2-6 真実の狭間

 白い天井。薄暗い蛍光灯のともる。

 過去の幻影だ。私は常夜灯にして眠りに就いたから。


 ふと、線香の匂いを嗅いだ気がした。

 その匂いには、ひどく重い念が混じっていた。少し吸い込んだだけで、わずかな身じろぎすらも難しくなるほどの。

 自由の利かない寝袋にくるまったまま、どうにか首を巡らせる。壁際にある背の低いチェストが目に入り、その隣に——


 誰か、いる。

 クローゼットに納まった、コンパクトな仏壇の前。

 正座で背筋を伸ばした姿。

 ぼんやりしていたその人影は、集中すればはっきりと視えてくる。

 二つ結びの黒い髪。それが、両肩に垂れている。

 襟。セーラー服の襟だ。

 そう認識した途端、一気に視界がクリアになる。

 セーラー服の女の子。中学生くらいか。静かに合掌する、後ろ姿ではその表情は確認できない。

 ぞくりと全身の皮膚が粟立った。

 彼女から、凄まじい怨念を感じる。

 まだ年若い少女が放っているとは信じられない。

 仏壇を拝む姿勢を取りながら、何をそれほど呪っているのだろう。


 とん、とん、とん。

 廊下から足音が聞こえた。昨日の幻影で聞いたのと同じ、男のものだ。

 女の子がびくりと身をすくませた。明らかに怯えている。

 足音は部屋の前で止まった。

 彼女が弾かれたように振り返り、身構える。蒼ざめた顔はまだあどけない。

 そして、扉が、ノックもなく開けられ——



 パチン!

 ひときわ大きなラップ音で、幻影が消え去った。

 壁に貼った霊符がまた剥がれ、落ちてくる。

 私の身体はまるで呪縛から解かれたように自由を取り戻す。

 心臓がざわめいていた。


 さっきの女の子。大人しそうな子だった。

 あの後、どんなことが起きたのか。

 この部屋で、誰に、何をされていたのか。

 想像しただけで吐きそうになる。嫌悪感で身が凍るような、臓腑が煮えるような気分だ。


 下腹部がちくちく痛い。今日は生理二日目。少し身動きしただけで、膣からごぷりと経血が吐き出される。

 私は私で女の重い身体を抱えて、やっと寝袋から這い出した。



「んじゃあ、つまりその女の子の霊が、この部屋で妙な現象を引き起こしてるってこと?」

「まだ断定はできないけどね」

「何にしてもひでえ話っすね。家族からやられてたってことでしょ? 家ん中が安全じゃねえなんて」


 今日は可愛いヒヨコ柄のアロハシャツを着た有瀬ありせくんは、昨夜の肉じゃがの残りと白飯をもりもり食べながら眉根を寄せる。

 私はごはんを一口分噛み潰して飲み下しただけで割り箸を置いた。


「有瀬くんの方では、何か気付いた?」

「昨夜は疲れてたんで、ゲームもやらずに寝ちゃったんすよね」

「そっか……でもまぁ、だいたい材料が揃ってきた感じはする」


 本当に早く解決してしまおう、こんな案件。胸に渦巻くモヤモヤが、溜め息として零れ出る。


 有瀬くんがちらと私の顔を窺った。


弐千佳にちかさん、お茶漬け食います?」

「え?」

「食いましょ。インスタントのやつだから、すぐできます」


 湯沸かしポットの電源が入れられ、程なくして私の白飯は鮭茶漬けに変貌を遂げた。

 ふうふう冷ましながら啜れば、少し濃いめの塩気がちょうど良くて、すんなりと喉を通る。冷えたお腹に沁みた。


「美味しい……」

「良かった」


 そうだ、有瀬くんは正しい。こういう時こそ、ちゃんと食べるべきだ。



 大黒ジュニアから着信があったのは、午後四時過ぎだった。


『マンションのオーナーの方から、気になる話を聞きました』


 個人情報に関わることなので内々だけの話ということにしてほしいと、抑揚の乏しい声が告げる。


『十五年ほど前のことなんですが、403号室へ、警察が訪ねてきたことがあったそうです。男性の怒鳴り声がするという通報があったらしく』

「何があったんですか?」

『当時の入居者は、マンション新築時からの住人の方で、父親と中学生の娘さんの親子でした。その時は「躾の一環」だとかですぐ収まったようですが、それから半年経たないうちに退居されたそうです。噂によると、児童相談所の介入もあったとかで』


 予想の範囲内だ。

 十五年前に中学生だったなら、私と同年代くらいだろう。


「娘さんは、大丈夫だったんですか?」

『詳細までは何とも。その後どこへ行かれたのか、今どうしているのかも分かりません』

「……入居中に亡くなったとかいうわけでは」

『ありません。昨日もお伝えしましたが、403号室が事故物件となったのは二年前の集団自殺事件が初めてです』


 どういうことだ。


「ちなみにそのご家族のお母さんは?」

『さぁ。記録上、ご入居時点で既にお二人でしたので。ご離婚なのか、亡くなられたのか、こちらでは分かりかねます』

「そうですか」


 仏壇があるからには、亡くなっているのだろうけど。その亡霊がいる可能性は十分考えられる。


 大黒ジュニアに礼を言って通話を終了し、タバコを掴んでベランダに出た。

 見知らぬ街。見知らぬ家々。

 それぞれの家庭に生活の営みがある。

 その中で何が起きているのか、外側からでは分からない。

 この403号室で行われていた虐待も、誰かが通報でもしなければ、表沙汰にはならなかったかもしれない。


 室内へと戻る。

 有瀬くんはゲームを中断して顔を上げた。


「弐千佳さん、さっきの電話で何か分かりました?」

「うん。この部屋、十五年くらい前に警察が来たことがあったらしい。父親から娘への虐待の疑いで。でもその当時に誰か亡くなったわけじゃないみたい。結局何者の霊なのか、まだはっきりしないよ」

