2-7 Not Found

「人知れず失われた命?」


 おうむ返しに言った有瀬ありせくんが、仏壇の写真と女の子を見比べている。


 動かない女の子の肩に、私はそっと手を伸ばす。霊体ではなくただの思念の塊だから、私のテリトリー内であっても触れられずにす抜けてしまう。

 だけどその瞬間、彼女の記憶が一気に流れ込んできた。

 鼓動が強く脈打つ。視界が眩む。軽く意識が飛びかけるのを、腹に力を込めて耐える。


「……彼女、小学五年生の時に事故でお母さんを亡くした。このマンションに越してきたのは中学入学前。新しい環境で友達がなかなかできなくて、孤独だったみたい。父親はエリートで神経質なタイプだった。奥さんを亡くしてから特に精神不安定で、酒に酔うと性格が豹変した。それで、自分の娘を……」


 言葉にするのもおぞましい。

 奥歯を噛み締めて吐いた息は、ひどく震えていた。

 ゆっくり呼吸をして、ざわめく心臓を落ち着ける。


「彼女、一度妊娠した」


 有瀬くんの、息を呑む音が聞こえた。


「……でもその後も繰り返された暴力のせいで、流れてしまった。だから、誰にも気付かれなかった。そして、誰に言うこともできなかった」


 私は少女の幻影を後ろからそっと抱き締めた。十五年前の彼女の姿は、何の手応えもないまま、すぅっと消えてしまった。

 入れ替わるように、私は仏壇の前に姿勢を正して座る。開いた観音扉の奥に、位牌と写真立てが並んでいる。

 写真の母親は、笑顔のまま動かない。

 じくじくと胸が痛んだ。彼女を真似て、静かに手を合わせる。


「恐怖と諦め、絶望と無気力……望まない妊娠だったとはいえ、自分の中で命が潰えたこと。どうして自分がこんな目に遭うのか。父親に対してはもちろんのこと、亡くなった母親に対してすら恨みが湧いた。なぜ自分を置いて逝ったのか。なぜ自分を産んだのか。生まれてしまった自分と、生まれなかった命と。なかったことにされた。なかったことにしたかった。初めから、何もかも」


 一旦そこまで吐き出して、自分の気を落ち着ける。引っ張られてはいけない。


「行き場のない負の念は、行き場のない魂を繋ぎ止めるのに十分だった。すなわち、生まれることなく消えた命を、この場所に縛り付けた」


 それまで黙っていた有瀬くんが口を開く。


「じゃあ、俺のSwitchoの画面に出た人間の赤ちゃんみたいなアレは」

「赤ちゃんだったんだよ。たぶん彼女の想像した姿がそれだったんじゃないかな」


 具現化したイメージ。誰かに気付いてほしかったのかもしれない。


「うちの寺も、たまに水子供養やってるみたいです。でもそれは元々、生まれることを望まれてた命なんすよね……」

「『水子』って言葉は、『この世を見ずに亡くなった子』という嘆きの想いから来てるって俗説がある。でもここに留め置かれた魂は、この世を見ることを初めから許されなかった命なんだ」


 改めて、仏壇に向き直る。


「このクローゼットは403号室と405号室の境目にある。奇しくも、不吉な死のイメージを避けるために省かれた数字が位置する場所だよ」

「幻の404号室」

「うん、そう捉えてもいいと思う。そこへ霊的な力を纏いやすい仏壇が置かれ、潰えた魂を縛り付ける負の念を注ぎ込まれた。このことで、不吉な404の概念がへ繋がる扉になってしまった」

「だからこっちの壁の方が感じだったんすね」

「ここから滲み出た負の力が、代々の住人に不幸をもたらしてたんだ。存在を許されなかったものが、そういう強い力を持ってしまった」

「それで呪いの部屋みたいに」


 有瀬くんが壁に手を触れた。

 今は私の結界が強固に働いているから、一時的に『扉』は不通となっている。


「二年前に集団自殺した三人の女性は、に引っ張られちゃったんだろうね。この念に親和性のある闇を、それぞれ抱えてた。家庭に問題のあった人たち。同質の負の念は強く同調し、増幅する」

「類友ってやつっすね……」

「加えて、三人とも三十代から四十代の女性だ。あの女の子の母親と同世代で、なおかつ胎児の魂にとっても母になり得る『女性』だった」

「お母さんが、欲しかったんだ……」


 胸が潰れそうになる。

 ここで同調しすぎてはいけない。テリトリー下でも油断は禁物だ。

 私も、引っ張られたから。


 気張れ、無量むりょう 弐千佳にちか


「さて、浄化を始めようか」


 部屋の中では、闇の気配が濃さを増しつつある。仏壇の中にある魂の存在も、既にくっきり輪郭を感じられるほどに。


「弐千佳さん、今回みたいな場合はどうするんすか? こないだのミホコさんとはコミュニケーション取れたけど」

「有瀬くんの言う通り、この子と言葉を交わすことはできない。九字を切れば念を消滅させられるけど、魂ごと吹き飛ばすことになってしまう。だから、私の身体を使って念を魂から引き剥がす」

