5-6 甘い痛み
——すき、すき、すき……
——少しでもたくさん、その声を聞いていたい。
胸の奥がきゅうっと甘く痛む。その感覚と共に、意識が浮上した。
淡い色に染められた現実の空間に、過去の幻影が重なっている。
モノトーンの家財で揃えられた男の部屋。そこに漂う、いくつもの女の甘い匂い。
甘くて、甘すぎて、とても苦しい。
この部屋の中で、何人もの顔が見える。声が聞こえる。
女、男、女、女……
媚びるような紅い唇、誰かの嬌声、言い争いの声、覆い被さってくる男の肩口——
次々と切り替わるイメージの中、ある一人の女の顔が鮮明に浮かんだ。
くるんとしたショートボブで、童顔の。
そこへ白い手首の印象が連なる。幾筋ものリストカットの白い痕。
また、きりきりと胸が痛む。それはそれは狂いそうなほど。
——わたしが一番愛してるのに。
——どうしてわたしは一番になれないの。
——ただ好きに抱かれるだけ抱かれて、結局肝心な距離は一つも縮まらないまま。
またイメージが浮かぶ。
コンセント。カバーと台座を外して、装置を取り付ける女の手。
——簡単なものだと、神経質なあなたにはきっとすぐに見つけられてしまうから、慎重にやらないと。
——あなたの声が聞きたい、ただそれだけだったの。でも。
負の感情が湧き上がる。
——聞きたくなかった。あんな言葉は、聞きたくなかった。
洗面台の前に立つ。いろんな女の持ち物がひしめき合っている。化粧水の一つに手を伸ばす。その滑らかな瓶の表面を指でなぞる。
——すき。すき。こんなにもすきなのに。
——わたしが生きる意味なんて、もう何もない。
鏡を見る。そこに映る、傷んだパーマの茶髪の女。認識した自分の顔は、視界もろともぐにゃりと醜く歪む。
——あいつのせいだ。
——全部めちゃくちゃになってしまえばいい。
気付けば、ロフト上に横たわる私自身の
息ができない。
低い天井が、ホワイトノイズで明滅し始める。
全身隈なく重い負の念に浸りきっていた。身体は少しも動かない。
さりとて日の出の気配は近い。呼吸困難で気絶したとしても、大事には至らないはず。
だけど自分のテリトリー内で相手に主導権を取られるような間抜けをやらかすつもりもない。
息ができないと感じるのは、単に身体がひどく強張っているだけだったりする。
まずは努めて鼻から息を吸う。
ここまで来れば、もう身体は動く。
私は素早く両手で九字を切った。臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前。災いを退ける護身の術だ。
最後の印で、周囲に清浄な気が湧き起こる。それに呼応して、身の内からよく練った気が膨れ上がる。
纏わり付いていた念は、一瞬にして綺麗さっぱり霧散した。
ホッとして全身から力を抜いたころ。
「すげえ……」
思わぬところから感嘆の声が聞こえる。金髪頭がロフトを覗き込んでいた。
「いたんだ」
「うわーッ! あっ、あの、すんませんっ! 別に覗きとかじゃないんすよ!
顔を真っ赤にした有瀬くんのTシャツには、霊符が貼られたままだ。
「ああ、それね、私の気に連動するんだ。今回は有瀬くんの方に霊障行かなかったでしょ」
「うん、今日は大丈夫でした」
「良かった」
私は半身を起こす。途端、眩暈に襲われた。
「う……」
「だいじょぶっすか。なんか、顔色が……」
「やっぱり、ロフトの上は流れが滞留しやすいね。いつもより濃い念に浸かりっぱなしになったから、さすがにちょっとね」
「すぐ下行こ!」
有瀬くんに支えられながら梯子を降りた。
「何か食った方がいいかも」
さっとお茶漬けが出てくる。お腹が温まれば、気分はかなりマシになった。
私一人だったら、しばらく怠さを引き摺っていたに違いない。有瀬くんをアシスタントにする前はそうだった。
ペットボトルのお茶を飲みつつ、先ほど視たものを共有する。
「へぇ? じゃあリスカの人は別人だったんだ?」
「うん、たぶんね。ショートボブの子のイメージが強く残ってて。そこに連なる情報だったから、リスカはその子だと思う」
昨日も違和感はあった。
リストカットは自傷行為であり、自殺を目的とするものではない。自分の中のどうしようもない感情を、痛みによってコントロールするためのものだ。あるいは他人の気を引くための。
歪んではいるが、生きるための行為と言える。
だから、首を吊って命を断つ行為とは、必ずしも直結しない。別人だったと分かって腑に落ちた。
「やっぱ女子同士で鉢合わせしちゃいますよね。そりゃ嫉妬バチバチにもなるでしょ。彼女的にはそのショートボブの子が一番ライバルだったっぽい感じ?」
「何か特別な意地みたいなものがあったのは間違いないね。念の記憶の中で、男の印象ってほとんどなくて。嫉妬が拗れて、男よりむしろ浮気相手に粘着するパターンは結構あると思う」
言いつつ、軽く首を傾げる。
何だろう。これまたしっくり来ない。
「盗聴器は、男の声を聞きたくて仕掛けたんすね。ライブハウス的なところのスタッフって話だし、やっぱ本人もバンドとかやったりしてたんかな」
「その盗聴器のせいで聞きたくない言葉を聞いてしまって、思い詰めて自殺した……ってことみたいだった」
「そりゃまあ、いろんな音聞こえますよね。よっぽど寝取られ的なアレがヘキでもなきゃ、だいぶキツいんじゃね?」
「でもそんなの、想定の範囲内だよね。バレて処分されないように、コンセントの中に仕掛けたみたいだけど」
「そんだけいろんな人が出入りしてたんなら、何が誰の持ち物なのかとか、あんまし分かんなそうな気がするんすけど。いろんな女子が自分の私物置きまくってたわけでしょ?」
「それなんだよね。たぶん男本人は家の中のものを気にしてなかったと思う」
だけど、念の記憶に拠れば。
——簡単なものだと、神経質なあなたにはきっとすぐに見つけられてしまうから、慎重にやらないと。
『あなた』は、神経質だった、らしい。
「盗聴器仕掛けても、肝心の男より女子たちの声の方がよく聞こえるまでありそっすよね」
男より、女の声が。
「……あ、ねぇ、ひょっとして——」
バチン!
