7-9 明日に架ける橋
「
「あっ……すんません」
やっと拘束が緩んだ。
有瀬くんは、しょげたゴールデンレトリバーみたいな顔をしている。私はちょっと笑ってしまった。
「なんで有瀬くんが謝るの?」
「だって俺、すげえ迷惑かけちゃったし」
「そんなことないでしょ」
「でも……」
「待って、先に彼女を送らせて」
結界を解く。すっかり浄化された魂が私の身体から浮き上がり、きらきらと光を放ちながら神さまと一緒に昇っていく。それが天井の向こうに消えるまで見送って、私は口を開く。
「無事に終わったね」
「俺、なんもできなかったです。てか、むしろ足引っ張ってましたね……」
「いや、そもそも奥さんの魂から神さまを分離できたのは、有瀬くんの料理があったからこそだよ。初めてだったのに、すごく上手くいった」
「でも最後、肝心なとこで日和っちゃったし」
「それは私が一度にいろいろ頼みすぎたと思う。ごめん」
「……あの、身体、だいじょぶっすか。すんません、俺のせいで。またキツい術使うことになっちゃって」
「別に、慣れてるから。言ったでしょ、これが生業なんだ。有瀬くんのおかげで痛みも軽く済んだし」
「でも」
有瀬くんが何か言いかけて、首を横に振った。
「ほんと、すいませんでした」
金髪の頭が深く下がる。
どう声をかけていいか分からず、私はその頭をぽんと軽く撫でた。
「私、もう一回シャワー浴びてくる。オムライスは後から食べるから取っといてよ。神棚のお供えも、もう下ろして大丈夫だから」
一旦五階まで行って、汚れたナプキンを処分する。タール状のどす黒い経血が、夜用四十センチの端から端までを染め抜いていた。
冷水シャワーで全身をざっと流せば、もう元通りだ。悟りの果てみたいな倦怠感が残っているだけで。
心身ともにクールダウンした状態で店舗へ戻ると、厨房の片付けを終えた有瀬くんがテーブルにオムライスを並べて忠犬みたいに待っていた。
正面に腰を下ろし、二人揃って手を合わせる。
「いただきます」
ケチャップのハートを崩すのがもったいなくて、綺麗な黄色の卵の端からスプーンで掬って口に運ぶ。
卵はなめらかで、チキンライスはコクがあった。まだほんのり陽の気が籠っていて、消耗した身体に沁みた。
「うん、美味しい」
「ちょっと冷めちゃった」
「冷めてても味がしっかりして美味しいよ」
「あざっす」
どことなく声のトーンがいつもより低い有瀬くんは、それでもいつもと変わらない、むしろそれ以上のハイペースでがつがつとオムライスを平らげていく。
続いて神さま用に分けた小皿に手を伸ばす、かと思いきや、そっとスプーンが置かれた。
「あの、
「ん?」
「弐千佳さんは、なんでそんな優しいんすか」
「はっ?」
チキンライスを噴きそうになった。
「別に優しくはないでしょ」
「優しいっすよ。俺が失敗しても怒んないし。逆にヨシヨシしてくれるし」
「そんな大した失敗してないじゃん。解決できたからいいんだよ」
「ほらー! そう言ってくれちゃうー!」
むしろ良い具合に助けてもらったと思うんだけど。
それとも、ああいう時は何かしら叱ったりした方がいいのだろうか。
などと考えていると。
「俺、こないだ実家帰ったじゃないすか。そん時、二番目の兄貴に言われたんすよね。『お前また中途半端で逃げ出すんじゃないのか』って。『
「え、そうだったんだ」
以前、有瀬くんの実家へ行った時、お父さんも言っていた。彼は昔から何をやっても長続きせず、肝心なところで踏ん張れない子だったと。
彼が中途半端に辞めて今さら持ち出してきたギターの音に、二番目のお兄さんが苛ついたというのも、同じ背景からだろう。その流れで言われたのかもしれない。
「すげえムカついたんすけど、ぜんぜん言い返せなくて。でも、兄貴の言う通りだったかもしんないです。俺、やっぱり逃げちゃったしね」
「逃げって……」
有瀬くんは私のことを優しいと言ったけど、優しいのはむしろ彼の方だ。
