7-8 引導

 私は奥さんの正面に立ち、視線を合わせた。


「どうも、こんにちは」

『はぁ、どうも……あの、あなた方は?』

「私は無量むりょう。隣は有瀬ありせ。あなたの成仏のお手伝いをしに参りました」

『成仏?』


 奥さんの霊体はきょろきょろと辺りを見回す。

 先ほどまで空の客席を埋めていたざわめきは、今や嘘のように収まっている。

 コンロの面する壁を立ち昇る黒煙の跡を目にした奥さんは、見る見る表情を凍り付かせた。


『あ、あ、あたし……』

「大丈夫です、落ち着いてください。深呼吸して」


 息のできる身体を持たない人に呼吸を促すのも変な話だが、気持ちを整えるためのポーズとしては十分に用を成す。

 一回二回と吸って吐いてを繰り返し、彼女は少し冷静さを取り戻したようだった。


『あたし、揚げ物してたわよね。火事になっちゃったの思い出したわ』

「……はい」

『そっかぁ……あたし、あの時に死んじゃったのね。やだ、ほーんとうっかりしてたわねぇ』


 自分の死を認識することは、この世から離れて成仏するための大事なステップだ。

 彼女の場合、本人に未練があったというより、『神さま』との繋がりが原因でここに残ってしまっていた。その繋がりがなくなった今、特に障害なくあの世へと逝けるはず。


『長ーい夢を見てたのよ。いつもみたいに常連さんがお店に来てくれて、あたしもいつも通り注文取ったり、お料理作ったりね。いつもいつも、やることがたくさんあったの。神さまのお供えも忘れたら大変だから……あなたたち、さっきはありがとうね』

「いえ」


 夢なのかうつつなのか、あるいはその境い目なのか。

 本人がぼんやりしているうちに、事を早く進めた方がいい。

 私は印を結びかける。


「じゃあ、これからあの世へお送りしますね。すぐに済みますので、ご安心ください」

『ああ、でも、お店の片付けをしなきゃ』

「いえ、私たちでやっておきますから」

『新しく考えたレシピ、メモだけでもしとかないと。あたしがいなくなった後のことが心配だわ』

「いやいや奥さん、大丈夫っすよ!」


 有瀬くんが口を挟んでくる。


「このお店のことだったら、息子さんが何とかしてくれます。だから心配しないで!」

「……有瀬くん」

『えっ?』


 奥さんがぱちぱちと瞬きしている。


『息子が? どうして?』

「あの、奥さん」

『あの子、お店継ぐ気ぜんぜんなくって、お父さんがいつも……』


 そこまで口にしてから、彼女の表情が強張った。途端にさぁっと蒼褪めていく。彩度の低い霊体でもはっきりと分かるほどに。まるで死人そのもののように。

 同時に、店内の空間が揺らぎ始める。

 これは不味い。


『お父さん、は』

「奥さん、私を見てください。大丈夫ですから」

『お父さんは、外の階段の上から……あたし、あたしが、乗り移ったから……?』

「あなたのせいじゃないですよ。あなたが悪いんじゃない」

『でもっ……あたし覚えてるのよ、お父さんは——』


 彼女の周囲から、ドス黒いモヤがどんどん湧き立ってくる。


『あたしが殺したのね』


 堰を切ったように溢れ出す慟哭。魂そのものが澱みを孕み始める。

 肌にチリチリとした痛みが走る。つい先ほどまで『神さま』の力を纏っていた魂の発する念だ。思いのほか成長が早い。

 もはや悪霊の様相に近かった。ちょっとした判断の遅れで、あっという間に取り返しのつかない事態に陥りかねない。


「あっ、あのっ、すんません口滑らせました」

「いや、こうなったものは仕方ない」

「どうしたらいいんすか」

「何にせよ、旦那さんのことは紛れもない事実なんだ。どうあっても過去を変えることはできない。有瀬くんの言葉がなくても、何かのきっかけでこうなる可能性は十分あった。想定の範囲内だよ」

