5-8 いってらっしゃい

 幻影として顕現している過去のキッチンが、現在の状態と重なって視えていた。

 有瀬ありせくんの持ち込んだ炊飯器と、使用して洗った後の包丁やフライパン、そしてラップを掛けてあるおかずが、今の時制のもの。それ以外の調理用具は、以前存在していたものであるらしい。

 ゆっくりと自分の足で立ち上がったユキノさんは、コンロに乗った幻影の両手鍋を眺めて、軽く目を細めた。


『ここで時々、マコと一緒にごはんを作りました。あの男のためって名目だったけど、それぞれの得意な料理を教え合ったりしてた……』


 先ほど仮眠中に、キッチンに立つ二人の姿を視た。同時に、そこに流れる柔らかな空気も感じたと思う。


 ユキノさんは洗面台の前に立つ。たくさんの女の持ち物が置かれた棚。その中の一つの化粧水に手を伸ばす。


『これはお揃いにしたやつ』


 続いて、玄関の上りかまちに足を向ける。


『この部屋で、いつもマコを待ってました。わたしも、マコの居場所の一部になれたらいいなって』


 外出から戻った時に聞こえた、『おかえり』の声。あれはマコさんへの言葉だったのだ。


『……『ただいま』って返してくれたの、聞こえました』


 私と有瀬くんに言ったらしい。背中を向けたままで、表情は分からないけど。照れと自嘲と間接的な落胆を混ぜて薄めたようなトーンだった。

 振り返ったユキノさんは、淡く微笑んでいた。


『わたし、何を間違えちゃったんでしょうね』


 正直、指摘をしようと思えばいくらでもできる。彼女の行動は間違いだらけだった。盗聴器を仕掛けなければ。マコさんに対して別のアプローチを選んでいれば。あるいは男の誘いに乗らなければ。

 でも、今それを挙げ連ねたところで、いったい何の解決になるだろうか。


 辺りに漂う念が、不意に濃さを増す。


『こんなに辛い思いをするなら、初めから好きにならなきゃ良かった……』


 ユキノさんの瞳から、大粒の涙が音もなくこぼれ落ちた。


 やはり、何もかも忘れてしまった方がいいのかもしれない。マコさんと出会った記憶すら消してしまえば、この苦しさは跡形もなくなるだろう。


「あの」


 深い静寂を破ったのは、有瀬くんだった。


「俺、思うんすけど。『楽しい』とか『好き』とかって、自分にとっては大事な気持ちじゃないすか。ユキノさんがマコさんと過ごした時間とかもさ、それが大事だったことは間違いないわけでしょ。そういう大事なものを自分で否定したり後悔したりってなったらさ……なんか、哀しいじゃん」


