3-6 念の通い路

 すぐ目の前に、私がいた。

 振り返っても、私がいた。

 右を見ても、左を見ても。

 どの私も、ひどい顔をしていた。まるでこの世の全ての不幸を一人で背負い込んだかのような。

 自己嫌悪が湧き出す。

 いい加減、受け入れろ。生業だろう。


 正面の自分を睨み付ける。

 するとその奥、またその奥、さらにその奥にも。昏い気を纏った自分の姿が増殖していく。

 どんな悪夢だ。吐き気がする。

 強い目眩を覚えた。ぐるり。世界が反転して——



「……ひゃっ!」


 思わず跳ね起きた。

 暗い部屋。淡い闇を、常夜灯の照らす。

 心臓がばくばく鳴っている。スマホを手繰れば、午前三時すぎ。

 場に根付く念に関わるものは、今晩まだ視られていない。

 だけど、二日連続で見たあの夢は、まるで——


「……弐千佳にちかさん?」


 ソファに横たわっていた有瀬ありせくんが、身を起こしかけている。

 あぁ、そうだ。この部屋に来てもらっていたんだった。


 昨夜、本件の重要な手がかりが十年前のリフォームにあると見当を付けた。私はオーナーに連絡し、その内容の分かる資料を見せてもらうよう依頼した。


『リフォームしたのは、それぞれの部屋の内装や水回りの設備ですよ』


 オーナーからは先に口頭でそう聞いた。


 私たちは今一度、ホテルの中をあちこち調べた。

 しかし怨霊本体の気配は、やはり掴みきれないままだった。トイレや浴室の近くですら、だ。


 三件の事件は、いずれも夜間、男女が501号室にいる時に起きている。

 だから私と有瀬くんが一緒にいたら、何か変化があるかもしれないと踏んだ。


「弐千佳さん、だいじょぶー?」

「ごめん……起こしたね」

「あー、そもそも寝られてないんでー」


 なぜ、と訊くほど馬鹿じゃない。申し訳ないことをしている自覚はあった。

 私も起きていられたら良かったけど、意識を沈めないことには念の中身を覗けない。

 テリトリー内で眠っている時の私は、まるきり負の念の器になる。下手に近づくとロクなことにならないと、有瀬くんには釘を刺してあった。

 その上で不本意な何かが起きるなら、もう仕方ないとも思っていた。


 部屋には、フロントから勝手に借りてきたダーツのセットやオセロが散らかっている。つい先ほど、午前一時ごろまで遊んでいたものだ。

 有瀬くんはダーツが下手だった。だけどオセロは私といい勝負だった。Switchoも貸してもらってやってみたけど、有瀬くんがプレイしているのを見ている方が面白かった。

 弟がいたら、こんな感じなのだろうか。兄とはこういう遊び方をした記憶はない。


「なんか視えました?」

「いや……変な夢見ただけ」

「俺、そっち行った方がいい?」

「大丈夫、問題ない」


 まだ頭の芯が痺れている。有瀬くんの声がやたらと優しく響くのは、そのせいだろう。

 私はベッドから降りて洗面台の前に立ち、冷たい水で顔を洗った。タオルで水気を拭き取り、身を起こす。

 鏡に、私の顔が映る。それが、ひどく歪んで——


「……うわっ!」


 突如、濃い念の塊に襲われた。平衡感覚を失い、その場にへたり込む。

 こめかみに杭を打ち込まれるような頭痛と、臓腑を掻き回されるような吐き気。ノイズのかかる肌感覚の中に、車中で首を絞められていたあの感覚が紛れ込んでくる。同時に、相手の男に対する強い感情も。


