4-6 愛と傀儡

 ——弐千佳にちか……弐千佳……


 夢とうつつのあわいで、何度か兄の声を聞いた。

 私を呼んでいる。

 向き合うべき時が来ている。


 完璧に主導権を握った、完璧な自分のテリトリーの中。

 目覚めの気分は悪くなかった。

 慣れないバッティングのせいで全身に軽い筋肉痛はあったものの、自分の身体の存在感が明瞭さを増したので、これはこれで良しとする。


「今日は顔色いっすねー」


 有瀬ありせくんにもそう言われたくらいだ。仕事中の息抜きに運動するのは意外とありかもしれない。


 朝食後、私はシャワーを浴びた。身体を隅々まで洗い流す、決まったルーティン。いつも通り、綺麗に洗濯した黒のツナギに袖を通す。

 心が落ち着いていた。

 もう腹は決まっている。


 今日は花火の柄のアロハシャツを来た有瀬くんが、武器代わりのフローリングワイパーを握り締めて言う。


「そろそろやっちゃいますか」

「うん、いい頃合いだ」

「呼び出せます?」

「たぶんね」

「やっぱり、お兄さんの霊なんすか?」

「間違いなく」


 部屋じゅうに私の気が満ちている。

 だからこそ兄の魂の存在感を認識できる。


「悪霊となった兄は、この家で心霊現象を起こすことで、私を呼び寄せたかったんだよ。家屋の取り壊しを邪魔して、他の除霊師たちを凶悪な念で追い返して……私がここに来るのを待ってた」

「マジで? お兄さんそんなガチギレしてんの? ちゃんと誤解だって言わなきゃ!」

「……それはもう無理だよ。残念だけど」


 自分の声は、いつも以上に無機質だ。


「この家の心霊現象が復活したのは三ヶ月前。有瀬くんが私のアシスタントになったのと同じ時期だ」

「へ?」

「私と兄の魂はまだ繋がってるらしい。私が有瀬くんを伴って術を使ったことで、反応したんだ。私たちの気が相性ぴったりで、互いに影響し始めたから。昨日の明け方の霊障は、私を通した有瀬くんへの攻撃だったんだよ」

