3-8 逆鱗

 有瀬ありせくんが大混乱している。


「へっ、お兄さん⁈ この方が弐千佳にちかさんの? マジで? なんで今ここに? どういうことすか⁈」

「鏡の力、だろうけど」


 夢の中で、自分の鏡像と対面した。恐らくその時に心の中を覗かれていたのだ。

 カラクリは理解できる。だからこそ動揺した。

 心の奥底に隠していたものが暴かれている、ということに。


 兄・壱夜いちやの姿をした何者かは、凄絶なまでに美しい笑みを浮かべた。


『弐千佳、会いたかったよ』


 これは偽物だ。そうと分かってはいても、身体が凍り付いたみたいに動かない。

 蛇のような視線が。頭の天辺から爪先まで、凄まじい怖気おぞけが這っていく。


『いい子だ、弐千佳』


 壱夜の手が伸びてきて、私の髪を撫でた。温度はないが、ぞくりと身体の芯が揺さぶられた。

 身じろぎひとつできない。マトモな呼吸すらも。


「うぉっ……」


 視界の端で有瀬くんがうずくまった。その大柄な身体に念が巻き付いている。

 だから、自分が首を絞められているのだと気付くのに、一瞬遅れた。


『弐千佳』


 敢えなく膝から崩れ落ちる。足腰に力が入らない。優しく横たえられて、組み敷かれて、更に気道を潰される。

 視界にノイズがかかる。その向こうで、壱夜は艶然と笑っていた。


『弐千佳ぁ……』


 酸素を求める心臓が暴れている。目の前がチカチカ激しく明滅し、意識が朦朧とする。

 その時。


「あーッ! クソがぁッ!」


 有瀬くんが吠える声。


「おいバカか! 離せよ!」


 急に、喉が圧迫から解放された。

 咽せ込んで、涙が滲む。


「うらぁッ!」


 見れば、すっかり念を振り払った有瀬くんが兄の形をしたモノの片腕を取り、関節を極めつつ回し投げ、床に叩き付けていた。

 物理で。


 不意に、彼が以前何気なく発した言葉を思い出す。


 ——俺、自分が痛いのもヤだし、誰かに技かけるのもヤだったんすよねー。


「ふざっけんなテメェ! 弐千佳さんに何しやがんだ! 兄貴か何か知らねぇけどさ!」


 これまでに聞いたこともない荒い口調で怒気を吐く有瀬くんは。

 淡く輝く光を全身に帯びていて。

 今この場において唯一、純然たる陽の気を発していた。


「弐千佳さん、だいじょぶ?」

「あ、うん……」


 そっと抱き起こされる。大きな手で触れられたところから、痛みや苦しさが消えていく。ついでに削られた気も充填された感じがした。支えられて、どうにか立ち上がる。


『な、何なの、その男……なんで平気で動いてンのよ……』


 ベッドの上では、なぜか女が倒れて呻いていた。直接の攻撃も受けていないのに。


 床に横たわって動かない壱夜は——今や別の姿に変わっている。

 知らない男。いや、微睡の中で見た幻影で、彼女の首を絞めていた男だ。つまり彼氏。


 女が、ほうほうのていで男に縋り付いた。


『ちょ、ちょっと、しっかりしてよ! 早く起きてっ!』


 言われた通りに身を起こした男は、えらく虚ろな表情だった。まるで傀儡のような。


『もうダメね、電池切れだわ。また男の魂が要る』


 私は息を呑んだ。


「……彼氏の魂の電池にするために、男の人たちを殺したの?」

『そうよ、やっと気付いた?』


 女がにたりと笑う。

 この騒々しい鏡張りの部屋にいると魂に障るのは、彼氏の方だったのだ。


『あたし、カレと一つになったのよ。二人で静かに過ごしてたの。でもここに吸い上げられた時に、カレの魂がひどく弱っちゃったンだ。だからどうしても電池を補充する必要があったってワケ』

「無理やり道連れにしたんだから、そりゃ弱いでしょうよ」

『別にいいでしょ? あたしがずうっと側にいて守ってあげればいいンだから』


 ということは。


「つまり、あなたが彼氏の側から離れると不味いんだね。だから天井の鏡の位置からロクに動くこともできなかった。辛うじて気の流れに乗って連れて行ける上の部屋で、獲物を待ち構えるしかなかったのか」

