5-7 咲かない百合

 ロフトの手摺りに結び付けられた縄が、異様な念を発していた。魂をこの場所に繋ぎ止める想いを象徴するように。

 彼女は今も苦悶の表情を浮かべている。


「まずはあの縄を断ち切ろうか」

「えっ、切るもんとかってあります?」

「あれも念の作る幻影なんだよ。研いだ気でなら切れる」


 私は部屋の端に寄せて置いていた荷物の山からフローリングワイパーを取り、有瀬ありせくんに手渡した。


「やってみて」

「うぇっ⁈ あっハイ、やってみます!」


 一瞬の動揺を見せたものの、すぐに得物を両手で握り締める我がアシスタント。

 吸って、吐いて。何度かの深呼吸で、彼の身は陽の気を纏い始める。それは手にしたフローリングワイパーにも波及する。ただし、まだ薄い。


「集中して」

「はいっ!」


 軽く手に触れてやると、もう一段ほど陽の気が高まった。私の陰に、有瀬くんの陽が呼応したのだ。


「もういけると思う。切ってみて」

「おっけ、いっきまーす!」


 はたして。ワイパーのシート取り付け部が刃の役目をきっちり果たし、縄はすぱりと断ち切れた。

 私は崩れ落ちてくる彼女の身体を抱き留め、腹部に手を当てて清浄な気を注ぎ込む。その瞳から急速に害意が消え去り、次第に焦点が合ってくる。


『ん……』

「気付いた?」

『…………え?』


 壁にもたせかけて座らせ、私は彼女と目線の高さを合わせて笑顔を作る。


「どうも、お邪魔してます。気分はどう?」

『あ、あの……?』

「私は無量むりょう、あっちは有瀬。あなたを助けにきた」

『助け、なんて』

「助けが必要に見える」


 彼女は口を噤んで俯いた。勝手に踏み込んでくれるなと、顔に書いてある。

 私は彼女の手を取った。術中であれば霊体にも触れられるのだ。それとなく自分の気で彼女を包んで動きを制限しつつ、柔らかなトーンで続ける。


「この部屋に住んでた男にひどいことをされた?」


 首が小さく横に振られる。


「他の女の子たちとトラブルになった?」


 これも否。じゃあ。


「あの、ショートボブの子」


 ハッと顔が上がる。


「あの子が憎かった」

『……違う』

「うん」


 分かっている。


「好きだったんでしょう、あの子のことが」


 彼女の強張った目の縁に、みるみる涙が盛り上がり、音もなくこぼれ落ちた。甘く柔らかなものを踏みにじられるような情動が、じわじわと伝わってくる。


「苦しかったね。良かったら、話を聞かせてくれる?」

『……っ』


 私の隣で、有瀬くんだけが首を捻っていた。


「えー? 結局どゆこと?」



 彼女は、ユキノと名乗った。


『友達の付き合いで、あるライブハウスに行ったのが最初でした。そこであの子……マコと出会ったんです。一目惚れっていうか、一耳惚れでした』


 透き通るようなウィスパーボイス。ハードロックに乗せて紡がれる、繊細なのに芯のある彼女の歌声に、一瞬で心を奪われたのだという。

 華奢で可憐な姿で激しいステージに立つアンバランスな危うさもまた、堪らなく魅力的だった。

 以来ユキノさんは、そのライブハウスに足繁く通うようになった。追っかけと言ってもいい。マコさんのステージでは常に最前列を陣取って、顔を覚えてもらった。


 そんな折、ある男に声をかけられた。


『そこのスタッフとして働いてる人でした。ライブハウスの経営者の甥っ子だとかで。本人も人気のバンドのメンバーで、そのバンドが近々メジャーデビューするみたいな話もあって。……いろんな女の子と遊んでる噂のあった人だけど、マコを紹介してくれるって言うから』


 彼こそが、この部屋の住人だった男だ。

 かくしてユキノさんはマコさんと個人的に知り合うことができた、のだが。


『マコ、この部屋しか落ち着く居場所がないみたいな感じだったんです。家族とうまくいってなくて。あの男のことは、初めて優しくしてくれた人だって』


 実際、来る者拒まずで調子のいい適当な男だったらしい。

 彼の親戚の経営するライブハウスはこの辺りでは大きなハコで、関係を持った女子にステージの枠取りやチケットを優遇していたそうだ。

 加えて、メジャーデビュー間近のバンドのメンバー。遊び感覚でセフレとして付き合っていた女子も多かったという。


『マコは、あいつに受け入れてもらえたことで、救われてたみたいです。自分の存在を肯定してもらったからって、あいつの全てを受け入れるべきだと思い込んでました』


 そして、たびたびリストカットした。

 マコさんが自分自身を傷付けるごとに、ユキノさんは胸を痛めた。


『それが痛々しくて、可哀想で——』


 余計に愛おしくなった、と。


『マコはすごく神経質で、誰がいつこの部屋に泊まったとか、例えば洗面台の持ち物が誰のものなのかとか、全部チェックしてたんです。だからわたしも、少しでもマコに認識してもらいたくて、あの棚に自分の歯ブラシを置き始めました。それからマコと同じブランドの化粧水も買ってみたりして』