「弐千佳さん⁈ うぉぉ⁈ 急に何すかこのモヤ!」


 慌てて駆け寄ってきた有瀬くんを、私は制した。

 落ち着いて、深い呼吸を繰り返す。大丈夫、この念は私の意識と混ざらない。混ざらせてはならない。


 掠れた吐息で呪文を呟きながら、震える手で九字を切る。

 身体の外側と内側から清浄な気が膨れる。纏わり付いていた念が一気に離れ、息苦しさから解放される。

 逃げ道のない部屋で、特濃の念が壁伝いにほとばしった。四方の壁に貼っていた霊符が呆気なく弾け飛ぶ。

 これはよろしくない。


「有瀬くん、窓とドア開けて!」

「はいっ」


 こんなに澱んだ空気の中でも普段と変わりない動きでドアノブに手をかけた有瀬くんが、しかし素っ頓狂な声を上げた。


「あっ……開かないんすけど⁈」


 ベッドの向こうの窓も同じだった。


「うっそマジかよ! この木の蓋すら開かねえじゃん! どうするんすか弐千佳さんっ!」

「念が部屋じゅうにみなぎってるんだろうね。内側からの圧で、密封されたような感じになってるんだ」

「えええ! ……アッ⁈ ねぇ、待って待って、まさかこれって……!」


 有瀬くんは両手で口元を覆い、上目遣いの視線を寄越してくる。


「セッ……しないと出られない部屋なんじゃ……?」

「精算すれば出られる部屋だよ、ラブホなんだから」


 一刀両断。騒いでいる人がいると、逆に冷静になる。

 玄関の横、『お会計』の表示板の下。エアシューターの小窓。有瀬くんがタバコを送ってくれたカプセルがそのまま置いてある。

 私は空のカプセルをパイプにセットし、ボタンを押した。シュパッ!と景気のいい音がして、カプセルが発射される。

 はずみで室内の空気がわずかに動き、念の内膜に小さな綻びができた。その隙にドアを開け放ち、もう一度素早く九字を切る。

 すると黒いモヤはたちまち廊下へ流れ出し、あっという間に霧散した。


「うおーマジ焦ったー」

「ああいう時は念の通り道を作れば何とかなるんだよ」


 501号室には静寂が戻っている。


「さっきの念て、例のやつ?」

「そうだよ。同調してたら意識を乗っ取られてたと思う。過去三件の女性たちは、相手の男に対して多かれ少なかれ負の向きの感情を持ってた。だから取り憑かれちゃったんだ」

「類友ってやつっすね」

「似たもの同士は引き合うからね」

「逃しちゃって大丈夫だったの?」

「今のは念だけだった。あれじゃ霊魂本体は捉えられない。しかも私のテリトリー内で発動させた術で消滅しなかった。どこかから念を操ってたのかも」

「へぇ? でも、やっぱ水回りっすね。念は蛇口から出てきたんかな。設備もリフォームしたみたいだし」

「いや、たぶん違う。オーナーさんからリフォームの詳細をもらったら、きっとはっきりすると思う」



 その日の昼すぎ、オーナーが訪ねてきた。A4の分厚いファイルに入ったリフォームの関係書類の中から、目的の資料を見つける。


 やっぱり、思った通り。


 そうとなれば、頃合いだ。

 私はシャワーを浴び、新しいツナギに着替えた。午前中にしっかり仮眠を取ったので、もう眠気はない。

 一方ソファでうたた寝している有瀬くんを、揺り起こす。


「有瀬くん、そろそろやるよ」

「んー……」


 今日の彼は黒地にイチゴ柄のアロハである。パイナップル、スイカと来て、イチゴ。夏の果物シリーズではなかったらしい。


 いくつかの道具を携えて、二人である場所へと向かう。

 それは。


「ほんとにここなの?」

「そうだよ」


 目の前にある扉の番号は『401』。

 事件現場である501号室の真下の部屋だ。


「行くよ、有瀬くん」

「はい、弐千佳さん」


 ドアを開け、電気を点ける。