大きなラップ音と共に、こめかみで頭痛が弾けた。鋭い痛みが頭蓋骨の中で反響する。
「うっ……」
「うあー、やっぱエアコンで空気回ると念も引っ掻き回される感じっすよね。だいじょぶ?」
「うん、ごめん……ちょっと、休憩しようかな」
「その方がいっすよ」
有瀬くんが背中をさすってくれる。頭痛がすぅっと消えて、気の抜けたところへとろとろと眠気が来る。
睡眠不足は直接的にコンディションに響くので、無理は禁物だ。
タバコで一服して体内の気を入れ替えてから、仮眠に入る。
洋間の端で意識を沈めるうち、幻影の残滓を
キッチンに立つ、二人の女性。
一人はパーマのロングヘアで、もう一人はショートボブ。
甘い。甘くて、苦しい。この場所に巣食う感情の欠片。
それをきちんと捉えきるより先に、彼女たちの姿は夢みたいに消えてしまった。
苦しい。ひどく苦しい。それだけが残る。
あぁ、そうか、そういうことだったんだ——
ぱちりと目が開いた。なんだかいい匂いがする。
頭の中はすっかりクリアで、高い天井の白は明るい。
キッチンを覗くと、有瀬くんがお昼の支度をしていた。見事な手首のスナップでフライパンの中の挽き肉が躍っている。
「あ、弐千佳さんおはよー。もう大丈夫なの?」
「おかげさまで。私、今からシャワー浴びてくるね」
「おっ! もしかしてー?」
「うん、分かったと思う」
この部屋に染み付いた念の正体が。
シャワーを浴びるのは、除霊に入る前のルーティンだ。全身をざっと洗い流すと、背筋が伸びる。毎度この瞬間、心がすっと落ち着く。正常で平静な私に調っていく。
新しい黒いツナギに着替えて、鴉みたいな濡れ髪を乾かす。頬はいつも通り白いが、血色は悪くない。いつもより少し芯のある、だけどやはり辛気臭い表情をした、『何事にも動じない』
以前、有瀬くんに「なぜ除霊の前にシャワーを浴びるのか」と問われたことがあった。
私はこう答えた。「霊とちゃんと向き合いたいからだ」と。
脱衣所から出ると、有瀬くんが流しで調理用具を洗っていた。
「あっ、もう今からやっちゃいます?」
「うん、お昼は後でもいいかな」
「ぜんぜんいっすよ。今まだ米炊けるの待ちの状態なんで」
じゃあ、後からの楽しみにしておこう。
今ちょうど、気持ちができている。
「行くよ、有瀬くん」
「はい、弐千佳さん」
そうして、洋間の中心に立つ。
ロフト上に気流が滞留するおかげで、真っ昼間であっても念を捉えやすい。
私は両腕を水平に広げて、手のひらを壁へと向けた。前後左右の霊符が、私の気に反応する。正確に言えば、私の中に溜まった負の念を織り交ぜた気に。
パチパチと小さく爆ぜる音。壁伝いに
私は再び、両手を胸の前で組み合わせた。
ぱちん。空気が弾ける。
「
刹那。
殺風景な空間が、たちまちのうちに一変する。
テレビに、ローテーブルに、短い毛足のラグマット。壁際に立てかけられたエレキギター。部屋の隅のポールハンガーには鞄や上着やキャップ。いずれもモノトーンで、男性的な雰囲気の。幻影で視た部屋だ。
そして。
「うわっ!」
声を上げた有瀬くんの視線の先。
ロフトの手摺りに括った縄で首を吊った状態の女性の姿があった。ほつれたパーマのロングヘアが、簾のように蒼白い顔を覆っている。
「捕まえた」
これは私の術だ。
霊符で区切られた空間の中でならば、私が掴んだ念の発信者本人を手繰り寄せることができる。その霊の持つ、負の記憶と一緒に。
霊的な感覚の鋭い人なら、その光景は現実の階層に重なって視える。
ぶら下がった女の霊体から、特濃の念が湧き出てきた。次の瞬間には波濤となって、一気にこちらへ押し寄せてくる。
だけど私が纏った気は、それを難なく弾き返す。
「無駄だよ。この場の主導権は、完全に私が掌握した」
女の血走った目がぎょろりと私を睨んでいる。
『全部、ぜんぶ……めちゃくちゃにしてやる……』
有瀬くんが顔を強張らせた。
「怖……彼氏への想いを拗らせるとこんなふうになっちゃうんすね」
「いや、違う。私たちは根本から勘違いしてた。彼女は別に、この部屋の主の男のことが好きだったわけじゃないんだ」
「へっ? どゆこと?」
「きっと本人に訊いた方が早い」
私は女の霊に向き直る。
「さて、浄化を始めようか」
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