7-4 傀儡のごとく
——……やろうか……やろうか……
ゴウゴウと、唸るような轟音が聴覚を覆っている。
肌を震わす振動は、熱いような、冷たいような。
焦げ臭さが鼻を衝いたかと思えば、喉を塞がれ、呼吸の自由を奪われた。
——……やろうか……やろうか……
視界にノイズが走る。赤い、いや黒い。
大きな炎が上がっている。赤から黒。煤けた黒。
黒煙が壁伝いに立ち昇る。まるで龍のように。
黒い龍は天井を走り、そして——
ハッと目を開けた。
全身が硬直している。私は寝袋に包まったまま、眼球だけを動かす。
畳張りの座敷。昨夜、寝場所を確保するために脇へ退かしたはずの座卓が、私の身体の上を跨いでいる。
これは過去の幻影だ。火事の記憶に引き続いて、幻影を視ているのだ。
視界のほとんどを隠す過去時制の座卓の天板の端から、辛うじて天井が見えた。
神棚。
座敷側の壁の上方に、きちんと
天井の焦げ跡は、神棚に及ぶ一歩手前だ。
黒い煙の痕跡を逆に辿る。厨房の中の様子までは、ここから確認できない。
ざわめきが耳に触れた。
会話する声、酒を注文する声、料理を提供する声……の入り混じったような。
一つ一つをはっきり判別することはできない。誰が何人居るのかも。
相変わらず、ゴウゴウと唸る音が響いている。カチャカチャと食器か酒瓶のぶつかるような音もする。
身体は鉛のように重い。指先一つ、動かすのが難しい。
深く入り込まれているという感覚があった。
早く覚醒しなくては。
頭の芯がぼうっとしていた。正常な呼吸を意識する。吸って、吐いて。
ある程度の気を練ったところで、全ての幻影と幻聴が消え去った。
「……うっ」
心臓が強く脈打つ。全身の血液が急速に流れ出す。
激しい雨音がゴウゴウ鳴っている。現実の音だったらしい。
身体が動く。
上に行かなきゃ。
私は靴を履き、表に出た。
外は土砂降りで、まだ薄暗い。そして肌寒い。軒下をサッと移動して、ビルの中へと進む。
ひんやりしたエレベーターホール。上ボタンを押し、やってきたエレベーターに乗り込む。
ゴウン、ゴウン。雨の音だかエレベーターの音だか分からない。ゴウン、ゴウン。
程なくして五階に到着する。エレベーターを降りる。フロアを進む。
外階段へと出る扉の前に立つ。そのノブに、手をかけて——
「……あれ?」
扉の、目の高さの位置に、私の霊符がある。
よく馴染んだ自分の気が流れ込んできて、刹那、思考にかかっていた霧が晴れた。
ああ、そうだ、思い出した。
昨夜、エレベーターの不可解な動きに気付いて、五階フロア全体を囲うように霊符を貼り、ここもテリトリーとしたのだ。
いや、しかし。
どうして私は五階へ来た?
