#4 ホーム・スイートホーム

4-1 テリトリー

 物心ついた時から、世界は黒いモヤだらけだった。

 あっちを見ても、こっちを見ても。

 特に人の多い場所はモヤが濃すぎて、まっすぐ歩くのも難しいぐらい。

 それを怖いと思い始めたのは、他のみんなにはモヤが見えていないと知った時だ。


 私の普通は、普通じゃない。


 モヤは、『念』というものらしかった。

 死んだ人や生きている人の、負の感情が集まったもの。


 親戚縁者を見ても、異能者の多い血筋だった。それどころか、『無量むりょう』といえば界隈では有名な除霊師の家系だった。

 だから力のコントロールのノウハウも代々伝わっていて、私は幼少時からそれを教え込まれた。


 まずは、正しく境界線を引くこと。


「区別を覚えなさい。何が一般的に見えるもので、何が特別に視えるものなのか」


 正しく選ぶこと。


「何が必要で、何がそうでないのか。負の感情は誰しも持ち得るものだ。それ自体が悪というわけではないということを、忘れぬよう」


 そして決して目を背けず、正しく受け止めること。


「お前は、当代では稀有なほどに異能の力が強い。強すぎる陰の気はあらゆる負を引き付け、そのうつし身は器のごとくあらゆる負を溜め込んでしまう。それを否定せず受け容れて、自らの意思で制御しなさい」


 十の歳に初潮を迎えてから、たびたび気が乱れやすくなった。自意識のコントロールが難しくなり、学校も欠席せざるを得ないほどに。

 あまりにひどい状態の時は、霊符の結界を施した庭の倉庫に閉じ込められた。念を身体に溜め込みすぎると、澱みを生んで周囲に害悪を撒き散らしかねない。私という存在自体が危険だからだ。

 ゆえに、強制的にでも身に叩き込む必要があった。


 父は厳しかった。母は優しかったけど、父に逆らうようなことはしなかった。


 境界線を引かなければ。

 ちゃんと選び取って、受け止めなければ。

 負の感情は、悪いものじゃない。


 私がこんな気質だから仕方ない。


 現世うつしよから切り離されたような、とざされた空間の中。最初の頃はよく、自家中毒的に己の陰の気に苛まれた。

 どうしようもない孤独と恐怖から救ってくれたのは、二つ上の兄・壱夜いちやだった。


弐千佳にちか、僕がここにいるからね。弐千佳は一人じゃないよ」


 扉の外から聞こえる兄の声を、まるで命綱のように感じた。


「倉庫の中の範囲のことだけ考えればいい。そこは弐千佳のテリトリーだ。何よりも安全なんだよ」


 私が区切られた一定の空間の気を自在に操れるようになったのは、間違いなく兄のおかげだろう。


 兄は美しい人だった。

 中性的で端正な面差しに、すっと伸びた背筋が凛々しい。

 品行方正、成績優秀。兄の周りにはいつも人がいた。

 あの目に見つめられると、頭の芯まで痺れたように惚けてしまう。きっと誰もがそうだったはずだ。


「弐千佳のことは僕が守るよ」


 みんなに愛される兄が、私を可愛がってくれる。それがとても誇らしかった。

 例え月に数日間、狭くて暗い場所に閉じ込められる生活でも、そこで兄を独占できることがただただ嬉しかった。




 微睡の中に、香ばしい匂いが滑り込んでくる。食欲をそそる匂いだ。

 じゅうじゅうと、熱したフライパンの上で何かが焼けるような音もかすかに聞こえてくる。ベーコンかウインナーに違いない。


 死んだ母を思い出す。

 休日はゆっくり起きて、ぼんやりしながら母の作った朝ごはんを食べるのが通例だった。

 異能のせいで一般的とは言えないこともあったけど、当たり前みたいな幸せだってあったのだ。

 そろそろ起きた方がいいのかもしれない。だけどもう少し寝坊したい。


 夢とうつつを行ったり来たりのふわふわした意識は、ノックの硬い音によって遮られた。


「弐千佳さーん、おはよーございまーす! 朝メシできたんすけどー」


 若い男の声で、急速に覚醒する。

 瞼を開いて見上げた天井は、いつものアパートの一室だ。私が悪霊を祓った後そのまま借りて住んでいる、元事故物件の2LDK。


 私はもぞもぞとベッドを這い出した。肩からずり落ちたキャミソールのストラップを直し、パーカーをしっかり着込んでから、自室の扉を開ける。


「……おはよ」

「おはよっす!」


 満面の笑みの有瀬ありせくんである。今日は可愛いパステルカラーのタイダイ染めのTシャツ姿だ。


 昨夜は、彼をうちに泊めていたんだった。


 小さなテーブルの上には、二人分の朝食が並んでいた。トーストとベーコンとスクランブルエッグ。

 ベーコンの焼けた匂いが辺りに漂っていて、空腹感を煽る。私はさっと顔だけ洗って、有瀬くんの対面に座った。リサイクルショップで買った格安ダイニングセットの一対の椅子が、いま初めてそのポテンシャルを発揮していた。