「弐千佳さんんん……ほんっと、すんませんっした」

「いい、切り替えて。時間との勝負だ」


 私は奥さんを見据える。


「さて、浄化を始めようか」


 今一度ゆっくり深呼吸して、身の内で濃い気を練った。


「どう、するんすか」

「なるべく傷付けたくない。最も痛みを与えずに済む方法で、へ送る」


 改めて彼女と向き合う。

 私の気はさながら防護膜のように薄く全身を覆っており、渦を巻く彼女の念も難なく弾く。

 その渦の中心部。

 顔を覆って咽び泣く彼女の両肩を掴んだ。じゅわっと掌の焼ける音を幻聴する。ひりつく痛みは無視だ。


「奥さん、顔を上げてください」


 ほんのわずかに浮いた視線を、掬い上げるように視線で


「あなたとご主人は、ちゃんと情で繋がったご夫婦だった。それは紛れもない真実です。息子さんとお話ししていても、それは伝わってきました」


 眼差しを通じて、気を流し込んでいく。


「辛いことはもう忘れて。きっと、この先にも楽しいことが待ってますから」


 相手の意識へと直接的に働きかける念力眼。次第に彼女の目の焦点がぼんやりし始める。

 周囲にあった黒いモヤが収束していく。神棚の神さまの力も連動し、場を満たす空気が速やかに鎮静化していくのが分かる。

 今や彼女の中にこごった澱みがあるだけだ。だが魂には深い傷がある。今なおそこからこんこんと負の念が湧き出している。そんなに長くは抑えておけない。


「有瀬くん、奥さんの魂を送ってあげられる?」

「へっ? どうやって?」

「フローリングワイパーに陽の気を込めて。それで介錯をお願いできるかな」

「かいしゃく、て」

「ひと息で首を刎ねるの。要は霊体の輪郭を壊して、魂を解放するってことなんだけど、首は一番細くて断ちやすいから」


 首を断つことで、くびきを断つことにもなる。


「ほら、前にもやったことあるでしょ、一軒家の時」

「あー、はいはい、やりましたねー確かにね」

「有瀬くんの陽の気は浄化力が強いから、苦痛なく一瞬で成仏させられる」

「んー……分かりました」


 有瀬くんは荷物からフローリングワイパーを取ってきて、両手で握った。


「んんんー! …………っはぁっ……」


 何やら力んで息をつく我がアシスタント。しかしワイパーに変容はない。


「ほら、もっと集中して」

「えっとー……確認なんすけど、俺が斬ったら、この人の魂は消えちゃうんすよね」

「上手くいけば。消えるというか浄化ね」

「あの、俺、さっきまで普通に喋ってたんすけど」

「うん」

「前ん時は、最初っからゾンビみたいな人たちだったわけで」

「まあね」

「この人は普通の、元気で優しいお母さんって感じの人だったじゃないすか。息子さんの話とかしてて」

「そうだね」

「他になんか方法ないんすか。こんなのって……」


 虚ろな表情をした奥さんの霊体は、ただ静かに涙を流していた。

 今はもう、言葉を交わすこともできない。

 記憶は消えて、苦しみだけが残った。


「悪いけどこれが私のやり方だし、考え得る限りで一番穏やかな方法なんだ」

「いや、文句あるわけじゃないんすけど」

「私たちにできるのは、一刻も早く苦しみから解放してあげることだけだよ。やれる? 無理そう?」

「……もっかい、やってみます」


 改めてワイパーを握り直した有瀬くんの両手は、小さく震えていた。

 私がそこへ手を添えて気を流し込んでも、彼の気はわずかも結集しない。


「う……ん、はぁっ……」

「大丈夫?」

「は? マジかよ……なんで? なんか、ぜんぜん気が込もんねえんだけどっ?」

「分かった。いいよ、ありがとう」


 泣き笑いみたいな顔の有瀬くんに、私は片頬だけで笑ってみせる。


「私がこの魂を濾過する。サポートは頼んだ」

「えっ……」


 魂の濾過とは、『器』たる私自身の身体を使って、魂から負の念を引き剥がす方法だ。対話での解決が難しい時に取る手段の一つ。

 澱みは経血として排出される。こんなこともあろうかと、予めショーツには四十センチの夜用ナプキンを当ててあった。


 奥さんの霊体は、再び黒いモヤを纏い始めていた。表情は悲痛に歪み、呻きが漏れる。


「その痛み、私が引き受けますね」


 私は彼女の霊体を掻き抱いた。両腕に一層の力と気を込める。凍るほどの怖気おぞけが背筋に走る一方、触れている箇所は灼け付くようだ。

 霊体が消失する。同時に、私の下腹部に激烈な重みが生じる。


「んぐっ……」


 何度やっても慣れることはない。

 子宮がにわかに膨張し、腰椎や骨盤や内臓を激しく圧迫する。

 怒涛のように押し寄せる痛みは、浅く短く呼吸を繰り返すことで逃すほかない。

 全身に脂汗が滲む。両膝が震えている。気を抜いたら吐きそうだ。


 だけど、私の中にある魂こそが、誰よりも苦しんでいる。


 私は痺れた指先で印を結ぶ。


「臨、兵、闘、者……」


 痛みの波が襲いくる。奥歯を噛み締めやり過ごす。


「皆、陣、列、在……」


 息が切れる。息を吐く。息を吸う。


「前」


 最後の印と共に、身の内側から清浄な気が膨れ上がる。

 電流のような衝撃が全身を駆け巡る。危うく意識が飛びかける。

 収縮と膨張を繰り返す子宮。内臓を直に握り潰されるような痛み。ごぷり、と膣から澱みが吐き出される。

 とうとう膝が折れた。床へと倒れ込む前に、正面から抱き留められる。


「弐千佳さん!」

「んぅっ……」


 有瀬くんに触れられれば、痛みは中和される。残る排出衝動は絶頂の快感に近い。

 彼の胸板に顔を押し付け、声の漏れるのを堪える。背中に回った腕が温かい。生きた人間の体温だ。


 何度目かの波を越えて、澱みを全て出し切った。頭の奥まで痺れている。心臓の音がうるさい。


「ありがとう……もう大丈夫」


 身体を離そうとした。だけどなぜか、ますます強く抱き締められた。


「……ごめんなさい」

「え?」


 くぐもった声を返すも。


「ごめんなさい」


 私の首元に顔を埋めた有瀬くんは、今にも消え入りそうな声で、それだけを繰り返した。

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