5-4 ハーレムの跡
淡い光が、暗闇を和らげる。意識が深層からとろとろと浮上する。
浅い
——すき、すき、すき……
——わたしが、いちばん、愛してる……
女の声だ。
——すき、すき、すき……
——それなのに、どうして?
薄く瞼を開ける。身体が重くて動かない。
意識だけが、幽体離脱のように私の肉体を離れて起き上がる。
そこは、見知らぬ誰かの部屋だった。
何もなかったはずのロフトの上の景観が一変している。
シングルサイズの低床ベッドに、毛足の長いラグ、壁際の小机には雰囲気のいいランプ。
恋人同士で過ごすのに良さそうな他人のプライベートスペースで、ちょっとどきりとしてしまう。
私は生まれながらの引き寄せ体質だ。
霊符で囲った
そうして地縛霊の未練を突き止め、解決の糸口を掴むのがいつものパターンなのである。
私の意識体が、ゆっくりと梯子を降りていく。
洋間には、テレビ、ローテーブルがある。壁際にはエレキギターと、鞄やジャケットのかけられたポールハンガー。いずれもモノトーンで男性的なデザインの。
そこに紛れるようにして、というか家具と重なる位置に、寝袋の上に横たわる派手な花柄Tシャツを着た金髪で長身の若い男……
私の視界は、閉ざされた扉をすり抜けて、キッチンを行き過ぎ。
洗面台の前に立つ。
棚には、さまざまなものがぎっしり置かれていた。何組もの基礎化粧品、ボディークリーム、マウスウォッシュや歯ブラシなんかも。
部屋の主のものに加えて、恐らく女のもの。それも明らかに一人分ではない。複数人の持ち物が、雑然と、無秩序に、それぞれ互いに頓着することなく隣り合っている。
——わたしが、いちばん愛してるのに……
——それなのにどうして、こんなことになったの?
並んだ化粧水の瓶の一つへ、視点の人物が手を伸ばそうとして、やめた。
鏡を見る。そこに映る、傷んだパーマの茶髪の女。
無表情ながら、激しい嫉妬に胸がきりきり締め付けられているのが分かった。
瞬きを一つ。
ぱっと脳裏に紛れ込む、白いイメージ。細い手首だ。幾筋ものリストカットの白っぽい痕のある。
同時に。
「んぐッッ……!」
誰かの呻き声で、私はハッと目を開けた。
低い天井。意識がロフトの上に戻っている。私はマット代わりの寝袋の上で、タオルケットを腹に掛けた状態で寝転がっていた。
周囲は、元通りのがらんどうだ。
「んがぁ……ッ」
声は下から聞こえる。
「……有瀬くん!」
私は跳ね起き、梯子から飛び降りるようにしてアシスタントの元へと駆け寄った。
彼は横たわったまま苦しそうに胸元を押さえている。その身体には黒っぽいモヤが纏わり付く。負の念だ。
私は九字を早切りする。モヤは一瞬で霧散する。だけど有瀬くんは苦悶の表情を浮かべたままだ。
「有瀬くん、落ち着いて。息を吸って、吐いて」
重たい上体を抱き起こし、彼の腹に手を当ててやる。
「うぅ……」
長いまつ毛が震えて、うっすらと目が開く。
「に、ちか、さ……」
「そう、ゆっくりでいい」
意外とがっしりした肩が呼吸に合わせて上下する。とくとくと、鼓動が伝わってくる。汗の滲んだ身体が温かい。
突如、カーテンのない窓から強烈な光が差し込んできた。
パチン!
一つ大きくラップ音が鳴り、不穏な気配が消え失せる。
有瀬くんがぱちりと大きく見開く。続けざまに瞬きを二度三度。
「……んぁっ?」
「大丈夫?」
瞳の焦点はしっかり合っている。強張っていたそれが、わずかに緩む。
「あー……何すかね、もうちょっとギュッてしてもらえたら、大丈夫な感じになるかもしんない」
思わず彼を突き放す。
「うん、もう大丈夫だね」
「痛てて……
「無事で良かった」
朝の眩い光の中、気を取り直してフローリングの床に腰を落ち着ける。
「前にも弐千佳さんから俺の方に、霊障来ちゃったことありましたよね」
「あの時はちょっと特殊ケースだったけど、気の繋がりが強くなれば十分あり得るよ。特に二人とも同じテリトリー内にいる状態だし」
私たち二人は気の相性がいい。私は陰で、有瀬くんは陽だ。正反対というより、対になる関係性。互いの足りない部分を補完し合って、満ち足りた円になるような。
つまり、気が連動すること自体は何らおかしくない。『器』たる私の受けたものは、彼へと伝わり得る。
しかし。
「私さっき、有瀬くんが感じたような息苦しさは全くなかったんだよね。だから私から有瀬くんに行ったんじゃなくて、有瀬くんがピンポイントで狙われて霊障を受けたってことだと思う」
「マジすか、なんでそんな——」
ピー! ピー! ピー!