 同時に手を合わせ、声を揃える。


「いただきます」


 きつね色のトーストの上では、いい具合にマーガリンが溶けている。ケチャップの添えられた卵はふわふわで、ベーコンはカリカリ。何もかもが良い塩梅だ。


「昨夜は大丈夫だった?」

「あーはい、全然っす。ぶっちゃけドキドキして寝付きは悪かったんすけど」

「やっぱりあの気の濃さだとまだ慣れないか」

「いやいや、そうじゃなくて。だってここ、弐千佳さんちなんすよ? 弐千佳さんちにお泊まりなんすよ? 一応ね、心の準備をしとかないとと思って」

「心の準備って何の」

「えっ、ほら……夜のレッスン的な?」

「いや何もないわ」

「えー」


 有瀬くんにはもう一つの洋間を使ってもらった。壁の四方には霊符。私の気を、平常の仕事の時よりも濃く張り巡らせてある。

 その中で一晩過ごせば、気のバランスを取る練習になるかと思ったのだ。これまで、彼が夜じゅう私のテリトリー内に留まっていたことはなかったから。

 つまり、指導の一環なのである。


 ただ、言われてみると確かに、自宅に泊めるのは少し迂闊だったかもしれない。

 有瀬くんをアシスタントに採用して早三ヶ月。これまで何度も事故物件で一緒に寝泊まりしたせいで、感覚が麻痺していた。


「依頼の案件の時とかもそうなんすけど、なんか落ち着くんすよねー。あの弐千佳さんの作った空間」

「それなら良かった」


 互いの気の相性が良い。もはや確信に近い事実を、敢えて口にはしない。


 昨夜、気を整えるのに有効な呼吸の仕方や陰陽の理屈も教えたけど、そもそも感覚的にざっくり把握はしているようだった。

 その割に、あの悪霊にダメージを与えたような強い陽の力は、どうやっても意識的には出せなかった。

 彼の場合、実地で経験を積んだ方が良さそうである。


「あっそうだ、キッチンに置きっぱだったビールの空き缶、勝手に片しましたんで」

「え、ごめん、ありがとう」

「あと、トイレにすげえ積んであるトイレットペーパーの芯って、捨てていいやつ?」

「あー……あれね、今ちょうど記録更新中なんだよね」

「何その競技! 超ウケる!」


 有瀬くんは膝を叩いて笑っている。

 思わずムッとする。おかしな一面を見られてしまった。私のイメージが崩れる。


「なんかイメージ通りっすよね、弐千佳さんて」

「は?」


 聞き捨てならない。


「でもそーゆーとこがいいんすよー」

「いや、どういうとこが?」

「完全無欠じゃないとこが」

「何それ、褒めてるの? 貶してるの?」

「えー、どうとも言えねえけど、俺は好きっすね」

「はぁ」


 おかしなものだな、と思う。自分の私的領域に他人が入ってきたら、もっと嫌な気持ちになるかと思っていたのに。

 しかし、だいぶ年下の男子大学生に身の回りの世話をさせるアラサー女は、どう考えてもアウトだろう。

 常に自分のペースを保ち、誰に掻き乱されることもなく、負うべき生業を粛々と負う。その覚悟は決めているつもりだった。


 朝食の片付けが終わると、それぞれに出かける支度をした。

 私は新規案件の連絡を受けたため、大黒だいこく不動産へ。

 有瀬くんは一つだけ残っている授業で大学へ。


「依頼内容、また教えてください。バイト先に連絡してシフト調整してもらうんで」

「了解、いつも悪いね」


 家を出るのも同じタイミングになった。


「いってきまーす!」

「自分ちじゃないでしょ」

「言いたいんすよー。普段一人暮らしで、言う相手いないんで」


 一泊分の荷物を抱えた有瀬くんは、へへ、と八重歯を覗かせた。


 アパートの下で有瀬くんと別れ、私は車でいつもの道を走る。やっといつもの日常が戻ってきた気分だ。

 今日ここまでタバコを吸っていないことに、ふと気付く。吸わずに済むならそれでいいだろう。


 だけど、これから受ける依頼が私にとって大きな転換点になることを、この時の私はまだ知らなかった。

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