「うん……」

『もしかしたら、わたしもマコのリスカの原因になってたかもしれないんですけど』


 そう言うユキノさんは、どことなく嬉しそうにも見える。


『前なんてね、わたしとマコがたまたま二人でここに居合わせた時に、あいつが別の女と帰ってきて、その、ことがあって。ロフトの真下のキッチンで、声とか物音とか聞きながら、一緒にごはん作りました。あれ、おかしかったなぁ』


 一人の男を介した、女同士の不思議な連帯感。一見すれば、そう思えるけど。


『それでね、わたし思ったんです。も聞きたいって』


 ……つまり、を、ということだ。


「だから盗聴器を仕掛けたわけか」

『そう。マコがタップ型の盗聴器を使ってたんです。いい考えだなって思ったんですけど、同じようなやつだとバレちゃうんで』

「まあ、確かにね」


 そうしてユキノさんは、壁の内部に盗聴器を仕込んだ。

 ベッドのあるロフト上のコンセントにはマコさんの盗聴器が刺さっていたため、下の洋間で妥協したらしい。


『わたしがあいつと寝たのだって、マコがあいつと寝てたからなんです。ちょっとでも、そういう形であっても、マコと繋がりたかったの』

「なるほど……」


 仲のいい友達とお揃いのものを持ちたい心理に似ているかもしれない。

 彼女の甘い嬌声を聞き、同じ男に抱かれた体験を共有する。

 恐ろしく歪んでいる、と思う。だけど、それが心から欲したものだったのだろう。


『でもある時、盗聴器がマコとあいつの会話を拾って……』


 ——マコちゃん、最近ユキノちゃんと仲良いよね。良かったじゃん、友達できて。

 ——友達とかじゃないよ、あんな子。ベタベタしてきて気持ち悪いし、すごい迷惑。あたしはあなたさえいればいいもん。


 くっ、と喉の奥の詰まる音がした。


『そんな言葉、聞きたくなかった。マコがわたしのことをそんなふうに思ってたなんて、知りたくなかった……』


 そうしてユキノさんの中で行き場のない想いが渦を巻き始めた。

 わたしが一番マコのことを好きなのに。

 あの男さえいなければ。あいつこそが何もかもの元凶だ。

 そうなると、彼に触れられた自分の身すら穢らわしく思えてくる。

 想い人に否定されて、好きでもない男に汚されて、生きる意味がどこにあるだろうか、と。

 どうせなら全部めちゃくちゃにして終わらせてやろう、と。


 それまで黙っていた有瀬くんがぽろっと呟いた。


「なんかいろいろレベル高すぎて、うっかり新しい扉が開きそうなんすけど」

「ちょっと黙ってて」


 正直言うと、私も一連の関係者全員おかしいと思うし、全く共感はできない。

 だけど、例えそうだとしても、他人のセックスを笑うべきではない。

 ユキノさんにとっては、命を絶つ選択をするほどのことだったのだ。それが自業自得であっても。


 マコさんの言葉が本心からのものだったかどうかは分からない。一つ確実に言えるのは、彼女が男しか見ていなかったということだ。

 膝を抱えて突っ伏したユキノさんの肩に、私は触れた。


「話してくれてありがとう。好きな人から拒絶されるほど、辛いことはないと思うよ。ユキノさんが自殺したことで、その男は社会的な制裁を受けた」


 大家さんを通じて聞いた話だ。

 例の彼は、この事件のせいで仕事をクビにされたらしい。バンドメンバーも外されたのだとか。彼の雇い主だった叔父が賃貸契約の保証人で、退去のゴタゴタの時にそんなことを言っていたそうだ。

 少なくとも、彼や彼に関わった女性たちがそれまでと同じ関係を続けられるわけもない。

 何もかもをぶち壊したいというユキノさんの願いは、ちゃんと達成されたはずなのだ。


「本当は殺したいほど憎いかもしれないけど……彼もマコさんも、もうここにはいないよ。ユキノさんだけがこの場所に縛られてる。このままだと負の念が魂を侵食して、永久に苦しみ続けることになる」


 それでも、なぜこの部屋から離れられないのか。

 偏執の強さゆえか。だとしたら簡単に解けるものではないだろう。だったら。


「私が忘れさせてあげる」


 耳元でそっと囁きかけ、わずかに浮いたその視線を、覗き込んで絡め取る。


「何の未練も思い出せなくなるように、綺麗に逝かせてあげるよ」


 甘く言葉を紡ぎつつ、髪を優しく撫でる。頬に指を這わせて、捕らえた眼差しから気を注ぎ込み——


 ピー! ピー! ピー!

 突如として切り込んでくる鋭い電子音。


「アァーッ⁈ 米ッッ! 今かよッ! 一番いいところだったのにッ!」


 ばたばたキッチンへ向かう有瀬くん。

 おい。

 せっかく練っていた気も、集中が途切れたことで緩んでしまった。


「いやタイマーにしとくべきだったわー。ほんとサーセン」


 炊飯器の飯をしゃもじで混ぜる我がアシスタント。炊き立てごはんの湯気がこちらまで漂ってくる。

 私も、炊飯中だということは承知の上で浄化作業に入ったので、こればかりは文句も言えない。


 顔を上げたユキノさんが、すっかり毒気の抜けた表情で、ぽつりと呟いた。


『ごはんの、匂いがする……』


 ……何かデジャヴなんだが、このパターン。

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