8-4 異変

 ——ずっと一緒にいたいの。少しも離れたくない。


 声、というより、思念。

 誰かの強い想いを感じる。


 ——後生だから、どこにも行かないで。


 あまりにまっすぐな恋慕の情だ。


 私自身の夢ではない。他者の記憶を覗いている。私の身体を器にして溜まった念を、ガラス越しに見ているような感覚だった。


 女の切ない訴えに、男が応える。


 ——心配しなくても、僕の家はここだよ。ちょっと大学に顔出して、夕方には戻ってくるから。


 私は薄目を開ける。

 ひどく傷んだ古めかしい雰囲気の室内が視えてくる。

 シミの目立つ天井。塗りの剥げた壁。黒ずんだ柱。

 部屋の端に寄せられた荷物や衣服。不器用に畳まれた布団。

 プラスチックの衣装ケースの上には、小さな薄型テレビが置かれている。


 ——じゃあ、いってきます。

 ——いってらっしゃい。


 男が出ていった後、狂おしい想いは部屋いっぱいに膨れ上がる。


 ——さみしい、さみしい、さみしい……



 閉ざされた、狭い空間。



 突如として、がフラッシュバックする。

 自宅の倉庫に閉じ込められていた、子供のころの。

 濃い負の念に包み込まれたあの時の、自分が自分でなくなってしまうような感覚が、鮮烈に蘇ってくる。


 ——弐千佳にちか、大丈夫? 僕だよ。


 外からかけられた声に、心臓が高鳴った。

 嬉しい。まるで全身に甘い血が巡っていくかのような。



 ……いやいやいや。ちょっと待て。

 今の私が思考にブレーキをかけた。


 気合いで目蓋を開ききる。

 窓の外が仄かな光を帯びていた。幻影の古臭くてボロボロの部屋と、現在のキッチュでレトロモダンに整えられた部屋が、二重写しになっていた。

 外が明度を増すにつれ、幻影は彩度を落としていった。逆光で格子の陰が濃い。まるで檻の中にいるみたいだ。


 正直、ショックだった。

 兄のことは完全に清算したつもりでいたのに。

 大嫌いだった。心の底から憎かった。この手でけりを付けた。もう大丈夫だと確信した。そのはずなのに。

 かつての思慕の残滓だけがある。

 微熱が冷めた痕。兄の顔はうまく憶い出せなかった。

 胸の奥から冷えている。

 女である私は怪奇現象の夢に酔うことがない代わり、『器』であるが故に身の内に溜まった念がそれと同質の感情を引き出したのかも。

 私自身の未練では、ないはずだ。


 いつの間にか、視界に入る部屋の様子がすっかり現在時制のものだけになっていた。

 私はようやく身を起こし、ベッドの端に腰かけて、まだ芯の入らない頭で考える。

 あの幻影。薄型テレビがあった。ということは、二十一世紀だ。

 下宿時代の、住人に関わる記憶だろう。それが最も強い念として残っている。

 会話の内容からすると、出かけようとする男を女が引き留めていた。ここで同棲していたということだろうか。

 あの狭くてボロい部屋に? だいたい女子を招き入れる感じの部屋ですらなかったと思うんだけど。


 身体が重いし思考も重い。ホッとして気が抜けたらまた眠気が来て、しばし微睡まどろんだ。

 軽い二度寝から覚めると、午前八時半すぎになっていた。私は手足をストレッチして、共同洗面所で顔を洗った。

 頭がすっきりしてから、有瀬ありせくんのことが気になり始める。いつもは私より早く起きるのに。

 彼の部屋の戸を叩く。


「おはよう。起きてる?」


 しばらく耳をそばだてても、返答どころか物音一つない。


「入るよ」


 ガラガラと引き戸を開ける。部屋いっぱいのシングルベッドの上で、でっかいゴールデンレトリバーが背を丸めて眠りこけていた。


「おーい有瀬くん、大丈夫?」


 肩を揺すると、有瀬くんはむにゃむにゃ言いながら薄目を開けた。


「んー」

「おはよう」

「……弐千佳しゃ……?」

「大丈夫?」


 再度の問いかけにも、ふにゃふにゃした瞬きが繰り返されるばかり。

 体温の高い大きな手が、私の手を掴んだ。


「えへへ……弐千佳さぁん」

「ほら、ちゃんと起きて」

「えー、いいじゃん、もうちょいイチャイチャしようよー」

「寝言は寝て言って」


 絡められた指先を、淡々と解く。

