘ーいクリームぜんざいを交互に口に入れることで、永遠に飽きずに食い続けられるシステムです」
さっぱりしたとんこつ味。メンマとチャーシューが地味に嬉しい、いつものラーメンだ。そして五目ごはんが混ざりきっていないのも、いつも通りである。
「これだけじゃ絶対夜中に腹減るでしょ!」
言いつつ有瀬くんはチャーハンを追加で腹に収め、スーパーで夜食用の菓子パンやカップ麺を買い込んだ。
夜の気配の色濃くなった帰り道。晩秋の冷たい風が頬を冷やした。
「銭湯行こうかと思ってたんすけど、湯冷めしそう」
「私シャワーで済ますよ。お湯出るし、それで十分」
「んじゃ俺もそうしよっと」
どこかで虫が鳴いている。何かしらの気配が胸をざわめかせる。
吊り橋効果じゃないけど。
どことなく、なんとなく、人肌が恋しい。
現場の建物に戻り着き、やはり重みのある負の念に、むしろホッとする。心がざわつくのはそのせいだと思えるから。
一階のコワーキングスペースには、三名ほどの利用者がいた。二十四時間営業らしいが、平日は空いているようだ。
無関心な見知らぬ他人のいる空間で、私と有瀬くんの間にも会話はなく、なんなら足音をひそめてまで階段を昇る。
まるで二人して悪いことでもしているみたいに。
それぞれ選んだ部屋の前で、久々に視線が合う。
「じゃあ、とりあえずおやすみ」
「あっはい、おやすみなさい」
きっと互いに、ちょっと変な感じだったと思う。
シャワーを浴びても然程すっきりとはせず、正体不明の胸騒ぎを抱えたまま、私は眠りに就いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます