6-3 社会の孤島
くすんだ白色で多少の傷はあるものの、特に何の変哲もない壁。灰色の床のカーペットはよく見ればパネル状で、組み替えたり入れ替えたりが容易なタイプだ。
つい先ほどまでのハイテンションが嘘みたいに、急に静かになった
「ここで、誰にも気付かれずに亡くなってたんだ」
「うん。長く放置された遺体は腐敗が進む。部屋の汚染もひどかったんだって。今は見た感じ綺麗になってるけどね。床板の染みは完全に消えなかったみたい。そのカーペット、捲らない方がいいと思う」
「あっハイ……」
音の漏れにくい部屋は、気密性も高い。そこから臭いが漏れるほどだったということは、どれほどの惨状だったか想像には難くない。
「二十代とか、俺らとそう変わんないってことじゃん。お年寄りなら分かるけど、その年代で孤独死とか。社会と繋がりがないとそういうこともあるんすね。なんかショック……」
「病気だったのか何だったのか、遺体の腐敗がひどくて死因は特定できなかったみたい。月々の家賃や水道光熱費は本人の口座から滞りなく引き落とされてたらしいんだけど」
「本人の口座から? どうやって生活してたんだろ。誰とも連絡取ってなかったってことは、バイトとかもしてなかったってことでしょ? 株でもやってたんかな」
「かもね。分かんないけど」
不動産屋経由で得られる情報はこれくらいだ。
その他、もらった資料に記載があったのは、現状発生する不都合のこと。
「この物件での主な心霊現象は、電気系統への影響だね。照明が不自然に点灯したり、家電や電子機器が異常な動作をしたり。スマホで勝手にアプリが立ち上がるみたいなこともあったみたい。もちろん物理的な原因は見当たらずにね」
「そういや前ん時も、俺のSwitchoに変な映像が出てきたことありましたね。幽霊の間でデジタル機器に出るのが流行ってるんすかね」
「この部屋の現象は、三ヶ月前にようやく入った住人が経験したもので、電子楽器がちゃんと使えなくてたったのひと月で退去したらしい」
「あーね、そりゃそうなりますよね。せっかく練習のために選んだ部屋なのに」
「だからその辺の問題を解決しないと、新たに入居者募集できないってわけ」
「なるほど了解ー」
概要の確認が終わった後は、室内の掃除だ。
洋間の壁とベランダ、二箇所の窓を開けて空気を抜けば、爽やかな良い風が通る。
いつもの手順でハンディクリーナーとフローリングワイパーをかけ、水回りの埃を払ってざっと水を流す。
滞留していた空気と水が入れ替わっただけでも、少し呼吸がしやすくなった。
「元々大して濃い念が溜まってたわけじゃないよね。今のところ霊の気配もないし。出現条件のあるタイプの霊なのかもしれない」
条件というならば、電子機器だろう。スマホならあるし、有瀬くんのSwitchoもある。
「データ飛んだり壊れたりはしないと思うけど、一応バックアップ取っといた方がいいね。外部に連絡取りたい時にスマホが使えないって可能性もあるのかな。そうなったら困るね」
「……あっ! 待って待って、俺すげえことに気付いちゃったかもしんない」
「うん、何」
有瀬くんがギターケースを掴む。
「どんだけ電子機器がおかしくなっても、アコギなら
「幽霊とセッションでもするつもり?」
何のショータイムだ。
準備の仕上げは霊符。昨日、芙美のところで受け取ってきたものである。
玄関と窓の上、そして壁。合計四箇所に貼れば、室内に私の気が満ちた。
いつもよりもどことなく、ふわっと温かく感じる。
有瀬くんが「あれ?」と声を上げた。
「なんか弐千佳さんの気、ちょっと変わった?」
「ああ、芙美に霊符の紋様を書き換えてもらったの。有瀬くんの力が出しやすくなるように」
「マジすか! やべー、俺もパワーアップしちゃう感じっすかね!」
有瀬くんの気の影響で私の気が変化したという事情は、なんとなく割愛した。
オール電化ではない物件が現場の時は、ガスの契約ができないため、お湯が使えない。
お湯が使えないということは、風呂を外で済ませなければならないということだ。
冬場ならばいざ知らず、まだ汗ばむ季節。近場に銭湯があるので、夕飯がてら出かけることにした。