 有瀬くんは大あくびを一つして、ようやくのろのろ起き上がった。


「んあー、ねみー……」

「珍しいね、寝坊なんて」

「夜中に腹減って途中で起きて、カップ麺食ったんすよねー。そんでちょっと寝不足だったかも」

「何か変わった夢は見たりした?」

「夢……」


 金髪の頭がこてんと傾げられる。


「いや、別に変な夢とかは見なかったっすね。だいたいいつも通りな感じ」

「そうなんだ」


 男性ならば問題の『夢』を見られるのではと思っていたのだが、何か条件があるのかもしれない。


 ベッドに座って朝食の菓子パンを齧りながら、私が視た幻影の内容について情報共有する。


「……そんなわけで、男を引き留めたい女の念がここに染み付いてる。それが宿泊した男性たちに夢を見させたってことなんだろうけど」

「下宿時代に死亡事故があったって話じゃないすか。あれって誰が死んだんすかね。ここにあるのが女の念なら、女の人が死んだ事故だったんかな」

「元妓楼だから、女の情念と親和性が高いのは確かなんだけど。男の声が『僕の家はここだ』って言ってたから、部屋の主は男の方だと思う。でも過去の部屋、布団広げたらいっぱいいっぱいで、ほんと寝るだけって感じのところだったんだよ。そんなとこに彼女が入り浸るもの?」

「布団さえ敷ければオッケーってことじゃね? ホテル代も高いし」

「うーん。性愛っていうより純愛っぽい感じだったけどな」


 なぜなら、それに似た私自身の感情と繋がったから。という話は敢えてする必要もあるまい。


「こないだのロフト付きアパートの件みたいに、部屋の主じゃなくて彼女が死んだパターンはあるかもしんないっすよね」

「いや……」


 私は大黒だいこく不動産からもらった資料を引っ張り出す。


「記録によれば『事故』は十年前。下宿の住人だった二十代の男性が、共同浴槽内で溺死した」

「男かー」


 共同の風呂場で死人が出たら、そりゃあ新たな住人も募集しにくかっただろう。


「話を纏めると……十年前に下宿の住人の男性が風呂場で溺死した。彼は生前、恋人らしき女性と部屋で過ごしていた。物件に残っている念は、彼女視点っぽい」


 しかし、気になるのは男性の死因だ。


「二十代の人が風呂で溺れ死ぬって、あんまないっすよね」

「泥酔して入浴して、急に心臓止まったとか……いや、それだったら死因は心臓発作になるか」

「女がヤンデレで、男を好きすぎるあまり風呂に沈めて殺したとか。その拗らせた念が物件に染み付いちゃってる、みたいな。実は殺人事件だった説、あると思います」

「有瀬くんは一回殺人を疑わないと気が済まないの?」


 可能性を潰すことも、考察としては大事だけど。


「自宅で亡くなったケースだし、事故当時に警察が来てるでしょ。不審な点があったら調べてるはずだから、単に溺死と断定されたからには何も怪しいところがなかったんだろうよ。だいたい下宿の共同スペースで、そんな大胆な犯行する人いないと思う」

「まあ下宿って常に大家さんいるイメージだしね。古い家なら誰か来たら物音とかですぐバレるか。あっ、もしや当時の大家さんなら、誰が出入りしてたとか知ってるかも?」


 望み薄ながら、一応確認する価値はある。

 午前十時を過ぎた辺りで、大黒不動産に電話してみたのだが。


『その時の大家さん、もう亡くなられたみたいですねぇ。かなりのご高齢の方だったんで。ご病気で動けなくなる前に建物は売りに出されたようですが』


 かつての大家さんルートでの情報収集は無理、と。

 仕方ない。これだけの古い家屋で、下宿をやっていたのも十年前なのだ。

 いま得られる情報と状況から、原因を詰めていく他あるまい。


「ねぇねぇ弐千佳さん、そういえばさぁ」


 有瀬くんが出し抜けに、どこか甘ったるい声を出した。


「内見行くの、いつにする?」


 ん?


「内見? 何のこと?」

「こないだ話してたじゃん。俺ら二人で一緒に住むのに、新しい部屋探そうって。大黒さんに物件のピックアップ頼もうとか言ってたでしょ」

「……は?」


 有瀬くんは、いつも通りとびきりごきげんな笑みを浮かべていて。

 私は背筋が凍った。

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