4-9 再生のとき
狭くて暗い場所に閉じ込められていた。自宅の物置の中だ。
まだ慣れない下腹部の痛みと、膣から吐き出される経血の不快感と、脈動するようなこめかみの圧迫感。
周囲には雑多な念がうぞうぞと集まってきていた。私の陰の気に引き寄せられているのだ。
これは私のためなのだと、父に言われた。
食事を運んでくる母も、ここから出してはくれなかった。
「
「倉庫の中の範囲のことだけ考えればいい。そこは弐千佳のテリトリーだ。何よりも安全なんだよ」
境界線を引く。
兄の言う通りにすれば安心だ。
「弐千佳」
いつの間にか、兄がすぐ隣に座っていた。薄暗闇の中、形の良い唇が美しい弧を描いている。
そっと肩を抱き寄せられた。
「やっと会えた。これからはずっと一緒だよ」
「ずっと、一緒?」
「そう、もう誰の邪魔も入らない。この中で、僕と弐千佳の二人っきりだ」
やけに心が穏やかだった。ついさっきまで、何かすごく辛いことがあった気がしたのに。
まぁ、いいか。辛いことなんか考えない方がいいに決まっている。
兄の肩に頭を預けた。髪を撫でてくれる指先が心地いい。
「もう僕の身体はなくなってしまったけど、こうして傍にいれば大丈夫。今度は弐千佳に僕を助けてほしい」
「私が兄さんを助ける?」
「そう。だって僕がこんなことになったのは、弐千佳のせいでしょ?」
「……うん」
そうだ。私は兄にひどいことをしてしまった。後悔の気持ちで胸の奥が痺れてくる。あの時は、助けない方を選んでしまったから。
「だからさ、弐千佳の身体を僕にくれないかな」
甘い声。甘い視線。
この身体を兄に。それは堪らなく甘美なことのように思える。解けて、混じり合って、私たちは本当の意味で一つになるのだ。きっとこれ以上なく幸せに違いない。
だけど。
「弐千佳の人生が欲しいんだ」
「……え?」
人生を?
——俺が人生預けたいのは、そういう弐千佳さんなんすよ。
心臓が、強く鼓動を打った。
濃い闇の中に、鮮烈な光が差し込んだ気がした。
そうだ、流されるな。思考を止めたら終わる。
「絶対大事にするよ」
——弐千佳さん自身が一番大事です。
思い出せ。
——俺、弐千佳さんのアシスタントなんで。
こんな私を頼りにしてくれる子がいる。
彼を放って、勝手なことはできない。
「兄さん、私も、大事なものがあるんだ」
「弐千佳?」
私は兄の手を振り解いて、立ち上がる。
手首に、何か巻き付いた。
負の念だ。
「弐千佳、どこに行くの」
低い声。濃い闇の中に沈む壱夜。
絡む視線。歪んだ表情。ヘドロのように凝った気を纏いながらも、今にも泣き出しそうで、苦しそうな。
喉の奥から、どうにか言葉を紡ぎ出す。
「ごめん」
私は一思いにその念を断ち切った。
そして前を向き、鎖された扉をこじ開けて——
「弐千佳さん!」
呼び声で、ハッと目を開けた。
有瀬くんが私の顔を覗き込んでいる。近い。
「良かったー! 大丈夫すか? 急に倒れるんで超ビビりましたよー」
「あっ、うん」
よく見れば、有瀬くんの腕の中だ。おかげで身体的な痛みは今ほとんどない。
だけど自分の内側に未だ異物感がある。
「有瀬くん……壱夜の魂、死んでなかった。危うく身体を乗っ取られるところだった」
「えっ⁈」
「まだ私の中にいる。ちゃんと片を付けなきゃ」
有瀬くんの手を借りて立ち上がる。
彼が離れると、身体の重みがずんと増す。私は思わず顔をしかめた。
「だっ、大丈夫なの?」
「問題ない。私を誰だと思ってるの」
正直やせ我慢もいいとこだ。
だけど、不敵に笑ってみせる。
最後までやりきらなければ。
今一度、呼吸を整えて気を練った。
そうするうちにも、内側では兄の魂がじわじわと侵食してくる。脈動する痛みが刻一刻と存在感を増し、骨盤や内臓さえもを苛む。中から無理やり乗っ取るつもりなのだろう。
——僕がこんなことになったのは、弐千佳のせいでしょ?