この居酒屋の奥さんの霊体と屈託なく言葉を交わした。神さまを引き付けるためのまかないは、心を込めて作ったものだった。
苦しむ奥さんの魂にとどめを刺せなかった。それは人としてごく当たり前の情に他ならない。
私の方がおかしいのだ。
依頼の案件だからと、生業だからと、平然と他者の魂を裁いている。
人として、大事な何かが欠落している。
「俺、自分の必殺技が欲しいみたいなこと言っといて、ほんとダサいっすね。しかも俺がヘタレたせいで弐千佳さんにまた痛い思いさせたし」
「いや、あのね、こんなの本当にどうってことないんだよ。これは私が生まれ持った力で——」
「どうってことなくなんかないです。俺が嫌なんです。いくら俺の気で痛みを散らせるからって、弐千佳さんが苦しいのはダメです。だから余計にさっきの俺は最悪でした」
「そんなことは……」
否定するのもおかしい気がして、視線を落とす。
オムライスはちょうど半分を食べたところで、ケチャップのハートも半分になっていた。
「やっぱ、改めて思ったんすけど、弐千佳さんはすげえっすよ。一人で何でもできちゃうもん」
「……え?」
「そんなすげえ人に、こんなこと言うの
有瀬くんが顔を上げた。まっすぐの、澄んだ瞳をして。
「俺、強くなります。ちゃんと弐千佳さんの隣に立てるように」
思わず息を呑んだ。
思ってもいない方向から鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。
思いのほか動揺して、だけどそれを悟られまいと、敢えてずらした言葉を舌に乗せる。
「じゃあ、あんまり頭撫でたりとか、子供みたいなことしない方が良かったよね……ごめん」
「いやヨシヨシはしてほしいっすけど」
「してほしいんか」
「だってその方がやる気出るもん」
有瀬くんがにぃっと八重歯を覗かせる。
私もちょっと迷って、口角を上げる。
彼が食事を再開して、少しだけ力が抜けた気がした。
私も残りのオムライスを咀嚼しながら、ぐるぐる回る気持ちの落とし所を探す。
——弐千佳さんはすげえっすよ。一人で何でもできちゃうもん。
——ちゃんと弐千佳さんの隣に立てるように。
一人で何でもやっているつもりはなかった。
頼りに思っているし、任せられることは任せているつもりでもあった。
上手くやれていないのは、たぶん私の方なのだ。
難しい。指導と距離感。
「有瀬くん、あのさ」
「はい」
すっかりいつもの調子に見える我がアシスタント。
何を、どう伝えるべきなのだろうか。結局何の言葉も出てこなくて、軽く首を振る。
「……食べ終わったら、出る準備しようか」
昼食を終え、片付け作業に入る。一階の店舗と5-A号室。エレベーターは、私が使った時のまま一階にいた。
いずれの部屋も、来た時と同じ状態に戻し、全ての荷物を纏める。
神棚用の棚は外すべきだろう。ここには神さまを祀らない方がいい。
念のため改めてお祓いしてもらってもいいかもしれない。必要ならば、芙美のお父さんを紹介できる。
もう負の念も神さまの気も感じられないけど。あの明るい奥さんがいた、賑やかな居酒屋の様子は今もありありと憶い出せる。
次もまた、人の集まる店になればいいと思う。
「今回もお疲れさま」
「お疲れっしたー!」
そうして私たちは、カワベビルを後にする。
外に出れば、雨は上がり、空には晴れ間が覗いていた。
県境を繋ぐ橋に差しかかったころ、有瀬くんが窓の外を指さした。
「あっ! 見て見てあそこ! 虹が出てる!」
目をやれば確かに、途切れた雲と雲の狭間、薄群青の空に淡い色の虹がかかっている。
「本当だ。久しぶりに見た」
「虹見ると嬉しいっすよね」
「そうだね」
車の窓から窓へと抜けて吹く、爽やかな風が頬を撫でていく。
何であれ、この空気を共有している。
私たちを乗せた車は、水嵩の増えた川を渡り、馴染みの街へと戻っていった。
—#7 雑居ビル・オブ・テラー 了—
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