『そうよ』


 ようやく全てが繋がった。

 彼女が固執していたのは、部屋ではなくて彼氏だったのだ。


「……そもそも浮気した男がクズでしょ」

『はぁッ? 違うわよッ! 泥棒猫にそそのかされただけよッ!』

「そんなこと、もうどうだっていい。あなたのせいで何人の人生が狂ったと思ってるの」

『うっさい! 知らないわよッ! あたし悪くないもん!』


 この期に及んで他人のせいにするのか。


「身勝手だね。情状酌量の余地もない」

『何よあんた、あたしを裁こうって言うの?』

「そんなんじゃないよ。ただの因果応報だ。自分の行いと同じだけのものが跳ね返ってくる。鏡に潜んでたんなら、それが世の道理だって分かるでしょ」


 本当は臓腑が煮えくり返っていた。だけど、それすらも表には出したくなかった。

 幸い、これは生業だから。

 依頼を受けた、果たすべきことだから。


「私は私の仕事をする。それだけだ」


 自分のペースを乱すな。


 改めて、身体の中心で気を練る。壁に貼った霊符が呼応する。

 バチバチと、怨霊たちの周りでラップ音が鳴る。


『うっ……』

『ぐぁっ……』


 男女二人の霊が同時に声を漏らす。

 かと思えば、男の方の身体が散り散りに崩れ、消滅した。

 女がヒステリックに叫ぶ。


『いやぁッ、何よこれェ! 痛いッ! どうしてあたしまで⁈』

「さっき、有瀬くんが彼に技を決めた時もそうだったでしょ。ダメージを共有してるんだ。あなたと彼が一つだったっていう確かな証拠だよ、良かったね」

『うぅ……』

「へっ? さっきの俺の、効いてたの?」

「そうだよ。おかげで助かった」

「えへへ、よく分かんないけど」


 八重歯を見せてはにかむ有瀬くんの纏う気は、やはり信じられないほど善良で清浄だった。


『もう、何なの、カレも消されたし……最悪よ、めちゃくちゃだわ……最悪ッ!』


 突如、彼女の放つ念が強烈に膨れ上がり、波濤となって打ち付けてくる。恐らく、内包していたものを一気に放出したのだろう。


『何よぉッ! あたしはただ好きな人と一緒にいたかっただけなのにッ!』

「うぁっ……」


 再び頭を抱えて声を漏らしたのは、我がアシスタントだ。


「有瀬くん!」


 私は彼を庇うように立ち、咄嗟に結んだ印で念の塊を弾いた。こちらにも相当な反動があったが、問題じゃない。

 逆流していく念に自分の気を混ぜ込む。女の顔が引き攣ったのが分かった。


 そこへ更に、言い放つ。


バク


 爆発的に気が膨れ上がる。女の霊は跳ね飛ばされ、霊気の流れに乗って天井の鏡に張り付き、潰れたカエルのように呻いた。

 私はそれをまっすぐに見上げる。


「さて、浄化を始めようか」


 ツナギのポケットから取り出したのは、五本のダーツだ。それらを真上へと投擲する。私の気を纏った針は、女の四肢と額を正確に穿つ。


『うギャァァァァ!』


 汚い悲鳴。下手な抵抗をしなければ、苦しまずに逝けたものを。


 私は胸の前で九字を切り始める。


「臨、兵、」

『ま、待って! ねぇお願い! あんたの言うこと何でも聞くからッ!』

「闘、者、」

『ほら、さっきのハンサム! あんたの大事な人なんでしょッ』

「……皆、陣、列」

『また出してあげるよ、あんたの好きにできるように!』


 黙れ。


「在」

『あの人が、あんたを可愛がってくれるようにしたげるし、ねぇってばぁ!』


 黙れよ。


「前」


 刹那のうち、最大量の気を叩き込んだ。

 雷鳴のような破裂音が轟き、爆風が巻き起こる。

 縫い止められた女は、叫び声を上げる余裕もなく端から塵になっていく。跡形もなく消え去るのに、さほどの時間もかからなかった。

 自我を破壊してからの、幽世かくりよへの強制送還。あの霊は、もう自分が人だったということすら思い出せないだろう。


 鏡には、どす黒い影が焼き付いていた。人の形をしたそれは、どうにも解けない呪いの痕だ。

 自分勝手な愛を妄信し、どんな救いの手も届かなくなった、惨めな魂の残滓だった。


 ……って。

 「救いの手」だなんて。初めから救うつもりもなかったくせに。

 ひどい吐き気がする。

 私には、誰かを救うことなんてできない。穢れを穢れとして葬り去ることしか。


 有瀬くんが、邪気の欠片もない口調で訊いてくる。


「弐千佳さん、浄化できたんすか?」

「終わったよ」


 終わった。そうとしか答えられない。


 ぴしり、と音がした。ダーツの刺さった五点を結ぶように、天井の鏡にヒビが入り始めている。

 ぴし、ぴしり。見上げる私の蒼白い顔を映したそこに、蜘蛛の巣状の亀裂が広がっていく。


「え、マズくないすか、あれ」

「いいんだよ。ああなったらもう、鏡ごと処分しないといけないし。元請けとオーナーさんには事前に説明してあるから」

「いや、えっと、そういうことじゃなくて」


 言葉を交わす間にも、ヒビはその手脚を伸ばしていく。もう幾許いくばくも保たないだろう。


「有瀬くん、逃げて」

「えっ⁈」


 鏡の砕ける音が耳を衝く。

 破片が剥がれ落ちてくる。

 私はそれをどこか他人事のような気分で、阿呆みたいに眺めていた。

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