否定するつもりはない。
だけどもうこれ以上、言いなりにはならない。
「いいよ、兄さん。もう一度、何もかも受け入れてあげる」
私には、私の人生に対する責任と覚悟がある。それを放棄するわけにはいかない。
痺れた両手。それを胸の前で組み、印を結ぶ。
「臨、兵、」
心を靭く持て。
「闘、者、」
生きるための
「皆、陳、」
生きながらの
「列、在、」
他でもない、己の意志で。
「前」
前へ。
強く清浄な気が周囲に湧き立つ。持てる力の全てが、身体の内側から膨れ上がる。
電流のような衝撃が全身に迸る。膝ががくんと折れた。堪らずその場に崩れ落ちる。
群れを成す痛みの波。迫り上がる吐き気。明滅する視野。
いつもの比ではなかった。
激しい膨張と収縮を繰り返す子宮。とめどない排出衝動。どろりと膣から吐き出される、夥しい量の澱み。
何もかも、私の負うべきものだ。
全身が脈打っていた。血液が沸騰しているのではないかと思えるほど。脳の髄まで痛みに塗り潰されて、何かを考える余裕もない。
「弐千佳さん!」
ぐらり、傾いで霞む視界の端に、明るい金色が映り込む。
あぁ。
光だ。
無意識に伸ばした手を、力強く引かれた。
倒れ込む寸前、ふんわり包まれる。
「全部真正面から受け止める弐千佳さんはカッケェすけど……俺は更にその弐千佳さんを受け止める人やりますね」
急速に収束していく痛みと苦しさ。
残ったのは、快感にも似た排出衝動だけ。
私の内側にある魂は、既に浄化されつつある。
克ちつつある。
なぜだか、胸の奥が締め付けられた。
ぎゅっと閉じた瞳の中の闇。
実家の倉庫の暗闇を思い出す。
一人ぼっちで、ひどく心細かった。
——弐千佳、僕がここにいるからね。弐千佳は一人じゃないよ。
あの時、私の傍にいてくれたのは兄だけだったのだ。
いったいどれほど経ったのか。
「弐千佳さん、だいじょぶ?」
頭の上から優しい声が降ってくる。
私は口だけを動かす。
「……うん」
手を借りて、ふらつきながら立ち上がる。大きくて、温かい手。
もう大丈夫だ。自然とそう思えた。
有瀬くんが表情を強張らせたので、自分がひどい顔をしているのだと気付く。
何か言われる前に、私はさっと目元を拭った。短く息をつき、顎先を上げ、肩をすくめる。いつも通りの
「全部浄化できたよ」
「あっ……はい……」
有瀬くんの頬がかぁっと紅潮する。いや、このタイミングで?
「……あの、なんか、すんません……男に触られたりとか、ヤだったかもしんないのに」
「そんなことない。傍にいてくれてありがとう」
一人じゃない。今。
一人じゃなかった。あの時。
刻み付けられた傷痕は、既にどうしようもなく私の一部だ。痛みがあろうとなかろうと。
結界を解く。
古い壁や柱、タンスや布団は消え去り、新築同然に改装されたがらんどうの部屋だけが残る。
そして、壱夜の魂だったものは私の身体から浮き上がり、高く高く昇っていく。
さようなら、兄さん。
きらきら輝く光の粒子は、やがて白い天井を通過して、わずかの気配すらも消え去ってしまった。
一方、足元では有瀬くんがへたり込んで両手で顔を覆っている。
「うぅ、弐千佳さぁん……なんか、もう、限界超えたっすわ……」
「休憩にしよう」
私は彼の金髪の頭をぽんとひと撫でして、浴室へと向かった。
大量の澱みで汚れた夜用ナプキンを捨てて、シャワーを浴びて着替えると、びっくりするほど身体が軽くなっていた。
同時に、眠気と空腹感に襲われる。
祓い終えた二階の部屋の、窓から差し込む陽だまりの中でうとうとしていたら、ノックの音で起こされた。
「昼メシできましたよー」
「んー……うん」
ゆっくりと身体を伸ばして欠伸をすると、有瀬くんが吹き出した。
「なんか、猫みたいっすね弐千佳さん」
「……ゴールデンレトリバーに言われたくないよ」
「あっ! じゃあ犬猫クリーンサービスってコンビ名にしましょっか、俺と弐千佳さんで」
「何屋さんなの」
階下へと降りていく。リビングダイニングには、焼けたソースのいい匂いが漂っている。
「今日は焼きそばです」
「美味しそう」
向かい合わせでフローリングに正座して、一緒に手を合わせる。
「いただきます」
焼きそばはまだ温かかった。キャベツとにんじんと豚肉が入っている。シンプルだけど美味しい。
「焼きそばと言えば、そろそろ祭りの季節っすねー。屋台の焼きそばって、なんであんなに美味いんだろ」
「祭りの空気感でしょ」
「楽しいとやたら美味く感じたりしますしねー。そうだ弐千佳さん、今度一緒に祭り行こうよ。浴衣とか似合いそう」
「持ってないし、人混み苦手」
「えー」
夏祭りなんて、ついぞ行っていない。最後に行ったのは確か——
有瀬くんのシャツの花火柄を見て、思い出す。
あぁ、そうだ。家族で行った花火大会が最後だ。父がいて、母も生きていて、兄と私はまだ普通の兄妹みたいだった。
不意に、鼻の奥がつんとする。せっかく有瀬くんが作ってくれた焼きそばなのに、味が分からなくなってしまう。
「……ねぇ、うちの近場だとお祭りはどこでやるの?」
「えっ⁈ あっ! 調べときますっ!」
パァァァ……!
それこそ花火の開いたような笑顔だった。ぱたぱたと振られる尻尾も見える。
私らしくない。でも、悪くないはずだと信じられる。
どうあっても先へと続いてしまう道が、明るい光で照らされていて、きっと良かった。
食事を終え、二人で家じゅうの片付けをした。
荷物を纏めれば、すっかり元通りだ。
「今回も任務完了。お疲れさま」
「お疲れっしたー!」
こうして私たちはその一軒家を後にした。
玄関の鍵をかけ、振り仰いだ空は、どこまでも青く青く澄み渡っていた。
—#4 ホーム・スイートホーム 了—
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