7-6 雲と神棚
誰かの記憶や感覚が、直接流れ込んでくる。
——……やろうか……やろうか……
ゴウゴウと、唸るような音がしている。耳の奥を雑音ばかりが吹き荒れて、ぼうっとする。
——……やろうか……あれをやろうか、これをやろうか、次には何をやるべきか。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。ずっとモヤがかかっているみたいに、考えが纏まらない。
やることは、たくさんあったはず。
厨房の中。
今、何をしていたんだっけ。
神さまにお供えを出すんだっけ。
突然、鍋からゴウゴウと炎が上がる。揚げ物の最中だったと、急に思い出す。
あぁ、どうしよう。大変なことになった。
今、何をやればいいのか。分からない。分からない。
低い声が響いてくる。
『やろうか、やろうか、お前の代わりに、やってやろうか——』
ゴウゴウと音がする。雨の音。嵐の音。
洪水が、押し寄せる音。
怖い。
——神さま、神さま、どうかお助けください……
『聞き届けた』
瞬く間に黒煙が上がる。壁伝いに立ち昇り、天井を伝った先。
神棚の真上に『雲』の一文字が貼られている。
火の粉はその紙にも移り、端から順に燃えていき——
ハッとして、意識が自分の身体に戻ってくる。
まだ幻影の中だ。今日は寝転ぶ位置を調整して、過去時制の座卓が視界を遮らないようにしてある。
人々のざわめき。注文の声。食器のぶつかり合う音。
黒煙の跡の残る天井と、神棚。だけど。
そこに、『雲』の文字はなかった。
ああ、そうだ。上に行かなきゃ。
周囲の風景が現在時制に戻る。
私は起き上がり、靴を履いた。店舗玄関から外へ出て、エレベーターホールへと向かう。
上ボタンを押す。ポン、と音が鳴る。
扉が開く。一歩を踏み入れる。『5』のボタンを押す。
扉が閉まる、その直前。
「
鮮やかな色彩が飛び込んできた。いきなり両肩を掴まれる。
「大丈夫すか! しっかりしてください!」
「あ……」
エレベーターは、ゴウンゴウンと上昇を始める。
肩を包む大きな両手が温かい。そうだ、念のため有瀬くんにも一階で寝てもらっていたのだった。彼に触れられたことで、視界と思考が一足跳びにクリアになる。
「ごめん、もう大丈夫」
「良かったー! 服に貼ってた霊符から弐千佳さんの気の揺らいだのが伝わってきて! ハッ!て目ぇ覚めて、気付いたら弐千佳さんが店から出てくとこだったんで超焦りましたよ!」
改めて息を深く吐く。
「ありがとう、助かった」
「えー、ぜんぜん。ガチで催眠術みたいな感じになっちゃうんすね。すぐ解けて良かったー」
「有瀬くんは平気?」
「うん。でもやっぱ一階になんかあるんすね。ヤベー圧迫感ありました」
「たぶんここにいるの、ただの霊じゃないんだよ。あの神棚の——」
言いかけた時、負の念がにわかに濃さを増した。ビリビリと肌の表面が痺れ、背筋に悪寒が走る。
そして、ガコン!と衝撃があり、エレベーターが急停止した。
「っ……!」
「うおおっ⁈ 何これ!」
「……異物と見做されたのかもね。ここに巣食ってるモノから」
「いやマジでエレベーター停止は洒落にならんでしょ。これリアルに恐怖のタワーみたいになるんじゃね?」
「またそういうことを……」
思わず睨み付けると、有瀬くんは真剣な表情で力強く頷く。
「大丈夫、落ちる時は一緒だから!」
「何の気休めにもならないんだけど」
試しに受話器マークの緊急ボタンを押してみる。当然のように反応はない。
相手の力が強く干渉しているらしい。仮にも私のテリトリー内なのに。
「……いけるかな」
私は気合いを込めて両手で九字を切った。
臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前。
禍いを退ける護身の術は、正しく効力を発揮する。
我が身の内から膨れ上がった気は、周囲に清浄な気を喚び起こし、エレベーターに纏わり付いた負の念をひと息で綺麗さっぱり打ち払った。
どうだ、見たか。と、思った瞬間。
もう一度、ガコン!と足元が揺れる。
「ひゃっ⁈」
咄嗟に有瀬くんの腕を掴んだ。
しかし私たちの乗った箱は、何事もなかったかのように上昇を再開する。
沈黙の中、私の心音だけがばくばくと騒いでいた。
「えへへ弐千佳さん、大丈夫っぽいよー」
「ああ、うん……」
へらへらと緩んだ笑顔でそう言われ、私は情けない手を離した。決まらない上に決まりが悪い。
ひとまず揃って五階で降りて、やはり念の影響のない5-A号室で休憩を取ることにした。
「昨日言ってた神棚の違和感の正体、分かったよ」
「マジすか。何なに?」
「『雲』だよ」
「くも?」
「天井に貼るやつ。火事の後、つまり奥さんが亡くなった後は、神棚の上に『雲』の字がなかったんだ。火が移って燃えたらしい」
「えっと、神棚の『雲』って何だったっけ?」
「神棚って、謂わば小さい神社でしょ。その上の階に人がいる場合は神さまの上を踏むことになるから、畏れ多いと考えられる。だから『雲』を貼ることで『神棚の上には雲しかありません』と示す」
「なるほどー」
火事で焼失した後、新たな『雲』が貼られることはなかった。
「じゃあ五階に行かされるのって、もしかして!」
「五階というより、最上階に行きたいんだろうね。自分より上に誰もいないところへ。もっと言えば、雲の見える場所へ」
雨の日ならば、それは天を覆っている。