「身体を使う? どうやって?」

「私のに霊魂を入れて保護して、染み込んだ念だけを浄化してから取り出すんだよ。濾過器みたいに」

「濾過器みたいに、って?」

「女の身体には元々、澱んだものを排出する機能があるでしょ」


 生理が早めに来たのは、直観的にこれを予期したからなのかもしれない。ショーツには夜用羽付き四十センチのものを当ててある。

 ちょっと気合いの要る手段だ。可能ならば避けたいと思う程度には。


「ほんと言うと、この手を使うとこ、あんまり見せたくなかったんだけど」

「えっ、出てた方がいっすか俺」

「今は術の最中だから部屋を出られない。見せたくないのは、単に私がみっともない状態になるからってだけ。ドン引きするかも」

「……引きませんよ」


 真面目なトーンで言った有瀬くんに、私は小さく口角を上げてみせた。


 今一度、身の内で気をよく練る。いつもより丹念に。

 そして仏壇へ向けて両手を伸ばす。


「おいで」


 周囲に張り巡らせた気に流れを作り出し、ターゲットの魂を引き寄せる。

 やがて、仏壇の中から握り拳ほどの魂が姿を現した。小さな小さな胎児が、膝を抱えて背を丸めた格好をしている。

 私はその魂を両腕で包み込む。胎児は、私の下腹部へと深く沈んで見えなくなった。


 途端、闇に染まり抜いた念が、胎内から全身へと拡がった。

 内側を業火で焼かれるような激烈な痛み。それは脈打ちながら強さを増し、私の骨盤を、脊椎を、内臓を圧迫する。


「……ん」


 大丈夫、物理的な痛みだけだ。精神には侵食させない。絶対に。

 震える膝に力を入れ、奥歯を噛み締める。油断すると嘔吐しそうだ。

 鼻から吸って口から吐く浅い呼吸を短いピッチで繰り返し、どうにか痛みを逃す。


 魂が暴れていた。

 それはさながら、声なき叫びのようでもあった。

 なかったことになんて、できるはずもない。

 彼女の感じた痛みも、傷も、確かにあった。簡単に消せるわけがない。


「だ、大丈夫すか……」


 問われても、答える余裕はない。

 心臓の鼓動すら、棘のようにはらへと響いている。

 そのうちに、魂は私の内部にぴたりと納まった。そう、それでいい。ここにいていいよ。少しの間で申し訳ないけど。

 ぎゅっと縮こまろうとする我が身を律して、私は印を結び始めた。


「臨、兵、闘、者……」


 声が掠れ、息が切れる。波となって襲いくる痛みで、わずかに意識が遠のく。

 集中を、切らすな。


「皆、陣、列、在……」


 必ず清める。

 必ず、解放する。


「前」


 最後の呪文と印。

 周囲で湧き起こる清浄な霊気。

 また自分の内側からも爆発的に気が膨れ上がり、強い波動が生じる。

 腰椎から、それぞれ脳天と爪先へ。高圧電流みたいな凄まじい衝撃が走った。

 とうとう私はその場に膝をつく。


「弐千佳さん!」

「あと、ちょっと、だから……」


 子宮が膨張と収縮を繰り返している。

 排出衝動と共に、膣からどろりとした塊が吐き出される。

 痛みは未だ胎内を苛んでいる。負の念の凝縮した澱みを、全て出し切るまで続く痛みが。

 片手をついて身体を支えつつ、逆の手で口元を覆う。全身から汗が吹き出す。自分の心音がうるさい。後はきちんと正しく呼吸をして、時が過ぎるのを待つしかない。


 出産を経験したことはもちろんない。

 私が産むのは、棄てるべきものだけだ。


「弐千佳さん、大丈夫すか」


 すぐ側にやってきた有瀬くんが、背中をさすってくれる。大きくて温かな手だった。

 さりとて、今触らないでほしい。煩わしく思ったのも束の間。

 痛みが、急速に引き始めた。


「……え?」


 浄化が失敗したのかと、一瞬ひやりとした。

 だけど澱みは問題なく排出され続けている。

 痛みだけが、綺麗に消えていた。何が起きているのか分からなかった。


「あ……」


 反動で全身から力が抜ける。

 バランスを崩して顔から倒れ込みそうになったところを、広い胸に抱き留められる。


「弐千佳さんっ?」

「だ、大丈……んぅ……っ」


 何度かまた、澱みの吐き出される衝動があった。麻酔でも効いているみたいに、ただ流れるばかりの経血が流れた。

 痛みさえなければ、むしろ絶頂の快感に近い。いずれにしても意識は霞む。

 抗いようもない衝動の波も収まるころには、私の中の魂はずいぶん軽くなっていた。


 気付くと、有瀬くんに抱き締められるような恰好だった。長い両腕がいつの間にか私の背中に回っている。

 暖かな匂いがする。日向の匂いだ。未だどくんどくんと大きく脈打つ音は、有瀬くんの心音であるらしい。

 生きている者の身体だ。


「もう、済んだから」

「あっはい……」


 身を離して、呼吸を整える。

 部屋の結界を解く。

 すっかり浄化された魂が、私の身体から浮き上がる。


 この子を縛り付けるものは、もう何もなくなった。


 私は虚脱感に包まれたまま、視線だけでその行く先を追う。

 小さな魂は柔らかな光に包まれ、音もなくゆっくりと昇っていった。

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