「実は人間の霊じゃないとか」

「ペット禁止だよ、このマンション」


 こっそり飼う人もいるだろうけど。


 有瀬くんはゲーム機に視線を戻す。


「やっぱ昼間はあんまり何も起きないっすねー。ポコモンもあれから正常なんすよ。なんかレアモンスター出ねえかな。昨日の心霊現象のやつじゃなくてもいいから」


 昨日の心霊現象のやつ、というと。


「……あ」


 その瞬間、私の中で何かが繋がった。

 そうか。そういうことなのかも。


「私、今からちょっとシャワー浴びるわ」

「へっ? いっすけど、この時間に?」

「その後、除霊に入るから」


 私は有瀬くんにそう告げて、脱衣所へ移動した。

 黒いツナギを脱ぎ去り、白い浴室に身一つで入る。知らず知らずにかいていた嫌な汗や、内腿を滑り落ちていく真っ赤な経血もろとも、熱いシャワーで洗い流す。

 いつもこの瞬間、心がすっと落ち着く。正常で平静な私に、調っていく。

 新しい黒いツナギに着替え、鴉みたいな濡れ髪を乾かす。洗面台の鏡に映った顔は白い。だけどいつもよりマシな顔色に思えるのは、きちんと食事を摂ったからかもしれない。


 居間では、傾きかけた陽の光が窓から斜めに差し込んでいた。

 有瀬くんは胡座あぐらをかいて、ぽぅっとしている。


「有瀬くん何してるの」

「日向ぼっこー」


 いささか眠そうな声。

 ここまでマイペースにリラックスできる図太さは、少し羨ましくもある。


「じゃあ私、今からやってくるわ。有瀬くんは……ここにいた方がいいかも」

「えっ、やっぱ男がいるとマズい感じ?」

「そういうわけじゃない。私の主導権下なら問題ないよ。ただ正直あんまり気分のいいものじゃないだろうから」

「いや、ぜんぜん大丈夫っ! 真相気になるし」

「うーん、まぁ、そう言うなら」


 軽やかに立ち上がった有瀬くんは、しかしすぐさま動きを止めた。


「あっ……もしや俺も風呂入った方がいい?」

「別にいいよ。あれは単なる私のルーティン」

「弐千佳さんは、なんで除霊の前に風呂入るの?」


 改めてちょっと考えた。

 悪い気を落とすとか、身を清めるとか、いろいろあるけど。


「ちゃんと向き合いたいから、かな」

「霊と?」

「そうだよ」


 有瀬くんは合点がいったように頷く。


「なんか分かるかも。推しのアーティストのライブとか行く時に、体調整えて気合い入れたカッコして万全の体制で参戦する感じのアレっすね!」

「共通項の見出し方がアクロバティック」


 心構えを作るという点では確かに同じかもしれないけど。


 北西の部屋は相変わらず薄暗く、ひんやりしていた。

 私は荷物の中から新たな霊符を四枚取り出し、この一室を囲う四方の壁に貼る。


「この部屋だけでいいの?」

「403号室全体の結界は、玄関が鬼門の方位にあるせいで弱まりやすい。だからこの部屋だけもう一段階強く張り直した」


 時刻はそろそろ夕刻だ。

 私は目を閉じ、小さく呼吸を繰り返す。

 とざされた空間の中、私という容れ物の内側で、濃い気を練る。


 窓の外が闇色を深めていく。

 405号室との境目の壁面から、念の気配がぞわりと動き出す。青白い照明が不安定に瞬いた。

 ……来た。


 私は腕を水平に広げた。前後左右の霊符が反応する。負の念を織り交ぜた私の気が壁をほとばしり、部屋の空間を区切り直す。

 そして両手を胸の前で組み合わせる。ぱちん、空気が爆ぜる。


コウ


 刹那。

 四角い空間が、たちまちのうちに一変する。

 敷かれた布団。学習机。三段のローチェスト。

 クローゼットの中には小ぶりな仏壇。それを前にして、こちらへ背を向けて正座している、セーラー服の女の子。


「うおお、やべえ。仏壇てこれかー。シンプルなやつっすね。やっぱこの女の子が幽霊?」


 有瀬くんが回り込んで彼女の顔を見る。

 彼女はわずかたりとも姿勢を崩さない。


「違うよ、それはただの残留思念。魂を持った霊体じゃない」

「え? じゃあ何が心霊現象を起こしてるの?」

「あれだよ」


 私は仏壇を指さす。

 位牌の隣には写真立て。そこに写っているのは、優しそうな笑顔の女性だ。

 女の子は、写真の女性を睨んでいるように見える。歪んで捻じ曲がった念を以て。


「あーなるほど、お母さんの霊なんすね」

「違う。仏壇はお母さんのだろうけど」


 今、確信を持って言える。


「この部屋で、人知れず失われた命があったんだ。記録に残らない状況でね。その魂が、あの仏壇の中に宿ってる」

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