5-3 彼氏の部屋で死んだ女

「第一発見者は彼氏、つまりこの部屋の主。仕事から戻ってきたら、彼女が首を吊って死んでいた。彼のアリバイに不自然な点はなく、事件性はなし」

「マジすか。やべー事件じゃないすか」

「いや……まあ、うん、彼氏にしたらね」


 言葉の綾よ。


「でもわざわざ彼氏んちで死ぬって激しいな。帰ったら彼女死んでるとか、トラウマんなりそ。なんでそんなことになっちゃったんすかね」

「少なくとも、彼氏の不在中に家に入れる間柄だったってことだよね。合鍵を持ってて、日常的にここへ来てたのかも」

「合鍵渡すって、相当信頼してる相手じゃないと無理っすよね。その関係を裏切るような何かがあったってことか……」

「それこそ彼女の霊がこの部屋に縛られてる理由なんだろうね。私たちは原因となる未練を突き止めて断ち切って、成仏させるなり祓うなりしてこの場を浄化しなきゃならない」

「了解でっす」


 あまりに軽い返事をしつつ、有瀬ありせくんはチャラい敬礼のポーズを決める。


「とりま掃除っすかね」

「そうだね。部屋じゅうの空気抜いて、水も流して。溜まったままの状態は良くない」


 悪いものを祓う準備として、掃除は大切である。

 古来、病の原因とされた『瘴気』とは、謂わば不浄な空気のことだ。自分の周りの空気を清浄に保つことで良い気が流れる。お寺や神社で日常的に掃除を行うのも、そのためだ。

 地縛霊による負の念の蔓延る場では、塵や埃を積もるままに滞留させたままにしておくと、悪いものの力を増幅させてしまいかねない。

 それゆえ除霊師が場の主導権を取るための下拵えとして、掃除が不可欠となる。


「まず、今ある念をざっと祓う」


 私は玄関を開け放ち、呪文を唱えつつ右手で結んだ刀印で素早く空中に格子を切った。簡易の九字切りだ。

 室内に溜まっていた雑多な念が、一斉に外へと出ていった。


 次に、二人で手分けして室内を掃除する。

 有瀬くんは意外と手際がいい。ロフトの上から順に埃を払い、ハンディクリーナーで塵を吸い、フローリングワイパーで仕上げる。


「さすが早いな」

「掃除はねー、適当にやると親父にガチギレされたんすよねー」


 子供のころはよく実家のお寺の手伝いをさせられていたらしい。

 ただ、彼自身の性格もあると思う。常に軽いノリでやっているように見えて、手を動かすことに一切の躊躇いも妥協もない。フットワークの良さは間違いなく彼の美点だろう。


 元々、新しくて綺麗な物件だった。バストイレや洗面台なども含め、十五分ほどでひと通りの掃除が終わる。


「じゃあ、仕上げに霊符を貼ろう」


 私は荷物から四枚の札を取り出した。私の気の性質に合わせて紋様の描かれた、特別製のものだ。それぞれ玄関扉と掃き出し窓の上、左右の壁に貼る。傷を付けないようにメンディングテープで。一番高い窓の上へは、上背のある有瀬くんに任せる。