 楽しそうな女性二人の後ろ姿を、また幻視する。だけどそれは瞬きする間に消えてしまって、甘さと苦しさだけが残る。


 ああ、そうか。

 ユキノさんがこの部屋から離れられないのは、大事なものがあったからだ。

 負の念の吹き溜まりだったロフトの上と比べると、その真下にあたるここは、秘密の楽園みたいな場所だった。


 静かに涙を流すユキノさんを、私はそっと抱き寄せた。


「ユキノさんの悪いもの、全部引き受けるよ。置いていっていい。大事なものだけ、忘れずに持っていって」


 来世は必ず、自分を大事にする選択ができるように。


『……はい』


 体温のない霊体から、ひんやりしたものが染み出してくるのを感じた。それが『器』たる私の体内に入ってくるのも。

 重くて、苦しくて、怖気おぞけが立つ。だけどいつも通り呼吸をすれば問題ない。


 やがてユキノさんの身体は透け始める。輪郭は既に綻びつつあった。

 未練を場に繋ぎ止める最後のくびき——届かなかったマコさんへの苦しい想いを、私は結んだ刀印で断ち切る。まるで介錯するように、彼女の首元の輪郭を。

 最後に、場に施した結界を解けば。

 彼女は穏やかな表情を浮かべ、きらきらと光を放ちながら、天へと昇っていく。


「いってらっしゃーい!」


 有瀬くんが明るい声で見送る。ちゃんと彼女に届いていたらいい。


 かくして、部屋はすっかり元のがらんどうに戻った。

 途端、ひどい眩暈を覚える。どうにか耐えていた負の念の重さがダイレクトにのしかかってきて、私は思わずへたり込んだ。


弐千佳にちかさん!」

「あ、大丈夫……ちょっと休憩すればこのくらい」

「もうっ、毎回無茶するんだからー!」


 大きな手が私の背中に触れた。彼から伝わる陽の気が、身の内に溜まった念を中和してくれる。


「てか、今のやつ何気に初めて見たパターンかも?」

「今回は言葉の通じる相手だったし、本人も自分の過ちに気付いてくれたからね。素直に元凶の念を明け渡してもらえたから、割と楽だったよ」

「楽って……」


 そうでなければ、もっとキツい強行手段で念を浄化する必要があった。それだけ私自身への反動も大きくなる。

 私の背をさする有瀬くんの手が、ふと止まった。


「あっもしかして、今度は俺が弐千佳さんのことギュッて抱っこした方が良さそ?」

「いや別にギュッてする必要はないよね」

「えー?」


 腕を回してくる有瀬くんの胸板を押し返す。


「ありがとう、おかげで楽になった」

「そっすか、そんなら良かった」


 にぃっと八重歯が覗く。何の頓着もなく。


「んじゃ、お昼にしちゃいますか!」


 有瀬くんが用意していた昼食は、三色そぼろ丼だった。

 具材は、鶏そぼろ、卵そぼろ、そしてほうれん草のおひたし。それぞれ自分で好きなだけごはんの上にのせて食べるスタイルらしい。


「いただきます」


 フローリングの床の上に正座し、合掌する。

 茶色、黄色、緑と、目にも鮮やかな三色丼は、神経をすり減らした一仕事後の身体に沁みた。

 鶏は濃いめの味付けで、卵はやや甘め、ほうれん草はさっぱりして瑞々しい。見た目だけでなく、味のバランスも絶妙だ。


「んー、美味しい」

「あざっす! これ米が無限に食えますね。いっぱい炊いてあるんで!」


 もりもり食べ進める有瀬くんは既に二杯目。よく食べる分、安い材料でお腹いっぱいになる美味しいレシピを日々集めては実践しているらしい。

 料理が苦にならないということだけでも、生きる力がすごい。


「そういや、結局マコさんってどうなったんすかね」

「私たちの立場からじゃ知りようもないけど……男が全てを失った時に離れたのか、余計に自分だけは側にいなきゃと思ったのか、どっちかだろうね。何にしても、マトモに生きてるといいよね」

「っすねー」


 お腹の中が温まるにつれて、「戻ってきた」という実感が大きくなってくる。

 生と死との境界線は私にとって曖昧で、いつ何気なく踏み越えてしまってもおかしくないと感じるものだ。

 生の世界との軛。大丈夫、ちゃんと見えている。生きている。私は送り出す側だ。


「しっかし今回の件、なんか参考になるかと思ったんすけど、全然でしたね」

「参考? 何の?」

「ほら、モテテク的な?」

「ああ、なるほど」

「ダメだわー、節操がねえのは良くない」

「まぁそれはそうだね」


 耳が痛い。


「やっぱ真面目にやるのが一番堅いっすよね。俺はもうちょい弐千佳さんの役に立てるようになります」

「ん? ……今回もだいぶ助けてもらったと思うけど」

「いや、なんかこう、俺ももっとちゃんとした必殺技的なやつが欲しいんすよ」

「必殺技」

「除霊の人としてのキャラを立てたいっつーか」

「除霊の人としては既にだいぶ異色キャラでは」


 今日もド派手な金魚柄のアロハシャツを着た金髪のアシスタントは、朗らかに笑う。


「今後も頑張るんで! よろしくお願いしますっ!」

「それはもちろん」


 彼のテンションにさほど調子を狂わされなくなってきたのも、ひとえに慣れというものだろう。


 食事が終わって片付けをし、部屋じゅうの掃除を済ませて持ち物とゴミを纏めれば、作業完了だ。

 何もない部屋は、まるで何かの抜け殻みたいに見える。色濃く蔓延っていた愛憎の念は嘘のように消えて、当時の面影を探すことはもう難しい。

 ただ、うっすらと炊き立てごはんの匂いが残っているだけで。


「じゃあ、今回もお疲れさま」

「お疲れっしたー!」


 そうして私たちは、RANKER 104号室を後にした。



ー#5 ロフト付きワンルームハーレム・了ー

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