4-7 呪詛返し

 私が十七歳の時、母親が死んだ。除霊中に受けた霊障が原因だった。

 父親は異能の力が弱まって既に第一線を退いており、主立った仕事は兄が継いでいた。

 私は母親の代わりに兄のサポートに付き、除霊業に携わるようになった。


 兄は昔から品行方正な優等生で、人当たりが良く、周囲からの評判も良かった。地味で根暗な私とは正反対に。


壱夜いちやくんなら、年若い兄妹二人でも大丈夫だろう』


 無量むりょうの親戚や馴染みの同業者からは、そんなお墨付きをもらった。


 元々シスコン気味の兄だった。数少ない私の友達にも細かく目を光らせていたし、男子が近づこうとすると強く牽制した。

 それはあくまで『兄』としての『妹』に対する愛ゆえなのだと、私は愚かに信じていたのだけど。


 始まりの日。美しい兄は甘く微笑んでこう言った。


『弐千佳、僕の言うことをよく聞いて。陰と陽、この二つが惹き合うのは自然なことなんだ。寄り添って結合することで、互いの足りないところを埋め合うことができる』


 髪を、頬を、唇を。あまりにも優しく撫でられた。


『僕が弐千佳を守ってあげる。悪いものが寄ってこないように』


 陰と陽の仕組みは理解していた。女が陰で、男が陽だ。無量家の女はとりわけ、陰の力が強い。

 この血族内において、男は女と交わることで陽の力を引き出す。これまでも近い間柄でそういうことが行われてきた。


 でも、そんなものは古い時代の話だと思っていた。

 近親相姦の禁忌インセスト・タブーは世の常識だ。『普通』じゃない私でも知っている。

 だけど。


『僕たちは血を分けた兄妹なんだから、相性は良いはずだよ』


 信じられなかった。兄はいったい、何を言っているのか。


『弐千佳、いい子だ。愛してるよ』


 その目に見つめられると、身動きが取れなくなった。

 他者の身体の自由を奪う念力眼。場合によっては対象とする相手の意識にまで働きかけ、思いのままに操ることができる。それが兄の異能だった。


『やめて、兄さん』『痛い』『ねぇ、許して、お願いだから』


 何度も懇願した。だけど、それが止むことはなかった。


『弐千佳は泣いても怒っても可愛いな』


 兄は毎回、異能の力で私を縛った。

 私が兄の意に介さないことをすると、更に手ひどく乱暴にされた。


『どうして分からないかなぁ。弐千佳のためにしてあげてることなのに』


 私の頬を張ったのと同じ手で、その頬の腫れを優しく撫でるような男だった。

 強制的に与えられる快楽はまるで麻薬のようで、同時に私の自尊心をひどく傷付けた。


 ——強すぎる陰の気はあらゆる負を引き付け、そのうつし身は器のごとくあらゆる負を溜め込んでしまう。


『なんかイライラするんだよね。弐千佳に寄ってくる負の念のせいかなぁ。駄目だろ、ちゃんと抑えないと』


 兄の持つ負の側面もまた、器たる私が引き付けているのだと理解した。気を交えるたびにそれが増長しているのだとも。


 ——負の感情は、誰しも持ち得るものだ。それ自体が悪というわけではない。


 悪いものじゃない。ちゃんと受け入れるべきだ。そう自分に言い聞かせた。

 私の気質がこうだから仕方ない。


 兄が私に何をしていたのか、父は勘付いていたと思う。勘付いていながら、黙認していた。

 兄は表面上、これまでと変わらず品行方正な優等生だった。私との交わりで力を付けたことで、ますますの信頼を得ていた。

 他に何のよすがも持たない私には、兄の『庇護』から逃れる術はなかった。


『弐千佳のためなんだよ』


 言うことさえ聞いていれば、兄は異常なほど優しかった。

 それが本当に愛なのだと、納得しようとしたこともあったけど。

 私たちは二人とも『区別して折り合うこと』を幼少期から叩き込まれた身だった。

 兄は私との結び付きを、表からは見えない領域に仕分けしていた。

 だから私も、境界線を引き、選別した。

 澱みの浄化が身に付いたのはこのためだ。


 冷静になれば、見えてくることもあった。

 何度も一緒に除霊の務めに当たるうち、私は自分が兄よりも上手く怨霊への対処ができるということに気付いた。


 ——お前は、当代では稀有なほどに異能の力が強い。