日の入りは少しずつ早まってきている。手早く食事を済ませるために、大通り沿いの牛丼チェーン店に入る。
店内には男性の一人客がちらほら。まだ空いている時間帯だ。
券売機はタッチパネル式。二人して操作に二度ほどつまずく。
「この機械の表示、めちゃ分かりづらいっすよね」
「金を払うタイミングが分からん」
一言ずつ文句を言って、私は鬼おろしポン酢牛めしの並盛、有瀬くんは牛めしの大盛の食券を買った。
誰も座っていないテーブル席のうち端っこを選び、さほども腰を落ち着けないうちに食券番号が呼び出される。さすが、牛丼は早い。
お互いに注文のトレイを運んで向かい合わせに座り、揃って手を合わせる。
「いただきます」
想定通りの味。想定通りの量。チェーン店が良いのはそういうところである。ここはイートインだと味噌汁が付くのが良い。
有瀬くんは紅生姜の小袋を二つも取ってきて丼にまぶし、大きな口で美味しそうに食べている。豪快でも下品に見えないのは、箸の持ち方や食べ方が綺麗だからだろう。
「女の人って牛丼屋とかあんまし一人で入らないイメージ」
「私は別に一人でも入れるけど、牛丼よりうどんか回転寿司に行くかも。というか、むしろ一人だと食事自体をサボりがち」
「俺そういう感じがよく分かんないんすよ。腹減ったらなんか食いたくなるでしょ」
「面倒くさい気持ちの方が常に大きいんだよね」
「えー、人間の三代欲求の一つなのにー」
「三代欲求の中じゃ食欲が一番小さいよ」
「へー」
言ってから、微妙に失言だったかもと思った。三大欲求に何が含まれるのか、もうちょっと考えるべきだった。
しかし有瀬くんは実にフラットにさらりと流す。
「でも今回の物件で孤独死した人も、もしかしたらメシ食うのが面倒だったかもしんないっすよね。で、気付いたらエネルギー切れみたいな」
「なくはないだろうね。一人暮らしだと動くに動けない状況はいくらでもある。体力的なことか精神的なことかは分からないけど」
いずれにせよ、負の念の記憶を覗かなければ何の方向性も見定められないだろう。
食事を終えた後、銭湯へと向かう。割と新しい綺麗な施設だ。お客は少なく、女湯は貸し切り状態だった。
とはいえ公衆風呂は落ち着かないため、髪と身体をさっと洗い流して少しだけ湯船に浸かり、可能な限りの短時間で撤退した。
有瀬くんが出てきたのは、私の約五分後。
「あーいい湯だったー! おっ、フルーツ牛乳あるじゃん! 一本くださーい!」
そうしてフルーツ牛乳の瓶を一気飲みした彼は、唇の上にフルーツ牛乳ひげを付けたまま、弾ける笑顔で「ぷはー!」と息を吐いた。牛乳瓶をラッパ飲みする時、人はなぜ腰に手を当てるのだろうか。
「有瀬くん、フルーツ牛乳のCM出られるんじゃないの」
「マジすか! オファー来ちゃうやつ? 動画とか撮っときゃ良かったかな。まいっか、空瓶の写真だけでもインストのストーリーに上げとこ。『湯上がりのフルーツ牛乳最高ー!!』って」
今日び、SNSでいいねを稼ぐ方がメディア進出には近いのかもしれない。
既にとっぷり日の暮れきった、午後七時半すぎ。
現場に戻ると、マンションの共有部分は昼間よりも一層ひんやりしていた。
302号室の玄関を開けるや、心なしかの念がヒュッと漏れ出てくる。
続いてかすかな消臭剤の臭い。電気のスイッチを入れる。
部屋に進み入る。
いったん光を灯した照明が、わずかに瞬いた。
同時に。
けたたましく鳴り始める着信音。
「ウワァァ⁈ ビビったー!」
「……私のスマホだね」
スマホを取り出すと、既に切れていた。
着信履歴を開く。
『非通知設定』の冷え冷えした文字。
そして。
「ん? ちょっ……」
「えっ、何すか」
「なんか、勝手にYourTubeが……」
画面上では、動画アプリが独りでに立ち上がりかけている。
「えっ何なに? 呪いのビデオ的な?」
「……いや、なかなか始まらないな」
結局そのまま何事もなくアプリは終了し、元のホーム画面に戻ったのだった。
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