7-2 カワベビル1Fテナント
霧雨が空気を冷やす、肌寒い秋の午後。
こんな日は駅前ロータリーの人通りも少ない。タクシーはいつもより数台多く客待ちしており、バス停に列を作る人々はみんな疲れた顔をしている。
いつもの待ち合わせ場所には、ビニール傘を差した
彼は私の姿に気付いた瞬間びくりとして、ちょっと笑えるくらい真面目な表情で姿勢を正した。
「お疲れさまです」
「お疲れさま、有瀬くん。雨の中ごめんね」
「いえ、
「とりあえず、車行こっか」
何せ今日も有瀬くんは大荷物なのだ。
ロータリー脇に停めた白のライトバンに、荷物もろとも乗り込む。
車を発進させて程なく、金髪の頭が深く下がった。
「弐千佳さん、この前は本っ当にすいませんでした!」
「うん、それはぜんぜんいいよ。お酒弱いって聞いてたのに、私こそごめん」
「いやっ、あれは俺が調子乗って自分で呑んじゃったんで……なんか、マジ勢いでいろいろ言っちゃったし」
「酔ってる時なんてみんなそんなもんでしょ。気にしてないからいいよ」
「あー……気にしてないんすね」
「いや一応ね、ホームセンターで何か有瀬くんが使えそうなものがないか探したんだよ」
「ホームセンター」
「でも、いまいちピンと来るものがなかった。やっぱり実戦がてら、様子見しながらやっていこうと思って」
「あー、はい、そっちっすね」
どうであれ、私の正面にある道はそれなのである。
交差点の信号が、黄、赤、と色を変えた。
私は車を停止させ、有瀬くんへと顔を向ける。
「気のコントロール方法、一緒に考えよう。有瀬くんが元気ないと調子狂う。だからいつも通りにしててよ」
「へっ……⁈」
驚いたように目を見張った彼は口をぱくぱくし、しかし何も声を発しないまま、頬をかぁっと紅潮させた。
次の瞬間には。
「……へへへっ、あっはははは! あーもう、最高かよ!」
「何、急に」
「サーセン、そっすよね! 俺、明るいのが取り柄だしね! うん!」
正直なところ、そう思い込みすぎるのも少し危うい気がするのだけど。
気持ちの落ち込んだ状態で事故物件入りする方が、よほど危険なのである。
車は国道をひた走り、県境を隔てる一級河川を渡っていく。橋はそこそこ混雑していて、向こう岸へと到着するのに赤信号三回分ほど待った。
堤防を下る道から住宅地に入り、県道に出る。コンビニや耳鼻科や信用金庫の並ぶ通り沿いに、今回の目的地はあった。
フェンスで囲われた駐車場は、よく見れば
個人名や法人名の札のない来客用の枠内へと愛車を入れ、荷物を下ろして問題のビルを見上げる。
「ここすか。なかなかの雰囲気っすね」
「築十年らしいけど、ちょっとね」
「ビル全体がヤな感じ」
「うん」
どんより曇った空の下、けぶるような霧雨を纏って
晴天であればもう少し明るく見えた可能性はあるが、それにしても嫌な雰囲気のする建物だった。
「五階建て?」
「そう。一階が貸店舗、二階と三階は貸事務所、四階と五階はそれぞれ二部屋ずつの住居。問題の物件は一階だよ」
一階部分はまるごと一店舗分の貸室。現在は入り口の扉に『テナント募集中』という札が貼られている。前店舗の看板が掛けられたままだ。
「居酒屋だったんだ。俺、しばらく酒はいいかなー」
「中は空っぽだよ。従業員口は裏手だって」
借りた鍵で従業員口を開錠し、スチール扉を引き開ける。
「うわっ……」
一歩踏み入れただけで、濃い負の気配に包まれた。
しかも、やたら暗い。小さな明かり取りの窓からわずかな光が差す程度である。
表ではなくこちらから入ったのは、分電盤があるからだ。ドアの上部に据えられた装置のブレーカーをONにし、電気を点ける。
