7-5 水災のあった土地
「買い物行ってきます。車借りますねー」
朝食が終わってしばらく経ち、雨足がやや弱まるころ、
私は相変わらず気怠い身体を寝袋の上に横たえて、あれやこれやと考えを巡らせていた。
幻影で視た、賑やかな店の様子。
座敷側の壁の上部に、神棚があった。その近くの天井にまで伸びた、細く長い黒煙の跡。
何だろう、妙な違和感がある。神棚に何かが足りない、ような気がする。
そもそもあの幻影は、どの時点での像だったのか。
お客の気配と一緒に焦げ跡も視えていたのならば、火事の後の光景だったことは間違いない。奥さんの生前の記憶に由来する幻影であれば、焦げ跡はないはずだ。
じゃあ誰の念なのだろうか。奥さんの念が、途中で店主の念に切り替わったとか。
仮に店主夫妻の霊が両方とも成仏できずに不可解な現象を起こしているのだとしたら、ポイントとなるのは夫婦関係だろう。
有瀬くんは愛だと言ったが、逆に問題を抱えていた可能性だってある。
私は元請けに電話をかけた。一コール半で回線が繋がる。
『はい、
「
『お疲れさまです』
ジュニアだ。
「今現場入りしている物件のことで、ご相談があるんですが」
『どういったことでしょう』
「現在のオーナーさんって、亡くなったご夫婦の息子さんでしたよね? 直接お話をお伺いできないかと思いまして……」
ざっと現状を説明すると、淡々と返答がある。
『失礼のないようにしていただけるのであれば』
「えぇ、そこは承知しています」
『……息子さんはそのビルの近所にお住まいですので、私から連絡を取ってみます』
「お願いします」
通話から約十五分後、折り返しの着信が来る。
『息子さんですが、本日午後一時すぎであればそちらへ行けるとのことでした』
「ありがとうございます。助かります」
段取りはオーケー。
時刻はまだ午前十時半だ。気分転換をしようとタバコを取るも、中から出てきたのは使い捨てライターのみ。
「うそ」
思わず声が出た。空っぽである。
有瀬くんが帰ってくるにはまだ時間がかかりそうだ。
確かこのビルと同じ通りにコンビニがあった。
スマホで天気予報を確認する。雨雲の切れ目はしばらくない。大雨洪水警報まで発令されている。
いくらか迷った末に、私は歩いてコンビニへ向かった。傘の上に跳ねる雨粒はまだ常識的な量だ。徒歩数分の距離でも、足元はじんわり湿ったが。
レジカウンターでいつものピアニッシモを買い、店舗の軒下で一服した。よく馴染んだシトラスのフレーバーで、人心地がつく。
何気なく視線を上げた先。道を挟んだ反対側に、石碑が見えた。こんな住宅街には
一本を吸い終えてから、道を渡って石碑の前まで行ってみた。そこに刻まれていた文字は。
「『治水之碑』、か」
この辺りは一級河川が密集していて、昔から洪水被害の多い土地だった。中部地方に育った者ならば、小学校の社会の授業で必ず習う地元の歴史だ。今回の物件へも、県境の大きな一級河川を渡ってきた。ひと昔前はよく氾濫していたと聞く。
目の前の石碑も、水災の戒めや鎮魂のためのものなのだろう。
来た道を戻りつつ、何の変哲もない住宅街の景色を眺める。奇しくも雨の降り続く日。この一帯もかつては水に浸かったのだと思うと、不思議な気分になった。
有瀬くんが戻ってきて、昼食を終えた午後一時すぎ。
一階店舗の表玄関が開いた。
「あの、大黒不動産さんから連絡もらって来たんですが」
「この物件のオーナーさんでいらっしゃいますか?」
「ああ、はい、
中背でややぽっちゃりした男性だ。歳のころは私より少し上くらいか。河辺さんがオーナーだからカワベビルなのである。
私は姿勢を正し、便宜上の業者名にて自己紹介する。
「ハウスクリーンサービスの無量と申します。隣はアシスタントの有瀬です。この度はご依頼いただき、ありがとうございます」
軽く頭を下げる。有瀬くんもワンテンポ遅れて会釈する。
私たちはピカピカに磨き上げたテーブル席の一つに着いた。
依頼者が、地縛霊と思われる人たちの近親者。いろいろと気を遣う。
「昨日よりこちらにお邪魔して、現在もまだ調査中ではありますが、既にいくつか不可解な現象を確認しております」
私自身が体感したことを掻い摘んで報告した。謎の声や、エレベーターのことだ。
「『やろうか、やろうか』という声が聞こえたんですが、この言葉に何か心当たりはありませんか? ご両親やお店のお客さんに関わることなど、何でもいいんですが」
「やろうか……? いや、実はこの店で親やお客さんの様子がどうだったかとか、ちょっと僕はよく知らないんですよ」
「そうなんですか」
「実家は元々市内の別の場所にあって、一階で居酒屋やってて。祖父の代からの古い家だったんで、建て替えて今は僕が家族と住んでます。両親は十年前にこのビルを建てて、店を移転したんです」
なるほど、息子さんがこの店舗でのことをよく知らなくても仕方ない。