 するとそこは、四方の壁を鏡で囲まれた空間だ。どちらを向いても自分の姿が映る。

 そう、私が見たあの悪夢のように。

 全身の皮膚が、ゾッと粟立った。


「怨霊が巣食ってるのは、501号室じゃなかったんだ。水回りも、厳密に言えば関係ない」

「えっ、どゆこと?」

「十年前まで、この401号室は大した特徴のない部屋だった。それがリフォームによって、全面鏡張りに生まれ変わった」


 私は真上を指す。

 天井を一面覆うのは、やはり巨大な鏡だ。


「原因は鏡だよ。この401と501の境い目にある」

「ほんとだ、確かに境い目だ! いや、結局どゆこと⁈」

「……そもそも鏡って、霊的な力を持つアイテムなんだ。三種の神器の一つも鏡だし、鏡の出てくる怪談や都市伝説も多い」


 自分の姿形を映し、跳ね返す。良いものも悪いものも、そっくりそのまま。古代の人にとっては畏るべきものだったに違いない。

 鏡の影響力は、それが紡ぎ出す像のみならず、気や霊魂といった通常では視認できないものにまで及ぶ。

 除霊を生業とする者ならば、誰しも一度は鏡の関わる怪異に遭遇したことがあるはずだ。


「有瀬くんは、合わせ鏡って知ってる?」

「二枚の鏡を向かい合わせにするやつっすよね。鏡の中に鏡が映るっていう」

「そう。この部屋には、二組の合わせ鏡があるでしょ」

「あー! 確かにそっすね」


 四方の壁が鏡。それぞれに向かい合わせた鏡が、対面の鏡を映す構造だ。

 現に私たちの前にある鏡も後方の壁に映った像を反映しており、その奥には正面向きと背面の私たちの姿が互い違いに延々続いている。

 まるで、無限回廊に迷い込んだみたいに。


「合わせ鏡は、異界との連絡通路になりやすい。閉鎖空間でも道が通じちゃうんだ。この部屋は二本の通路の交差点になってる。しかもホテル街のエリアのど真ん中で、浮遊霊やら雑多な念やらが引き寄せられて無数に行き交ってる。霊的なものにとっては

「やっぱそっすか。この部屋、めちゃくちゃ鳥肌立つんで。なんか空気がざわざわして視えるのもそれかぁ」

「敏感な人は、ここでしばらくご休憩するだけで気分悪くなるだろうね」


 私は部屋をぐるりと見回す。


「鏡に映る像は、左右だけが入れ替わって、天地は変わらない。この交差点にしても、それだけなら並行移動のみの通路だ。でも」


 もう一度、上を指す。


「この天井の鏡だよ。壁面に映るものが天井にも映り込んじゃうでしょ。上方向にも通路があるってことだ。すると、ここに上向きの流れが発生する。霊的存在に強く働きかける気の流れだよ。そのせいで、この土地区画に建物で蓋をされて封じられてた三十七年前の地縛霊が、刺激を受けて活性化し、引き寄せられた」


 見上げた鏡の中では天地が逆転していた。もう一人の私が天井に足を付けてぶら下がっている。


「このホテルの一階部分は半分がピロティの駐車場で、半地下になってるでしょ。そこは蓋が薄かったんだろうね。ひとたび地上に引き上げられれば、霊気の流れに乗って、この部屋まで引っ張られてしまう」


 区切られたエリア。四方の壁を囲う鏡。天井の鏡。半地下の土地。どれ一つ欠けても、こうはならなかったはずだ。


「合わせ鏡の通路をくぐれば、鏡の向こう側の世界にも行ける。向こう側同士は繋がってるから、あっちに入り込んだ霊体や念は鏡から別の鏡へ行き来できるようになるんだよ」

「そっか! 念は水回りから湧いたんじゃなくて、洗面台とか風呂場とかの鏡から出てきてたんすね!」

「そういうこと」


 有瀬くんが首を傾げた。


「でも、なんでこの部屋では何も起きずに、上の部屋だけで事件が起きるの?」

「それはに訊いてみようか」

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