3-7 うつしみの怪

 有瀬ありせくんと手分けして、四方の壁に霊符を貼る。

 一度触れた念に紐付く魂だ。捕まえるのは容易い。

 私は霊符の作る十文字の中心に立ち、両腕を水平に広げ、手のひらを壁に向けた。鏡の上を、バチバチと気が滑っていく。

 部屋を囲う境界線を上書きし終えた私は、胸の前で両手を組み合わせた。

 ぱちん。


コウ


 電流のほとばしるような音が爆ぜた。

 空間に充満させた私の気が、縦横無尽に出入りしていた無関係のモノを一つ残らず弾き出す。

 残ったのは、ターゲットの気配だけ。

 部屋の景観に変化はない。それはが元々この部屋の主ではないということに加えて、長く巣喰ううちに現在の環境へと適応し、変質していることを意味する。


「そろそろ出てきなよ」


 真上の鏡に向かって声を放る。

 私を見下ろす私が、にやりと口元を歪めた。

 濃いモヤが集結していく。やがて鏡から這い出た人型は、宙に躍り出て一回転し、私の目の前の床面に見事着地した。


「ずいぶん身軽だね」

『あんたのスペックよ』


 怨霊は私そっくりの姿のままニヒルに笑うと、今度はロングヘアの女の姿になった。カラーリングしていない黒髪で、前髪はトサカみたいに立っている。身に纏ったワンピースやメイクもまた古臭い。肩パッドが気になる。昭和末期のお嬢さま系OLという感じだ。


『で、何か用?』

「あなたを除霊しにきた者だけど」

『あぁ、なーるへそ。そっちのヤンキーのカレ、あんたの彼氏じゃないワケね。一緒に泊まってンのに、なんにもしないンだもん』


 鼻にかかったような、やけに甘ったるい声で喋る女だ。


「訊いていい? あなたはなぜ、ここに留まってるの」

『留まってるっていうか、この鏡に引っ張られちゃったから仕方なく? この部屋、ひと混みがひどくて最悪よね。弱ってたら魂のエネルギー持ってかれちゃうわ』

「その割には元気そうだね」

『……上の部屋にいたのよ。静かだし広いしね』

「あっ、それで上ばっかで事件が起こってたんだ。分かるわー、やっぱ気分アガる部屋の方がいっすよね」


 リゾート気分の境地に達した有瀬くんはともかく。

 鏡の通路内の気流からして、上方向に行きやすいのは分かるけど。

 それにしては彼女、この401号室でも存在を維持できる程度には力がありそうにも感じる。


 でも、知りたいのはそこじゃない。私はなるべく軽い調子で続けた。


「成仏せずにいるには、何か理由があるんじゃないの。良ければ話聞くよ」

『へぇ、いきなり「悪霊退散!」とかやるワケじゃないのね』

「一方的に力で押さえ付けるのは良くないでしょ。あなた自身が未練なく逝けるんなら、それが一番だし」

『ふゥん……』


 女は値踏みするように私を見てから、ベッドに腰かけて足を組んだ。


『いいわよ、教えたげる。あの日はあたしの二十四歳のバースデーだったの。カレとドライブデートしてたンだ。周りの友達もどんどん結婚してたし、そろそろプロポーズされるンじゃないかなってルンルンしてたのよ。そしたらね——』


 曰く。

 ラブホでヤるだけヤった後、帰り際に別れ話を切り出された。

 近くの空き地、つまり現在このホテルの建っている場所に車を駐めて、話をしているうちに口論になった。

 別れたくないと言ったら、相手が激昂して首を絞めてきた。

 彼女は抵抗し、車内にあった刃物で相手を刺した後、恐ろしくなって自分も手首を切った。


『二股かけられてたの。きっと別れ話が拗れることを想定して、あたしを殺すつもりでナイフを用意してたのよ』

「えっ、それはひどいっすね。浮気した上に殺そうとするとか」

『ヒドいでしょ? 男なんてみんな同じよ……』

「だから女性に乗り移って男を殺したんすね」

『そうよ、女ばっかり泣きを見るのはもうウンザリ』


 同調した有瀬くんに気を良くしたのか、女は大袈裟にしなを作って哀しげな表情をした。

 私は静かに口を開く。


「で? 本当はどうだったの?」

『……どういう意味よ』

「あなたのことを殺すつもりでナイフを準備してた彼氏が、そのナイフを使わずに首を絞めたりしないでしょ。つくならもっとマシな嘘つきなよ」

「ほぇっ⁈ た、確かに……」


 我がアシスタントはちょっと騙されやすすぎるのではなかろうか。


「あなたの念からは、彼氏に対する殺意と共に、強い執着を感じた。ひどく捻れた感情だった。ねぇ、事前にナイフを用意してたのは、本当はあなたの方なんじゃないの? さしずめ浮気されてることに気付いて、殺すか脅すかするつもりだった」


