4-8 圧倒的な光

 長く重い前髪の間から、白い頬と澱んだ瞳が覗く。

 力なく垂れた白い腕。纏う服すら白いのに、発する気は闇に染まり抜いていた。


 どう見ても過去の自分である。私は引いた。


「何あれ、貞子じゃん……」

「いやっ⁈ 貞子よりぜんぜん可愛いんで大丈夫っすよ!」

「えっ……そんなことないよ」


 有瀬くんのよく分からないフォローにより、ちょっとだけ緊張が緩んだ。


「最初、お兄さんとあの弐千佳にちかさんがダブって視えてたんすよね。何かなーと思って」

「だから不思議そうな顔してたんだ」


 あの時の有瀬くんの反応に合点がいく。


 今や亡霊は壱夜いちやではなく、頭から爪先まで丸ごとかつての私の姿だ。

 兄の好きなロングヘア、兄の好きな白いワンピース。全てが兄に染められていた、あのころの。

 現状、襲ってくる様子はなさそうだ。放っておいても、ただ地縛霊になるだけだろう。業務的にはよろしくないが。


「有瀬くんには初めからあの姿が視えてたってことは……私の気か。自分じゃ気付かないわけだよね。馴染みすぎてるから」


 恐らく。気の交わりを幾度となく重ねたことで、私の陰の気が壱夜の魂をじわじわ侵食していたのだろう。それも濃密な負の念を伴って。

 五年前、私と壱夜との間で起きた出来事により、私由来の念もまたこの場に焼き付いた。封印しきれなかったのはそのせいもあるかもしれない。そしてこの家の怨念と混ざり、ひどい呪いの場を作ってしまったのだろう。

 思えば、私が覗いた念の記憶も私視点だった。私自身の記憶を視せられていた。壱夜にとって都合のよい、美しい思い出を。


「お兄さんはどうなったんすか」

「まだ魂の核はギリギリ残ってるように感じるけど、もう自我すら保てなくなったみたい。きっと完全に消滅するのも時間の問題だよ」


 心が冷えていた。兄の破滅を望んでいたはずなのに、この虚しさは何だ。


「……有瀬くんは、話、どこから聞いてた?」

「えっ、まぁ、大体のことはなんとなく? 気を引っ張られた時に意識が戻ったんで」

「あぁ……」


 私はフローリングワイパーを有瀬くんに返した。彼の顔から視線を外したままで。


「ごめん、勝手に借りて」

「それはぜんぜんいっすけど」

「……できれば、知られたくなかったな」

「……すんません」

「有瀬くんが謝ることないよ。ごめんね、雇い主がこんなで」

「えっ、何言ってんすか!」


 有瀬くんの声がひときわ大きくなる。


「ぶっちゃけ、さっき弐千佳さんがなんかエロい感じで責められててちょっと興奮したんすけど」

「いやほんと知られたくなかったわ」

「でもそっから自力で拘束解いて形勢逆転したじゃないすか。そっちのがクッソ興奮しましたよ! 普通あの状況から挽回する⁈ いやーやべえもん見たわー!」

「はぁ」


 何に対する感想なの。


「えっと……私と兄の会話の中身は聞いてたんだよね?」

「はい」

「その上で?」

「その上でっすよ。なんつーか……いろいろ腑に落ちたっつーか。その上で、です」


 有瀬くんはただ穏やかに微笑んでいる。

 一方、過去の私の幻影は虚ろな目をして、無防備に手足を投げ出していた。自分で言うのも何だけど、唇だけが妙に艶かしく気怠げで、陰鬱な表情が嗜虐心をそそった。


「気を遣わなくていいよ。兄妹でなんて、やっぱり普通じゃないし、気持ち悪いでしょ。結局のところ、兄がああなったのも私の気質のせいなわけ。私が兄をおかしくしたと思う」

「いやいやいや、ちょっと待って!」


 ばーんと両手を広げる有瀬くん。


「俺を見てください! 超元気です!」

「……うん?」

「俺、弐千佳さんの傍にいると、それだけで調子いいんすよ!」

「うん……?」

「だから、お兄さんのことはお兄さん自身の問題でしょ。例え弐千佳さんがどんな気質でも、無理やり好きにしていい理由になんてなりませんって。そもそも特殊能力とかなくっても、男なんて女の人より力強えんだから」


 有瀬くんは少し怒っているみたいだった。


「お兄さんが闇堕ちしたのは自業自得みたいなもんでしょ。最初から最後まで、お兄さんが自力で悪いものを跳ね退けられなかっただけだ。だから! 絶対に! 弐千佳さんのせいじゃない!」


 まるで、視界にかかっていた霧が払拭されたような感覚だった。

 その言葉を都合よく、全て鵜呑みにすることはできない。するわけにはいかない。どんな背景や経緯があったとて、私の犯してしまった罪がある。兄から力を奪って見殺しにした、という。