 ——自らの意思で制御しなさい。


 生まれ持った気質は仕方ない。

 だけど、喰らい尽くされてたまるか。


 本心を隠すことなど容易い。

 兄がに気付くことはなかった。私に対する偏執を甘言でコーティングして、籠絡したつもりでいたらしかった。

 兄はただ私の従順さを愛していたのだと思う。

 初めから、私のことなんか見てもいなかったのだから。




 今、私は五年ぶりに兄と対峙している。

 正確には、兄の魂と、だ。


『弐千佳、どうして髪切っちゃったの? しかも、そんな男みたいな格好して。僕は可愛い弐千佳の方が好きだよ』

「そう。嫌ってくれても別に構わない」

『ひどいなぁ。僕はこんなにも弐千佳のことを愛してるのに』


 甘えたような困り顔。耳朶をくすぐる声。

 虫酸が走る。

 兄はすぅっと笑みを消すと、倒れた有瀬くんに冷たい視線を投げた。


『で? そいつ何? さっき弐千佳のこと、べたべた触ってなかった?』

「私のアシスタントだよ。いい子なんだ」

『へぇ……気に入らないな』


 ドス黒い念が鋭い刃の形を取って、有瀬くんに向く。

 しかしそれは彼の身体に触れる前に、バチンと激しい音を立てて爆ぜた。私の防護結界が効いているのだ。


「彼は関係ない。手を出さないで」

『やれやれ。どこの馬の骨とも知れないガキが寄ってきてるなんて。やっぱり弐千佳には僕がついてないと駄目だよ』

「私、そんなに駄目かな」

『だって弐千佳は、すぐに悪いものを呼び寄せちゃうでしょ。いくら力を持ってても、自ら元凶になりかねない。まぁ、祓いの対象は見つけやすくて良かったけどね』


 冗談めかした口調。気の利いたジョークだとでも言うように。そうだ、こういう人だった。


「私が引き付けて、壱夜が祓う」

『そうだよ。それで僕たち上手くいってた』

「兄さん、活躍してたもんね。評判だった」

『だろ? 最高のパートナーだよ』

「でも」


 私は声のトーンを下げる。


「正直、私のお膳立てあってのことだったよね。一人じゃロクに祓えてなかったよ」

『え?』

「私が怨霊の念を吸収して弱体化させてたからこそ、相手に術が届いてたんだ。私がいないと駄目なのは兄さんの方だよ。一人じゃ何にもできないくせに」

『……急に何を言い出すの』

「事実を述べたまででしょ。まさか私がフォローしてたことにも気付かなかった?」

『弐千佳……どうして僕にそんな口の聞き方するの? 僕は哀しいよ』

「都合悪いからって問題すり替えるなよ」

『弐千佳ぁ……』


 ビリビリと、念が肌を焼いた。


『ちゃんと分からせてあげるからね。弐千佳には僕が必要なんだって』


 部屋じゅう蔓延る念という念が、一斉に私へと向かってくる。

 私はフローリングワイパーを拾い上げた。


「借りるよ、有瀬くん」


 有瀬くんの身体に貼った霊符と私の気が共鳴して、彼の純然たる陽の気が私の左腕に宿る。

 武器を握る右腕には、静かに燻る私自身の陰の気を纏わせる。

 一薙ぎで、迫り来る念を一掃した。


『他の男の力を借りるなよ!』


 壱夜が印を結ぶと、濃い念が触手のような形を取る。イソギンチャクのように湧き出した無数の黒い腕は、四方八方から私の四肢を絡め取ろうとする。

 それを薙ぎ払い、紙一重でかわしつつ、一歩を踏み込んで、兄の胴体に一撃を入れる。


『うぐッ……!』

「へぇ、意外と頑丈だな。強い怨霊を取り込んだだけのことはある」

『五月蝿いッ』


 瞬間的に激昂する壱夜。

 なおも念の触手が襲いくる。陽の気はそれらを的確に分解し、陰の気は受け止めて吸収する。

 負は私の中で正へと変換され、この身をしなやかに導いて次の重い一撃へと繋げる。

 切り裂く。打ち払う。穿うがち抜く。

 濃密なモヤを拓き、周囲に円を描きながら、次から次へと祓い去っていく。


 避けきれなかった一本が私の脚に巻き付いた。それはたちまち腰へ、腕へ、首へと全身を這い上がり、ねっとり締め付けてくる。

 次の瞬間、兄の顔が間近にあった。端正な面輪が、にたりと歪む。


『捕まえた。ちゃんと元通り、僕の可愛い弐千佳に戻してあげるからね』


 至近距離から瞳を覗き込まれる。触手から染み出した念が服の隙間から内側へ潜り、肌のあちこちをまさぐってくる。