 しばらく私を見据えていた彼女は、悪びれもせずにペロッと舌を出した。


『チェッ、バレたかぁ。仕方ないなぁ……あの日ね、カレがあたしと最後の夜にするつもりでいたの、薄々勘付いてたンだ。あたし、別れるくらいならカレの目の前で死んでやるって思ってた。だけどあたしがナイフを出した瞬間、カレがいきなりプッツンして、首絞めてきて……手の届くトコにナイフがあって良かったわぁ……』


 彼女の周りに、黒いモヤが集結し始めていた。


『他の女のモノになるくらいなら、殺してやるって思った。カレを殺してあたしも死ねば、永遠になれる。だってあの女よりあたしの方が、ずっとずっとカレを愛してるンだから』


 安いメロドラマだな。思っても口には出さない。軽く混ぜっ返して流す段階をとうに超えている。相手の男も、彼女のこういう気質が我慢ならなかったのかもしれない。

 彼女の瞳に浮かぶのは狂気だ。纏う怨念も、ずいぶん凶悪で濁っている。一筋縄では行かない相手だと感じた。


 ……だけどこの時点で、私はある重大なことに気付けていなかった。


『ここね、時たまあたしと相性のいい負の念の持ち主が来るのよ。だからそうゆう時はちょっとあげることにしてるンだ』

「類友ってやつっすね」

「自分と似た気質の念を吸収して、魂を強化したわけか。それで生者を操るくらいの力を持ってるんだ。でも何のためにそんなことするの? わざわざ知らない男を殺すメリットある?」

『……うっさいわね、何だっていいじゃないのよ。あんた、あたしの邪魔をしようって言うンなら、容赦しないわよ』


 濃い念が、突然こちらへ向かってくる。私のテリトリーの中では、大した威力もないけど。

 静かな怒りが湧いた。


「何の罪もない人たちを殺人者にして、無関係の人たちの命を奪って、気は紛れた? そうじゃないでしょ」


 襲いくる念を片手で残らず祓いきると、私はすかさず彼女の視線を。そこから気を流し込む。


「何もかも忘れたらいい。どうにもならない偏執ごと。あなたくらい力があるなら、どこだって行けるよ。わざわざ固執しなくたってね」


 一方的に押さえ付けるのは趣味じゃない。ただ、必要ならばその手段を取る。

 弱らせて、断ち切る。それが最良と判断した。この霊は危険すぎる。


『な、何よ、あんた……』


 こめかみの辺りがチカチカする。さすがに抵抗が強い。更に気を練り込む。

 やがて彼女の表情が苦しげなものに変わっていく。


『うっ……』

「せめて一瞬で送ってあげるから」

『あ、あたし……知ってンのよ……あんたも……』


 酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくさせながら、彼女は切れ切れに言う。


『あたしと、同類でしょ……あんただって、大切な男を殺した……』

「……何を」


 わずかでも動揺してしまったのが不味かった。

 拘束の緩んだ隙に、モヤが染み出してくる。それは私の背後へ回り込み——


「に、弐千佳さん、後ろ!」


 有瀬くんの発した警告で振り返る。

 いつの間にかそこには、新たな人影が生じていた。


「……え?」

『そりゃああたし、こんなトコでこんなコトしてないわよ』


 女は変わらずそこにいる。

 つまり、今この部屋には、の霊体が存在していた。


「急に何事⁈ 誰すかこのスーパーイケメン!」


 それは、すらりとした黒髪の男だった。

 切れ長の涼やかな目元。すっと通った鼻筋。

 男の姿をした霊の、形の良い薄い唇が、甘い声で言葉を紡ぐ。


『弐千佳』


 幻じゃない。確かに目の前にいる。


「嘘……」


 私は無意識のうちに、その名を呼んだ。


壱夜いちや、兄さん……?」

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