3-9 良かった
割れた鏡が降り注ぐのを避けなければどうなるかなんて、子供でも知っている。
だけど、私はその場からわずかたりとも動かずに、ただただ突っ立っていた。
「
同時に、床へと押し倒される。背中に衝撃を受け、潰れた肺から息が漏れた。
鏡の破片の叩き付けられるけたたましい音が、聴覚神経に突き刺さった。
思わず身をすくませると、背中に回った腕にぎゅっと力が入る。苦しい。
すぐ鼻先にあるのは硬い感触の有瀬くんの肩口。私は今、彼に抱き締められた状態で掛け布団を被って横たわっているのだと、ようやく理解する。
ほんの一分もない時間のはずだった。だけどまるで永遠のように感じた。おかしくなった耳に届くのは、輪郭も覚束ないノイズばかりだ。
ただ、可能な限り詰めているらしい有瀬くんの吐息が、ほわほわと温かくてくすぐったい。知らない柔軟剤の匂いがする。密着した身体に伝わってくる心音が、少しずつ速度を増しているのが分かった。
身じろぎをする。拘束が緩んだ。熱が離れて軽くなる。後頭部から大きな手がそっと引き抜かれる。頭を打たないように有瀬くんが守ってくれていたのだと、そこで初めて知った。
「……無事?」
「あ、うん……」
浮いた布団の隙間から光が差し込んでくる。
至近距離。真面目な表情で見下ろされるので、私はそれとなく目を逸らした。
「もう良さげっすかね」
有瀬くんはゆっくり身を起こしつつ、慎重に布団の覆いを捲っていく。
周囲には砕けた鏡が散乱していた。直に浴びていたら、ただでは済まなかったに違いない。
私もまた起き上がった。差し出された熱っぽい手を借りて。ぐらぐらと、目眩がしていた。
「怪我とか、大丈夫?」
「うん、まぁ」
「良かった。弐千佳さん、動けなくなってたみたいだから」
何の返事もできない。
首を絞められたダメージが響いたとか、術で力を使いすぎたせいだとか、理由なんか付けようと思えばいくらでも付けられるのに。
「なんか、すんません。咄嗟に弐千佳さんのお兄さん投げちゃった」
「……あれは単に霊が
「そっか、なら良かった。いや良かったっつーのも変だけど。お兄さんがあんなひでえことするわけないもんね」
喉の奥が詰まった。
記憶の中の兄は、いつまで経っても優しく微笑んでいる。いっそ泣きたくなるくらいに。
正直、有瀬くんがあの亡霊を引き剥がしてくれて良かった。私にはとてもできなかったから。
何から説明すべきなのか、判断できずに小さく溜め息だけをつく。
俯いた頭に、ぽん、と手を乗せられた。
途端、蘇る声。
——いい子だ、弐千佳。
弾かれたように顔を上げた。
有瀬くんは即座に手を離し、降参みたいなポーズを取る。
「すんません、調子乗りましたっ」
私には首を振った。
心の中がめちゃくちゃだ。あまりにも愕然としてしまう。
兄・
いや、それよりも。
自分の身に危険が迫っているのに、心底どうでもいいと思ってしまったことに対して。
今すぐ独りになりたい。考えることを放棄したい。
溺れるくらい酒を呑んで、最低最悪の気分になれたらいい。
ふらふらと彷徨いかけた思考は、有瀬くんの困ったような声で引き戻される。
「あのー、この部屋の掃除ってどうしたらいっすかね」
「えぇと……軍手と新聞紙、上の部屋にあるから……完全には無理でも、片付けられるだけは片付けなきゃね」
「了解でっす」
片付けと掃除をして、
……あぁ、なんて面倒くさいんだろう。
「弐千佳さんは休んでていっすよ」
「いや……」
「ここ危ないし、あれだけすげえ技使った後だし、ほんと休んでください。こういう時こそアシスタントの出番でしょ。俺、そんくらいしかできないんで。メシとか掃除要員ね」
その
でも。
「有瀬くん、さ」
「ん?」
この子、雑用だけに使っていい人材じゃない。
霊的な感覚が鋭い。精神がとんでもなく靭い。どれほど濃い負の念の中にいても、陽の気を発することができる。
闇を引きずる私とは正反対に。
先ほど彼は怨霊に対して物理的なアクションを取ったように見えたけど、あれは自分自身に強い陽の気を纏わせていたから可能だったのだ。