 身体じゅうから兄の異能の力を注ぎ込まれる。かつての悪夢と同様に。

 気持ち悪いのといのが一緒くたに来る。声が漏れそうになるのを、ぐっと堪える。

 心は、凪いでいた。目を逸らすことなく、強い眼差しで見据え返す。


『……あ、れ?』


 突然、兄の表情が強張った。


『何、これ……』


 研ぎ澄ました私の気は、纏わり付く黒いモヤを突き破り、兄の魂の核をしっかりと捉えていた。


 逃がさない。


 兄の発する念は次第に収束していく。その霊体は縛られたように動きを止め、存在ごと揺らぎ始める。


『……あッ……さっきも、あのガキに使ってたな……なんで弐千佳が、僕の力を……ッ』

「私は『器』だからね。中に入ってきたものを選別して、自分のものにできるんだよ」

『な、に……?』


 今や私の手足を拘束するものはない。

 高く掲げたフローリングワイパーを、迷うことなく振り下ろす。身動きの取れない兄の霊体を、深く深く袈裟斬りに。


『……ぅぐッ』


 いい手応えだった。

 兄はロクな声も出せぬまま壁に背を打ち付ける。裂けた身から血の代わりに溢れ出るのは、澱みきった念だ。魂がもう一段弱まったのが分かった。


『や、やめろ……』

「『やめろ』? 面白いこと言うね。ぜんぜん笑えないけど」


 もう一度、いや二度三度と、得物を振るう。魂の削れる音がした。愉快な気分だった。

 私は膝をつき、兄と目線を合わせる。


「覚えてないみたいだから、教えてあげるよ。五年前のあの日、何が起きたのか——」


 あの日も兄は、私と気を交えた。私は澱みがひどくて気分が悪かったのに、いつも通りこちらの事情などお構いなしに。


 ——あんたたちの幸せのためだよ。


 ——弐千佳のためなんだよ。


 兄の魂が深く同調したのは、この家のお兄さんではなく、念だった。

 私を犯しながら、兄は見る間に堕ちていった。念力眼の力は暴走し、私を徹底的に締め上げた。気道を、心臓を。それが愛ゆえだと言わんばかりに。

 殺される、と思った。


「——だから、根こそぎ搾り取ったよ。私を縛り付けるあんたの異能ごとね」


 兄と瞳の焦点が合わなくなりつつあった。無理やり顎を持ち上げて、執拗に視線を


「空っぽになったあんたの魂は、簡単に闇に侵食されてに引き摺り込まれた。まだ魂は繋がってたから、助けようと思えば助けられたんだけどね」


 ——弐千佳のためなんだよ。


 動けなかった。いや、動かなかったのだ。

 このまま何もしなければ、私は解放される。そう思ってしまったから。


「……もう、終わりにしよう」


 ぼろぼろの兄を突き放し、見下ろす。


「ねぇ、兄さん。私は一人でも大丈夫だよ」


 胸の前で、印を結んでいく。

 臨、兵、闘、者……


 その時だった。


「弐千佳さん! 何やってんすか」


 ゆっくり振り返る。眠らせたはずのアシスタントが、半身を起こしていた。


「有瀬くん……術、解けたの?」

「だって、弐千佳さんが俺の気を引っ張ったから」


 有瀬くんは何事もなかったかのように霊符を剥がして立ち上がった。

 感心してしまう。つくづくタフな子だ。


「って、そんなこと今どうでもいいし! 弐千佳さん、さっきからいったい誰と戦ってるんすか!」

「誰って、説明したでしょ。私の兄だよ。この場を乗っ取って怨念を発し続けてた。早く終わらせなきゃ……」

「ちょっと待ってよ、何言ってんだよ」


 両肩を掴まれる。あらゆる感覚がすぅっと鎮静化……正常化する。


「俺にはあれが、弐千佳さんに見えます」

「……え?」

「今と雰囲気違うけど、髪長くて白いワンピースの人。弐千佳さんでしょ?」


 恐る恐る視線を向ける。

 ぐったりと壁にもたれかかる壱夜の姿が、になっている。

 こうして見ると、兄とずいぶん似ている。顔を半分隠す黒髪は胸の下辺りまである。あの白いワンピースは、兄のお気に入りだった——


「どういうこと……?」


 有瀬くんの言った通り。

 それは間違いなく、の姿だった。

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