 霊符で四方が囲まれると、部屋の内部の気の調子が穏やかになった。こうすることで簡易式の結界になり、また私自身の術の効果を上げることもできる。


「よし、準備完了」

「あーやっぱ落ち着くわー、弐千佳にちかさんの気」

「今回もいつも通りの手順で。有瀬くんも何か気付いたことがあったら教えて」

「了解ー」


 私たちは数日間をここで過ごす。できるだけ実際の入居者と同じような生活リズムで。

 そうすることで日常的に起きる心霊現象を捉えやすくなる。電気や水道を使わせてもらえるのも、このためだ。生活インフラにアクセスしてくる霊も結構いるのである。


 心霊現象の発生は圧倒的に夜間が多い。すなわち、黄昏時とかわたれ時の間。

 今回の物件も例に漏れず、住人の就寝中に起きると聞いている。


 カーテンのない窓の外では、太陽が沈みつつあった。まだしばらくは明るいだろう。


「よし、今のうちに夕飯行こうか」

「っすねー」



 表へと出た瞬間、茹だる空気と降り注ぐセミの声にわぁっと包まれた。

 外界はこんなにも生気に溢れている。扉一枚隔てただけで、まるで別世界だ。


 今回の現場は市内なので、よく見知った国道沿いで夕飯の店を探す。なるべく早く戻りたいので、遠出はできない。

 私と有瀬くんはカレーの全国チェーン店に入った。黄色い看板が目印の。


「この前もカレーじゃなかった?」

「でも夏って無性にカレー食いたくなんない?」

「それは分からなくもない」


 平日の夕方早めの時間帯。お客は私たちだけだ。スパイスの香り漂う店内は、ちょっと冷房が効きすぎている。


「野菜カレーの、辛さも量も普通で」

「俺はロースカツカレーのソーセージトッピングを、3辛でごはん大盛りで。あ、あとポテトサラダも!」

「3辛……行くね」

「暑い時こそ辛いもん食って汗かくべきでしょ」

「それにしたって限度があるよ」


 『限度』で思い出す。


「あ……そういえば、大黒だいこくジュニアから食事代を抑えろって言われてたんだった」

「えっ、マジすかサーセン。ジュニアって眼鏡の人だっけ。うわー、なんなら俺、自腹で出しますよ」

「いや、とりあえず大丈夫。トータルで見て後から考えよう」

「んじゃあ明日からは節約レシピにしないとー」


 有瀬くんをアシスタントに採用したばかりのころは、数日の滞在でわざわざ自炊するなんて、と思っていた。

 だけど、たくさん食べる人がいるなら自炊の方が合理的かもしれない。


 しばらくすると、頼んだ料理が運ばれてくる。

 真円の皿に盛られた私の野菜カレーは、ルーとライスが綺麗に半々で、インゲンの緑が映える。ジャガイモやニンジンなど大きめの具が嬉しい。

 有瀬くんは、てんこ盛りのソーセージトッピングロースカツカレーにテーブル備え付けの茶色い福神漬けをどかどかと載せた。そしてカツごとスプーンで大胆に掬った一口目を、思い切りよく頬張る。


「んー! うまいっ! ……辛ぁ! でももうちょい辛味調味料入れよっと」

「若いな……」


 私の方も、食べ進めるうちに汗が滲んできた。入店時には効きすぎだと感じた冷房が、適温に思えてくるほどに。

 二杯、三杯とお冷を注ぎ足して、食事を終えるころには確かに、体内の水分が循環した感覚があった。


 会計を済ませて外へと出ると、人肌みたいなぬるい湿気に触れる。どこかから虫の音が響いてきて、季節が少しずつ前へ進んでいることに気付く。

 事故物件に籠る時ほど、生きとし生けるものとしての時間の実感は大事だ。


 帰りの車の中、有瀬くんが神妙なトーンで言った。


「あのー、今回ってワンルームじゃないすか。おんなじ部屋に寝泊まりするの?」

「ロフトがあるでしょ。私は上で寝るから、有瀬くんは下を使って」

「あー、どのみちおんなじ空間すね」

「でもお互い姿は見えないと思うし、そんなに気にならないんじゃないかな。それよりも、私の受ける霊障が有瀬くんに影響しやすくなることの方が心配かも」

「それに関してはまあ、俺も気合い入れますけどね」

「私も有瀬くんの様子は気にしとくよ」


 一瞬の間。


「じゃあもう隣同士で寝ちゃう?」

「何を言っている?」


 程なく、現場に戻る。

 玄関の鍵を回して、扉を開ける。

 入ってすぐの壁を手探りで電気のスイッチを入れ、明かりを点ける。

 その時だった。

 ぞくり、と怖気おぞけが先に来て。


 ——……ぉぉおかえりぃぃ……


「……有瀬くん、今の聞こえた?」

「いやもうバッチリ聞こえちゃいましたよね」


 か細い女性の声だった。よほど霊的感覚が鋭敏でなければ捉えられないぐらいの声。

 一度は祓った念が、再び室内に湧き出している。


 そう、まるで、を待ち侘びていたかのように。


 有瀬くんが唸る。


「やべえこの部屋……一人暮らしでも幽霊の人が『おかえり』って言ってくれるんだ」

「ポジティブすぎる」


 こういう人こそ事故物件に住むに相応しいのではと、時々真剣に思う。

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