「一度、ちゃんと誰かに弟子入りした方がいいよ。ほら、お父さんとか。有名な法力使いなんでしょ」
「えっ、どゆこと?」
「さっき相手を投げた時、無意識だったよね。恐ろしく強い陽の気を出してた」
「陽の気? 陽気なだけが俺の取り柄なのは間違いないっすね」
「そういうことじゃない。自分の気の扱い方を、しっかり基礎から学んだ方がいいって言ってるんだよ。そしたら私なんかのアシスタントじゃなくて、自分で除霊の仕事をできるようになるかも」
「んー……よく分かんないけど」
有瀬くんはなぜか哀しげな顔をした。
「俺、クビってこと?」
「クビとかじゃないよ。ただ、勿体ないからさ。それだけのポテンシャルがあるのに、私なんかの下で雑用やるのは」
「『私なんか』?」
ゴールデンレトリバーがこてんと首を傾げる。
「何言ってんすか。じゃあ弐千佳さんが教えてくださいよ、気の扱い方。どうせなら俺、弐千佳さんに教えてもらいたいんで」
「いや……」
そんな責任を負えるほど、私はできた人間じゃない。
他人に何かを与えるなんて、私にはとても縁遠いことだ。
「あっ、授業料的なやつ? マジで何でもやりますよ俺。なんなら弐千佳さんちに住み込みで掃除とか料理とか全部やるんで!」
「……は?」
「他にも買い出しとかマッサージとか、言うこと何でも聞きますし」
「えっ、ちょっ、何、怖いんだけど」
マッサージて。
「だから俺を捨てないで」
「そんな話してないでしょ」
「何なら奴隷みたいに使ってもらっちゃっていいんで」
「有瀬くんにプライドはないの?」
「あるように見えます⁈」
「自信満々に言わないでくれる⁈」
「だってぇ……弐千佳さぁん」
甘えた声を出すな。仔犬みたいな目で見つめるな。
あぁもう、面倒くさい。
思わず、考えることを放棄した。私、何に悩んでたんだっけ。
「とりあえず、さっさと片付けしようか」
きっとそれが一番簡単な選択肢だった。
割れた鏡で散らかった401号室、自分たちが寝泊まりした501号室と502号室、そして一階の調理室。
いつもの賃貸物件とは違い、除霊後の清掃にやたらと手間がかかる。可能な限りの片付けが終わるころには、すっかり夜になっていた。
大黒不動産に電話で業務の完了報告をし、オーナーに来てもらって現場確認と経緯を説明した後、荷物を綺麗に纏めた。
手足さえ動かせば、いずれ仕事は終わるものだ。そうして私たちは『HOTELニューリゾート』を後にした。
「あー、疲れたー!」
「お疲れさま。サービスエリアで何か食べようか」
「っすねー」
帰りの車内は、緩慢な空気で満ちていた。
インターへ続くカーブをぐるりと回ると、遠心力で飛んでいきそうな心地だ。
有瀬くんを鍛えるのか、あるいは住み込みで家事をさせるのか。考える気力は、今はない。
だけど、何か大事なことを忘れている気がした。
料金ゲートを通る。ETC車載器がピッと反応する。
「あ」
「ん?」
思い出した。
「有瀬くん、あのさ」
「はい」
「今日は助けてくれてありがとう」
「へっ?」
「ちゃんとお礼を言ってなかったから」
「えー! そんなんぜんぜんいいですって!」
「そういうわけには」
命を救われてしまった。ETCで精算するようには、簡単に清算できない大きな借りだ。
……こういう発想をしてしまう自分を、本当にろくでもないと感じる。
塗り替え方も分からない、辺りの闇の濃さばかりが目に付いて、ちょっと途方に暮れてしまう。
合流地点へと差しかかる。本線を走る車の流れを見ながら、アクセルを踏み込む。
加速していくエンジン音の中に、有瀬くんの呟きが紛れる。
「弐千佳さんが無事で、ほんと良かったです」
良かった、か。
進行方向に点々と続く赤いテールランプが、淡く滲んでいる。どこまで延びていくのか、果ても知れない。
私はただ前を向き、何事もなかったかのように高速道路の流れへ合流した。
—#3 殺人ラブホテル・了—
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