 だけど。


「弐千佳さん、前に言ってたじゃないすか。『ちゃんと怨霊と向き合いたい』って。俺、ガキのころから痛いこととかキツいこととか逃げてばっかだったんで、すげえって思ったんすよ。俺みたいにヘラヘラしたテキトーなノリの奴に対しても、最初から説明とか超丁寧だったし」

「自覚あったんだ」

「でも『向き合う』って、相手がこっち向く気なかったらぜんぜん無理ゲーなわけじゃないすか。無理しすぎたら壊れちゃう。弐千佳さんは、自分が壊れる前に断ち切ったんすよね。弐千佳さん自身のことが一番大事です。間違ってない」


 有瀬くんの視線はどこまでも真っ直ぐだ。


「弐千佳さんて、本当はバチクソ強えのに、やたらと力を振るったりないでしょ。しっかり相手を見て、冷静に判断してるっていうか。俺が人生預けたいのは、そういう弐千佳さんなんすよ!」

「……そっ、か」


 何と返事をしたらいいのか分からなかった。頭が冷えて、目の奥に熱が湧く。

 そんなことを言われたら、感情任せに相手を殴り付けるような、みっともない姿を見せるわけにはいかないじゃない。


 その時、過去の『私』の放つ念が急に濃さを増した。兄の魂から完全に彼自身の気が消えた瞬間だった。

 『私』はゆらりと立ち上がる。一人分の姿では抱えきれないほどの闇を背負って。

 核となっているのは、兄の魂の抜け殻だ。もう拘束力なんてないはずなのに、囚われたままなのだ。


『助けて……』


 か細く漏れる懇願の声。その頬には涙が伝っている。

 胸が、引き千切れそうになった。

 私から兄への、処理しきれない呪いの込もった念だったのに。

 真に求めていたのは、救いだった。受け入れたくないものを平気なふりで受け入れようとして、じっと耐えていた。私はずっとあんな顔をしていたのか。

 古傷が痛む。でももう、目を背けたりしない。


「弐千佳さん、どうします?」

「決まってるでしょ、私は私の仕事をするだけだよ。有瀬くん、手伝ってくれる?」

「当然! 俺、弐千佳さんのアシスタントなんで!」


 気持ちがふわっと軽くなる。


 ——私は一人でも大丈夫だよ。


 先ほど兄に向かって、そんな啖呵を切ったばかりだけど。

 撤回しよう。

 私は一人じゃないから、大丈夫だ。


 改めて『私』と正面から向かい合う。いつも通りにリラックスして。


「さて、浄化を始めようか」


 それが私の生業なのだ。


 有瀬くんが私の隣に並び立つ。


「今回はどういう感じにします? 会話もできなさそうだけど」

「元々私から出たものだからね。ちゃんと私が回収するよ。だけど胎内に入れるにしても念が膨大すぎる。有瀬くん、軽く祓える? 念だけを斬ってくれればいいよ」

「了解っ!」


 制御不能となったドス黒いモヤが、脈絡のない動きで私たちの方へと溢れてくる。

 有瀬くんは確固とした陽の気を全身に漲らせ、フローリングワイパーを構えた。


「おりゃあっ!」


 綺麗なフルスイング。びゅんと鋭く空気を裂く音と共に、周囲の念が半円状に消滅する。

 自然体でこれなのだから、きちんと力の使い方を覚えたらとんでもないことになるだろう。

 その間、私は静かに呼吸を整えて、身体の中心で気を練っていた。分業できるのは助かる。これまでは何もかも一人でやっていたから。

 部屋じゅう充満していた粗方のモヤは、有瀬くんの手によって綺麗に祓われた。


「おっし、いっちょ上がりー!」

「ありがとう。さすが」


 私は『私』の眼前に立った。俯いた頬を両手で掬い上げ、虚ろな瞳を覗き込む。そこには、迷いのない目をした今の私が映っている。


「もう大丈夫だから」


 そうして私は、『私』を抱き締めた。


「ごめん」


 私が『私』を一番蔑ろにしていたのだ。

 痛かった。嫌だった。苦しかった。哀しくて、辛かった。

 私が無視してきたそれらの感情を、何もかも受け止める。


 『私』の両腕が私の背中に回る。

 『私』の身体が、私の身体に沈み込む。

 途端、胎内で何かが膨らんだかのような衝撃があった。

 それを痛みと認識するのに、一瞬を要した。

 凄まじい悪寒が背筋を這い上がり、気道を狭める。

 息が、できない。

 急激に視界が暗くなり、ぼやけてくる。

 手足が痺れ、腰に力が入らず、自分の体重を支えることも難しくなる。


「弐千佳さ——」


 意識が暗転していく。

 その瞬間、聞こえたのは。


 ——…………弐千佳……!


 深淵から響く呼び声だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る