「自分らがいなくなってからも、この不動産を遺産として残せるようにってことだったみたいなんですが……まさかこんな形で相続することになるとは」
継ぐにも売るにも、今の状態じゃ難しいだろう。
「やっぱり、ここにいるのって、うちの両親の幽霊ってことですよね?」
「他に亡くなられた方がいないのであれば、その可能性もあると思います。よほどこの物件に思い入れがあったのかもしれませんね。私どもで成仏のお手伝いをさせていただきたいと思っています」
「あぁ、はい、ぜひよろしくお願いします」
ここで河辺さんの態度が少し柔らかくなったように感じた。
「ご両親は、仲の良いご夫婦だったんですね」
「え?」
「変な話、親しい相手を引っ張っていってしまうことも割とあって。お気を悪くされたら申し訳ありません」
「いやー……どうでしょう、まあ普通の夫婦だったと思いますよ。昔から小さな夫婦喧嘩は結構あったかな。うちの親父がちょっと、ケチなくせに見栄っ張りでして。その辺のことで母親がネチネチ言うパターンが多かったですね」
商売をやっている家でそれは、なかなかのストレスだったかもしれない。
「このビル建てる時なんかも、地鎮祭をやるかどうかで揉めに揉めて、結局親父がケチを押し通してやらなかったみたいなんですよ」
「そうだったんですか」
「母親はそれをずっと根に持ってましたね。この辺は土地が低いこともあって、ちゃんとしときたかったみたいで」
地鎮祭とは、その土地の守護神に祈りを捧げて、工事の安全や建物を建設する許しを得る儀式である。
確かに最近は地鎮祭を行わない人も増えてきているのだが。
そうした信仰や風習について、夫婦間で齟齬があったらしい。
手がかりが繋がるような、繋がらないような。
「ここに来るとやっぱり思い出しますね。親父が死んだ日も雨だったんですよ」
「そうなんですか?」
「実を言うと、母親の死んだ日も。だから、この時期の雨の日は、未だにちょっとキツいです」
「心中お察しします」
夫婦喧嘩の話を聞いたばかりだが、息子さんの様子を見るに、根本的に家族仲は悪くなかったのではないかと思った。
その後、エレベーターがまた五階へ行っていることを三人で確認した。
念のため連絡先を交換して、河辺さんは帰っていった。
「雨の日っていうのは、何かヒントなのかな」
「二人ともこの時期に亡くなってるんすよね。秋ってまあまあ雨多いっすもんね」
5-A号室。今日の夕飯は親子丼だ。
鶏肉は柔らかく、とじ卵はふわふわ。やや濃いめの味付けで、ごはんによく合う。
それを口に運びながら、これまでの手がかりを整理する。
「この辺は歴史的にも洪水の多かった地域でしょ。日本って
「あー、地鎮祭やんなかったから、みたいなことすか。幻影の中で轟音が鳴ってたっていうのも、洪水の音だったとか? 神の怒りに触れちゃった的な?」
「あり得ないとは言い切れないね。土地そのものの持つ力って、霊気の流れとも大きく関わってくるから」
私は箸を置いて、スマホ画面を有瀬くんに見せる。
「見て、これ。この地域に伝わる伝承なんだけど」
「『ヤロカ水』? 何すかこれ」
「雨の夜に川が増水すると、上流の方から『やろかやろか』って声が聞こえてくるっていう怪異」
「やろか」とは「欲しいか」の意味合いの問い掛けである。
これに「寄越さば寄越せ」(もらえるならちょうだい)と答えると、瞬く間に川の水が増して、応じた村人の村が洪水に飲み込まれる、という内容だ。
「もしかして『やろうか、やろうか』って声は!」
「この『ヤロカ水』が絡んでる……かどうかは分かんないけど、やっぱり何か洪水の脅威に関係してるんじゃないかと思って」
少しこじつけっぽいか。
「川といえば、昔から龍や蛇の姿をした神が司るものと信じられてたんだけどさ」
「あっ! あの神隠しのアニメ映画でも、川の神の化身が白い龍の姿で出てきてた!」
「うん、ああいうイメージね。ほら、一階の火事の煙の跡とか、そういう形にも見えなくもない」
厨房の壁伝いに立ち昇り、天井を這っていた黒煙。龍のように長く尾を引いている。
「……そうだ、あの煙の跡が伸びてる神棚の辺りを過去の幻影で視た時、何か違和感があったんだよね」
「違和感っつったら、地鎮祭やってないのに神棚は作ったんだってのも、何かちぐはぐっすよね」
「確かに」
少し記憶を検めてみる。
「……いや、違和感というか、『それはマズいでしょ』って思うようなことだったんだけど」
「えー? 神棚に関して? 何だろ」
「気になるけど思い出せない。もう一晩寝てみたら分かるかな」
有瀬くんが軽く首を傾げる。
「でも別に、二人とも水で亡くなったわけじゃないんすよね」
「それだよねー……」
まだまだピースが揃わない。
夜が近づくにつれて、雨はまた強さを増していた。
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