「じゃあ『雲』はちゃんと貼った方が良さげな感じ?」
「後で準備しとこう」
「やっぱ神さまの仕業なんすね」
「そういう方向性の話だろうとは思う。だけどまだ断定はできない」
「へっ? そうなの?」
窓の外はようやく白み始めたころだ。雨足は弱まりつつあった。
「まだ、確認しなきゃいけないことがある」
午前も十時を過ぎるころまで待って、私はビルのオーナーである
簡単に挨拶を交わし合った後、要件を切り出した。
「実は、またちょっとお伺いしたいことがありまして」
『どんなことです?』
「昨日、建設前に地鎮祭を行わなかったと教えていただいたと思うんですけど。お店の神棚の方は、きちんと
意図は伝わったらしく。
『神棚はね、前の店にあったのを移動させてきたんですよ。あれは商売繁盛のためのものだし、親父も特に反対はしなかったんで』
「神棚のお世話は、お母さまがなさっていたのではないですか?」
『ええ、そうですね。前の店でも親父は神棚のことはノータッチで、母親に任せきりでしたんで。母親、よく店のまかないを一緒にお供えしたりしてましたね』
「へえ、まかないを」
『母親が死んでからは、そんなに手入れできてなかったんじゃないかな。結局、今の店を閉める時に僕が処分しました。一応神社で魂抜きをしてもらって』
つまり奥さんが亡くなってから、神棚のお世話のレベルが下がった。
『昔から、母親はよく神棚を拝んでました。台風とか大雨の日とかは特に』
「えっ、大雨の日に?」
『子供のころに洪水で被災したことがあったらしいんですよ』
「なるほど……洪水が起きませんように、家が守られますようにって、お祈りしてたんですね」
私は姿勢を正し、一つ息をついてから切り出した。
「すみません、お母さまについて、もう少しお伺いしたいんですが——」
通話を終えて、肩の力を抜く。デリケートな話をする時は緊張する。
だけど、ピースは揃った。
5-A号室のフローリングに寝転がってゲームをしているアシスタントに、私は声をかけた。
「有瀬くん、私は今からシャワーを浴びる」
「おっ! 来たっすね!」
「その間に準備をしといてくれる?」
いくつかの指示を出して、私は脱衣所へ向かった。
黒いツナギを脱ぎ去り、冷え切った浴室に入る。意を決して蛇口を捻れば、頭の上から冷たい水が降ってくる。
「冷たっ……」
機みで心臓が止まるかと思った。いくらルーティンとはいえ、この時期の冷水シャワーはかなりの覚悟が必要だ。
浴室から上がって、新しいツナギを着込んでも、洗面台に映った顔は相当白い。冷えた濡れ髪はざっと乾かし、バチンと両頬を叩いた。
一階店舗に赴けば、ご飯の湯気の匂いがする。
有瀬くんは厨房にカセットコンロや調理器具を並べているところだった。
食材の入った小型冷蔵庫も含め、ほとんど全ての荷物が一階に揃っている状態だ。
時刻はお昼前。格子窓からの光はずいぶん明るい。
有瀬くんが一枚の紙を見せてくる。
「『雲』、書きましたよ」
「ありがとう、割と上手いじゃん」
午前中に近くのホームセンターで墨汁と筆と半紙を買いにいってもらい、『雲』も用意した。
「雨、上がったっぽいっすね。『ヤロカ水』だっけ? ああいう超常現象的なやつも雨の時に出たみたいだけど、降ってない時でも出るの?」
「むしろ雨だと相手の力が強くなりすぎるから、止んでる時の方が好都合だよ。なるべくこちらが有利な状況で対峙したい」
「あーね、相手が神さまじゃあねー」
「もしかすると純粋な神さまとは言えないかもしれない。ちょっと厄介な状態になってる可能性が高いと思う」
私は有瀬くんに向き直る。
「今回は有瀬くんの料理にかかってるから」
「えー!」
「大事なところは私も補助するし。頼りにしてる」
「うっそマジで! 頑張りまっす!」
ちょうど炊飯器がピーピー鳴ったところだった。準備万端だ。
私は部屋の中央に立つ。
「行くよ、有瀬くん」
「はい、弐千佳さん」
私は両腕を水平に広げ、手のひらを壁へと向けた。前後左右、四方の霊符が私の気に呼応する。
相手に紐付く負の念を織り交ぜた気。それが壁伝いに
両手を胸の前で組み合わせる。ぱちん、空気が爆ぜる。
「
たちまちのうちに、周囲の様子が一変した。
壁に貼られたビールのポスター。各テーブルに置かれた割り箸立てとメニュー。カウンターの前の棚にはずらりと並んださまざまな酒瓶。その向こうの厨房には、鍋やら食器やらも見える。
そして、神棚。天井に『雲』の字はない。代わりに黒煙の跡がある。
「うわー超居酒屋ー!」
「奥さんが亡くなった後のお店だ」
店内には誰の姿もない。
私と有瀬くんは、手近にあったテーブル席に着いた。
途端、急に辺りが騒がしくなる。まるで満席の時のような、賑やかなおしゃべりが溢れ出す。
ただし、やはり誰の姿も視えない。不安定な気配ばかりがある。
「こ、これ、どういう状況すか」
「あ……待って」
気付くと、私たちのテーブルの傍らに一人の女性が立っていた。初老でややふっくらした体型、エプロンにバンダナ姿の、柔和な笑みをたたえた人だ。
女性は朗らかな声で言った。
『いらっしゃい、ご注文はお決まりでした?』
ぞわりと鳥肌が立つ。
彼女の纏う気配は、人の霊のそれではない。もっと底の知れない何かだった。
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