「ん? つまり、どゆこと?」


 私は有瀬くんの肩に触れる。


「ごめん、必ず守るから。私の傍を離れないで」

「えっ……何それイケメン」


 有瀬くんがときめきの表情で私を見た、その刹那。

 蔓延る念の気配が、一気に濃さを増した。

 突如こめかみを圧迫するような頭痛と息苦しさに襲われる。


「くっ……」

「うぉっ……」


 洒落臭い真似を。

 私は霊符の作る十文字の中心に立ち、両腕を水平に伸ばして手のひらを壁へと向けた。この部屋を囲う境界線を、自らの気で上書きする。

 ほとばしる気が、バチバチと爆ぜる。

 そして私は胸の前で両手を組み合わせた。

 ぱちん。


コウ


 呪文を皮切りに、四角い空間は一変する。

 傷だらけの和だんす。その上にはガラスケース入りの市松人形。巣箱の形を模した木製の鳩時計。シミのある木の天井。くすんだ二重の円形蛍光灯。

 塗りの剥がれた壁。色褪せた重たいカーテン。閉まったままの雨戸。

 全体的に薄暗く、年号を二つくらい遡ったような空気が滞留している。

 ついでに、ひどい悪臭だ。


「……うわっ!」


 有瀬くんが飛び退いた。その足元には。

 敷きっぱなしの布団の上、腐敗の進んだ老婆の遺体と。

 寄り添うように横たわる、痩せた女の遺体と。

 そして少し離れた壁際、くずおれたままの姿勢で息絶えている男の遺体。

 よく見れば、絨毯のあちこちに黒く乾いた血がこびりついている。

 三人の身体からは無数のうじが湧き、どんどん床へと溢れ出す。


「ィイヤァァァ! 無理ィィィ!」

「幻影だよ」


 しがみついてくる有瀬くんを尻目に、印を結んだ指先を振るえば、蛆虫の形をした念はたちまち霧散した。

 かと思えば、今度は遺体がむくりと身を起こし、ずるずるこちらへ這い寄ってくる。


「生き返ったし!」

「いや死んでるよ」

「バイオハザードじゃん!」

「じゃあ物理でいけるんじゃないの」

「うぇぇ⁈ マジで⁈」


 私はフローリングワイパーを握る有瀬くんの拳に自分の手を添え、濃いめの陰の気を注ぎ込む。昨夜、練習した通りだ。


「集中して」

「アッはいっ!」


 私の気が呼び水となり、有瀬くんの拳が陽の気を纏い始めた。それは手にした得物にも波及する。

 エンジンさえ掛かればこちらのものだ。


「これで殴れるはず」

「マジすか」


 有瀬くんはフローリングワイパーを構え直す。

 立ち上がる男のゾンビ。

 キレのあるフォームで振り抜くバッター有瀬。

 シート取り付け部が鋭い角度で相手の頚部を直撃する。男性の頭はもげ、天井まで飛んでいった。


「ッヒャアァァッ⁈ ウッソマジかよ! ごめんなさいぃッ!」

「よく見て」

「……へっ?」


 首なし死体のような姿となったこの家の兄の霊体は、細かな光の粒子を放ちながら消失していく。

 家という『場』に縛り付けられていた彼の無念も、綺麗に断ち切れている。

 最後に消えた頭は、とても安らかな表情をしていた。


「有瀬くんの気は、弱い怨霊だったら接触インパクトと同時に未練ごと浄化する力がある。よく馴染んだ私のテリトリー内ならね」

「へー!」


 ふらふらと襲いかかってきた女の霊を、私は片手で弾いた。反動で、神経に響くような嫌な痛みが腕に走る。

 相手もまた、苦しそうな呻き声を上げた。それでもなお立ち上がり、こちらへ向かってこようとする。彼女自身の意思ではないのだろう。魂の気配はひどく弱々しい。


「無理やり操られてるんだ」 

「ひでえっすね。こんな状態なのに」


 人の死を踏みにじる行為だ。シンプルに怒りを覚える。

 早く解放してあげなきゃ。だけど私の術では、痛みを伴う方法しか取れない。


「彼女も、有瀬くんが祓ってあげて」

「任せといてください。一発で済ませます」


 もう一度フローリングワイパーを構えた有瀬くんは、躊躇うことなく彼女の首を刎ねた。無駄な力がどこにもない、真っ直ぐに届く気。鮮やかで見事だ。

 彼女もお兄さん同様にくびきから解放され、淡い微笑みすら浮かべながら消えていった。


「すごい」

「あざす!」


 残すは母親だけとなった。ただし、目に見える範囲では。

 腐敗のひどい老婆は、横たわったまま首だけを巡らせて、悲痛な表情で慟哭した。まるで子供たちがいなくなったことを嘆くかのように。


 有瀬くんが小さく口元を覆う。


「あ……」

「大丈夫。有瀬くんは二人を正しく導いた。あの人も同じところに送ってあげよう」

「……はい」


 母親の爛れた口から念仏めいた声が漏れる。救いを求める祈りにも似た。


「いや、ちょっと待って」


 どこからか澱んだ念が湧き出し、集結し、やがて一つの人型を形作る。

 老婆が、枯れ枝のような腕を伸ばして縋ろうとする。

 人型が、その手を取る。

 老婆が、金切り声を上げた。耳をつんざき、背筋を凍らせるほどの叫びを。痛み、恐怖、絶望。あらゆる負の感情がい交ぜとなった声を。


 気付けば彼女の姿はない。ただ、寝ていた布団にドス黒いシミがある。ひどく苦しんだ念の痕だ。

 一方の人型は、先ほどよりも色濃く、存在感を増している。


「吸収、した……?」

「あの家族の魂を支配して、この場の念を吸収して、力を得ていたんだ」


 三人の魂は、五年前より明らかに弱っていた。

 母親が宗教に傾倒したせいで狂ってしまった家だ。にとっては容易いことだっただろう。


「神にでも成り代わったつもりか」


 毒気を孕んだ念が肌に纏わり付く。

 私にとっては、同時に身体の芯を疼かせるもの。


『弐千佳……』


 記憶の淵から蘇ってくる。

 幻聴なんかじゃない。今まさに目の前から聞こえる。


「やっと出てきたね」


 一言では言い表しようもない感情が、私の中でぐるぐると渦を巻いている。今にも腹の底から飛び出しそうなそれを、抑えておくのが大変だ。


『弐千佳、会いたかったよ』


 人型の念がクリアな像を描き出す。

 黒髪に、中性的で端正な面差し。穏やかで柔らかな、天使のような微笑み。誰もが見惚れずにはいられない美しい男。その形の良い唇が酷薄に歪む。

 次の瞬間、凄まじい怨念が私たちを取り囲んだ。


『ねぇ弐千佳、その男、何?』

「うぁっ……」

「有瀬くん!」


 頭を抱えてうずくまった有瀬くんに向け、素早く九字を切る。


「大丈夫?」

「す、すんません……」


 粗方の念はどうにか散ったけど、なおも凶悪な念が彼に向かってじわじわ侵食してくる。

 いつも明るい陽の気で、どんな状況でもびくともしなかった有瀬くんが、苦しそうに歯を食い縛っている。


『弐千佳……僕の弐千佳……』


 吐息のような念が首筋を撫でる。

 すぅっと心が冷えた。


 有瀬くんが私の肩越しに亡霊を見て、目をしばたかせて首を傾げる。


「あ、あの……その人がお兄さん……?」

「そうだよ」

「えっ、でも、その人って……うッ……」


 言葉尻と入れ替わるように、小さな呻き声が漏れる。

 有瀬くんを苛む念が再び溢れ出す。祓っても祓っても、もはや防ぎきれない。

 彼は胸元を押さえ、口をぱくぱくさせている。顔はもう真っ青だ。悠長なことをしていられない。


「有瀬くん」


 両頬を支えて、至近距離から視線を


「弐、千佳さ……」


 途端、有瀬くんは意識を失い、崩れ落ちるように倒れ込んだ。仰向けの腹に霊符を貼れば、全身が結界で護られる。

 どうにか呼吸は落ち着いたようだ。

 本人の意識を強制的に落とせば霊障の影響下から逃せる、ということもあるけど。


「ごめん、有瀬くんには見せたくないんだ」


 その頬にかかる明るい金色の髪を、軽く撫でてやった。

 純粋で優しい彼に、見せるわけにはいかない。

 どうあっても消すことのできない、私の本当の罪を。


 私は立ち上がり、静かに振り返る。


「久しぶり、壱夜」

『弐千佳、今の念力眼は、僕の……?』


 因縁の相手を真正面に見据える。堕ちるところまで堕ちきった実兄。

 いま私の心を震わすのは、純然たる怒りの感情だ。自然、口角が上がった。


間違いなくトドメを刺してやるよ、クソ兄貴」

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