振り返れば、5ーA号室がある。
インターホンを押してしばらく待つと、難なく玄関が開く。
「おはようございまーす」
「……おはよ」
「
「ああ、うん」
瞬きを一つ二つ。狐に摘まれたような気分だった。
「えーと、どしたの?」
「んー……」
「とりま入ろ?」
促されて室内に上がれば、炊き立てごはんの匂いがした。
途端に全身の力が抜けて、私はその場にへたり込む。
「……はぁっ」
何でもない当たり前の呼吸すら忘れていたらしい。
今になって心臓が早鐘を打ち始め、
「弐千佳さん大丈夫? ほんとどうしたんすか、めちゃ顔色悪いっすよ」
私の目線の高さまで身を屈めた有瀬くんが、真正面から覗き込んでくる。その表情が本気で心配そうで、私は慌てて口角を上げた。
「ごめん、大丈夫……」
言いかけて、首を横に振る。
「……じゃない、かも」
たぶん私、何かに操られていたんだ。
インスタントのホットコーヒーを淹れてもらい、ひと息ついたところで、先ほどまでのことを情報共有した。
「ずっと聞こえてたのが、ゴウゴウ鳴る音だよ。炎の音なのか、エレベーターの音なのか、雨の音なのか」
「この土砂降りの音じゃね?」
「それに近い。でも幻影の中でもはっきり聞こえてたから、霊の未練の記憶の音でもあるんだと思う」
「霊っつーと、奥さんの方すかね」
「たぶんね」
真っ先に視えた記憶は、コンロに置いた鉄鍋から炎が立ち昇るシーンだった。
「奥さんの、死にゆく記憶、だったと思う」
「ひょっとしたら、もっと居酒屋を続けたかったんかもしんないっすよね。そんで居ついちゃったっていう」
「地縛霊の未練としては、そう考えるのが自然だよね。その後で、賑やかな店内の幻影を視た……というか、そんな音や声を聞いたから」
声と言えば。
「思い出した。最初に『やろうか、やろうか』って声が聞こえたんだった。火事の幻影と一緒に。どういう意味だったんだろう」
「やろうか? あっ、『一杯やろうか』的な?」
「そんなポジティブな感じじゃなかったよ」
「じゃあ、『やんのかテメェ』説」
「客同士のトラブルか。居酒屋だし無くはなかっただろうけど」
「それか、『ここでヤッちゃお』説」
「居酒屋の客席で? どういう状況?」
いずれにせよ、未練にどう関係するのかさっぱり分からない。
「それ以上に分からないのは、私が五階まで来ちゃったことだよ。なんでか、とにかく上に行かなきゃって衝動に駆られた」
「マジすか」
「エレベーターで五階まで来て、気付いたら外階段に出ようとしてた」
「え、こわ……」
「ドアに霊符が貼ってあったから正気に戻ったけど、あれがなかったら……」
いや、ちょっと待て。
「……違う。幻影が消えた時点で、ちゃんと正気のつもりだったんだけどな」
しっかりと気を練って、自分の意思で身体を動かしたはずだった。
ましてや自分のテリトリー内だ。私自身の気こそが一番強く働く場なのに。
「私の術を凌駕して意識に働きかけてくる力を持った霊か……」
「じゃあ旦那さんの方も、そういう洗脳みたいな感じで飛び降りさせられちゃった感じ?」
「かもね」
「この五階の部屋、店長さん夫婦が住んでたんすよね。奥さんが旦那さんを呼び寄せたとか。あの世で一緒になろう、みたいな」
メリーバッドエンド。夫婦の死だけを見れば筋は通る。
「でも今、私も引き寄せられたわけでしょ。奥さんの未練がそれだったとしたら、目的は果たされたのに不可解な現象が残ってるっていうのは、どういうことなんだろう」
「奥さんの愛が旦那さんを上回ってたとか」
「私は愛に負けたのか」
「弐千佳さんが言うとなんかカッケェ」
何の話だ。
二人して唸る。答えに辿り着くには、まだ手がかりが足らない。
「有瀬くんの方では、何か気付いたことあった?」
「いやー、それが何もなかったんすよ。最上階なせいで雨の音がエグかったくらいで。すんません、弐千佳さん大変なことになってたのに」
「謝らなくていい。霊的な異変はなかったんでしょ。『ない』ってことを確認するのも大事だよ。五階全体を霊符で囲った状態で、有瀬くんのアンテナに引っ掛からなかったんだ。原因は一階にあるってことだと思う。だから『五階に引っ張られた』というより、むしろ『一階から押し上げられた』ってことなのかも」
やはり、一階を調べるべきだろう。
しかし立ち上がろうとした瞬間、眩暈と虚脱感に襲われた。
「う……」
「わっ、大丈夫っすか! 休んで休んで!」
「んー……いつも以上に負荷がひどいな」
前回のゲーム画面酔いとはまた違う。
全身すっかり疲弊していた。自分の意思にまで影響があったせいか、恐ろしく怠い。
有瀬くんが朝食の準備をする物音を聞きながら、うとうとと微睡む。意識の落ちかけたところで、ギクリとして持ち直す。
いつまた知らずに主導権を取られるのかと考えると、気を抜いてもいられない。
この物件に巣食っているのは、本当にただの地縛霊なのだろうか。
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