キッチンの方から謎の電子音が鳴り響いてきて、意図せず心臓が跳ねた。
「……な、何の音?」
「あー、米炊けたっぽいっすね」
「なんだ炊飯器か」
「腹減ったし、朝メシにしましょ」
胆が太すぎるのでは。
有瀬くんはすぐに大量のおにぎりを作ってきた。しそとわかめの二種類ある。一つ一つがやたらと大きい。
寝汗がエアコンの風で冷えていた。温かいおにぎりがお腹に入ると、ホッと人心地つく。塩味が沁みた。
朝食を摂りつつ、私たちは改めて情報を交換する。
「明け方になって、負の念が濃くなったのは気付きましたよ。でも身体が金縛りに遭ったみたいで、一ミリも動かなくって。ロフトから誰か降りてくるのも分かったけど、あれ弐千佳さんじゃなかったってこと?」
「私自身が降りてきたのは、有瀬くんの呻き声が聞こえてからだよ。私が受け取った念の視点では、下に降りて洗面所まで行ってた」
「マジか」
視点の人物の嫉妬心が膨れ上がったタイミングで、有瀬くんが負の念に害された。
「洗面台に、何人か分のアメニティ用品が置いてあった。女物の化粧水とか、歯ブラシとかが、それぞれ何種類か」
「えっ? どゆこと? ここで共同生活してたみたいな?」
「いや、ロフトやリビングは明らかに男の一人暮らしの感じだった。定期的に泊まってく女がそれだけいたってことなんだと思うんだけど」
「えー何それ怖……すげえ話っすね。それで平気でいられる男のメンタルもやべえ」
「彼女、『私が一番愛してるのに』って言ってたよ。それで病んで自殺しちゃったのかもね」
何にしても、マトモな人間関係でないことは確かだ。
「じゃあ、俺が男だから攻撃された感じ? ヤリチンくんと間違われて? 超心外なんだけどー」
「まあ、大抵そういう線だろうね。霊が恨みを持つ相手に近い性質の人を襲うケースは結構あるよ」
「本当は男を殺したかったけど、自殺しちゃったの?」
「んー……そう訊かれると、現時点では何とも言えないね。情報が断片的すぎる」
有瀬くんがハッとした顔をする。
「もしかして、自殺に見せかけた殺人事件の可能性とかってあります? 男が彼女を邪魔に思って殺しちゃったとか。で、彼女は男を恨んでるっていう」
「警察がしっかり調べた上で自殺と判断してるわけだし、それはないと思うよ。だいたい複数の女を平気で出入りさせる男が、わざわざそのうちの一人を殺そうとするかな。楽しくよろしく自由に暮らしてるのに、敢えて事件になるようなことなんかしないんじゃないの」
「じゃあ他の女の犯行説」
「警察が気付くでしょ」
「んー、そしたらやっぱ、彼女自身がハーレム状態に耐えられなくなって、メンヘラ化して首吊ったのかー」
思い出す、白い手首のイメージ。
「……彼女、リストカット癖があったみたい。手首の傷が視えた」
「だったらまあ、自殺は間違いないっすね」
リストカットの末に首吊り。一見、矛盾はないように思えるけど、何か引っかかる気もする。
「しっかしそんだけ女子が自由に出入りしてたら、うっかり鉢合わせとかありそっすね。やべえ修羅場んなりそ。合鍵何本あったんだろ」
「合鍵……いや、合鍵なんて何本も作れないよ」
「えっ、そうなの?」
「賃貸物件の所有者は大家さんで、住人の安全性を確保する義務があるの。合鍵を作るには大家さんの許可がいる。勝手に作ったら契約違反になる可能性もあるんだよ」
「そっか。じゃあ自由に出入りって感じじゃなくて、男がいる時に来てたんかな」
私は首を捻る。
「例の彼女、男が仕事に行ってる最中に死んでたって話だったと思うんだけど」
「やっぱ勝手にたくさん合鍵作ってたんじゃね? ほら、昨日ここに戻ってきた時に聞こえた声も『おかえり』っつってたし」
「確かに、男の帰りを待ってるシチュエーションじゃないと『おかえり』にはならないか」
鍵については元請け経由で確認しよう、ということになった。
気分転換のため、表に駐めた車の中で一服する。住人の一人が一階の集合ポストから朝刊を取っていくのを横目に、深く煙を吸い込んでは吐き出す。
部屋に染み付いた念から分かることは限られる上、あまりにも主観的だ。
どのみち太陽の出ている時間帯には心霊現象は起きにくいので、昼間は物理的側面からの調査を進めていくしかない。
部屋に戻ると、有瀬くんが壁際でうずくまっていた。
「どうしたの?」
「あっ、弐千佳さん……ちょっとこれ……」
見ると、コンセントカバーが外れている。
「サーセン、スマホの充電器挿してたんすけど、コンセント抜く時にフタ外れちゃって」
「あぁ、貸して。嵌めるだけだから」
有瀬くんと交代して、違和感に気付く。
露出したコンセント台座のネジが緩んでいる。
頭をよぎる、メンヘラの文字。
「ちょっと待って」
私は荷物の中から、手のひらサイズの機器を取り出す。
「何すかそれ」
「盗聴器発見機」
「へっ?」
スイッチを入れ、アンテナをコンセントへ向ける。
ピーピーピーピー!と、即座にけたたましい電子音が鳴り響く。
「うわ……」
「えっえっ、何?」
私はスイッチをオフにし、小さく息をついた。
「このコンセントの内側に盗聴器がある」
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