コンクリートの床。バックヤードか事務所になるような部屋だろう。
扉を開ければ、店舗スペースだ。
「うおお、完全に飲食店!」
「前の店舗の什器や備品をそのままにしてあるんだ。居抜き物件ってやつだね」
同業種のテナントならば前のテナントの設備等を再利用できるので、初期費用を抑えやすい、というメリットのある貸店舗の形態である。
ちなみに、内装や設備を全て取り払った貸店舗のことは『スケルトン物件』と呼ぶ。
「客席は、カウンターとテーブルと座敷か」
カウンターは、厨房と対面になる形だ。間仕切り代わりに背面のないオープン型の棚が設置されている。恐らくここに酒瓶が並んでいたのだろう。
店の入り口に近い、黒っぽい落ち着いた色の硬い床材のスペースには四卓のテーブル席。
店の奥には、同じく四卓の座敷席。
「靴脱いで上がれるとこあって良かったー」
「寝泊まりするにも畳は助かるね。机を退かせば広くなる」
「良かった、トイレもある。お客と従業員の兼用トイレみたいな感じっすね。あと、キッチンがでっかい!」
厨房には大きめの流しにガスコンロもあり、数人が立って調理作業できるほどの広さがある。ただし足元はかなり汚れたコンクリートだ。
そして。
「えっ、何すかこの黒いやつ」
「火事の痕跡だね。二年くらい前にあったらしい」
ガスコンロのある位置から、壁を這い上がるように黒く焦げた跡が立ち昇っている。
黒は天井を伝い、座敷の上部の壁にある神棚用と思しき棚の付近にまで達していた。
「怖っ! こういうのって直さないもん?」
「次の借り手が決まったら直す感じなのかも。厨房から天井にかけてだから、お客さんは気付きにくいと思うけどね」
「んじゃあ、その火事が今回の『事故』?」
「うん、一つはね。実はこの物件、二回の『事故』があって」
「二回も?」
私はコンロを指す
「まずはこの煙の跡の、二年前の火災。規模的には
現場検証の結果、天ぷら油から出火したものと特定された。不幸な事故だ。
だが、悲劇はそれだけでは終わらなかった。
「そこからしばらくの休業を経て、ご主人が一人で店を再開した。だけど、一年前。そのご主人が、このビルの外階段から転落して死亡した。それが二つ目」
「えっ……それって、自殺ってこと?」
「自殺ということになってる。ご主人、奥さんが亡くなってからずいぶん憔悴してたみたいで」
「えー……辛いっすね。あ、外階段て、ここの従業員口の横にあった階段?」
「そうそう。五階部分の手摺りに乗り越えた形跡があったらしい。それで駐車場に全身を強く打ち付けて即死」
「へえ?」
有瀬くんがぱちぱちと瞬きした。
「じゃあ、店長さんはこの店ん中で亡くなったわけじゃないんだ」
「いいところに気付いたね。ビルの共有部分で起きた死亡案件だから、厳密に言うなら外階段が事故物件ということになる」
「そういうパターンもあるんすね」
集合住宅の共有部の廊下やエレベーターホールなどでの死亡事故も、なくはない。
住民たちが日常的に使用する箇所に心理的瑕疵が発生すると、何事もない部屋の退去率も上がる。建物のオーナーとしても死活問題なのだ。
「奥さんの方も、亡くなったのは病院に搬送されてからだった。厳密に言えば、この店舗の中では誰も死んでないんだ」
「じゃあ、なんでここで浄化作業する感じになってるの?」
有瀬くんの疑問は尤もだ。
だけど、今も確かに、負の念が肌に触れている。どことなく得体の知れない触感の念が。
「この店内で、おかしな現象が起きるからだよ。二年前の火災で奥さんが亡くなって以降にね」
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